絶望の歯車は回り始めた
「これで、50本め、っと」
振り上げた斧を、力いっぱい、目の前に立てかけられた、木に向かって、それがパキッという小気味よい音を出して、割れるまで、何度も何度も振り下ろす。
最初のほうは、今まで何度もやってきたためか、スイスイできるのだけれども、段々腕や衝撃が直接くる、掌は疲れていって、最後のほうになると。芯を外して、変な場所に斧が課することもある。
大体いつも作業が終わるころには、日も、高くに上っていて、お腹の虫も空く頃になる。
僕は、疲労困憊の体を引きずって、辺りに散らばった薪を、ピラミッド状に積み上げる、最後の締めに取り掛かったわけだが、そこで一人の男が俺に声をかけてきた。
「やぁやぁ、今日も仕事に精が出ますねぇ。いやはや、感心、感心」
「また、お前か……」
それは見知った顔の奴だった。茶色のくせ毛に、レッドフレームの眼鏡。鋭い目つきと、だらしのない口元、肌はよく日に焼けて、茶褐色で、パッと見チャラ男の印象が強い。
だが、実際は、名前こそ知らないけれど、いつもこの時間になったらやってきて色々とどこから仕入れたのかもわからない情報を提供してくれるいわば、情報屋なのだ。
しかし、真実と、嘘とが、半々ぐらいの割合だからいっそうたちが悪い。
「また、お前か、とはつれないね。せっかく同じ時期にここに来て、ともに今日まで生き残ってきたというのに」
彼はケロッとした様子でそう言った。まったく白々しいやつだと思う。
「お前って、本当に食えない奴だよな」
「当たり前でしょ。人間を食うなんて、君は、グールか、何かかい?」
別にそういう意味で言ったわけじゃない。馬鹿にしているのか。
「ははは、冗談、冗談、マイケルジョーダンってね。君の気をほぐすために言ったちょっとしたユーモアのつもりだったんだよ」
そうして、彼は僕と肩を組んできた。本当になれなれしいやつだとは思う。
「離せよな」
俺は、腕で彼の体を押しのけた。
「全く、本当につれないね、君は」
「余計のお世話だ」
とにかく作業を早く終わらせなければいけない。午前中までにすべてを終わらせないと文字通り殺されてしまうからな。
「完全に心が荒んでいるようだね。ひどい顔をしているし。出会った当初よりもね」
「今の自分、どんな顔してるよ?」
「そうさな、顔色も悪いし、目つきとかは悪人のそれだし、何より全体的な雰囲気が、絶望に毒され過ぎていて、普通の人間は近寄りがたいっていうかね。まぁ、こんなところで、3ヶ月も生きてきたら、そうなるのは当然だろうけどね」
彼は、ハハ、と苦笑いをした。風に消えてしまいそうなほど繊細な笑い声だった。かなり彼自身も精神的に参っているのだろう。
それを見て、俺は、木を慎重に、崩さないように積み上げながら、
「逆によく、そんな下らない冗談を言っていられるよな。俺だったら、無理だ。テンションさえも保てない」
実際、この朝の彼との会話を楽しいと思っている俺がいることも確かなのだ。それは、数分のことなのだけれど、確実に俺の心の支えになっている。
あらかたの学生が悪に染まり、殺人、暴虐に手を染めていく中で、冗談を口にし、いまだに、人を信じて話しかけてくれるということは、なかなか出来るものじゃない。
普通ならば、雰囲気に流され、恐怖に駆られ、人間の本性を丸出しにし、弱者を排斥しにかかるというのに。
そういう意味では、尊敬の念すらも覚えるくらいだ。
例えば、今だって、そっと俺の隣にしゃがみ込んで、作業を手伝ってくれるところとか、まさにそうだ。
「いやいや、買いかぶりすぎだよ。お恥ずかしながら、俺の方こそ。誰かと、こうして、馬鹿話でもしていないと、自分を保てそうにないからさ。殺人なんて死んでも犯したくないからね」
「あぁ、その意見に関しては、俺も、賛成だね。人殺しなんて、絶対にやっちゃいけない」
校庭から聞こえる喧騒は、一向に収まりを見せることはない。
この世界は狂っている。普通なら、破壊も暴力も殺人も窃盗も人間の倫理観に基づいて、悪とみなされ、徹底的に弾圧されるものである。
だからこそ、そういう行為はやってはいけないという判断を下せることで、平和が保たれていたのに、この世界では秩序と正義が跡形もなく破壊され、悪が跋扈し、絶望が、人間性をはじめとした希望を蹂躙する世界だ。
しかも、ほとんどがそれに、疑問を覚えていない。学生なのに、真にカーストが出来上がっていて、絶対服従が上と下をつなぐたった一つのコミュニケーションである。
「ただね、今日俺が来たのは、もちろん、耳寄りな情報を持ってきたからなんだけど、これが結構俺たちにとっては一つの転換点となるものなんだよね。もし、これを聞くんだとしたら、かなりの覚悟がいるけど。どう、聞く?」
彼を、見ると、彼は作業をやめ、俺の目を食い入るように見つめてきた。
大きな転換点? 覚悟がいる?
何だか嘘くさいな。今回は嘘の情報かもしれない。だって、この世界にまだ変革が訪れるだなんてそう簡単に信じられるような話じゃない。
とはいえ、彼がここまで、真面目な顔で話してきたのもおそらく今日が初めてのことで、そのせいか俺の心のどこかで、それを聞かなくては、全てが始まらない気がした。
「さぁ、どうする? 聞くか聞かないかは、君次第だけど?」
君次第という、責任を放る言葉が重くのしかかってきた。
ここで、聞かなかったら、俺と彼の関係はそこで終わりなのだろうか? もう二度と僕の目の前に姿を現さないかもしれない。
それだけのはかなさが彼の目にはあった。だから、俺は少し時間を要して考えた挙句、答えを出した。
「よし、その情報について聞こう。教えてくれ」
彼は、ハトが豆鉄砲と食らったような顔をしたが、すぐに笑顔になって、
「よし、そうこなくっちゃ! その肝っ玉のでかさ、さすがだぜ、ブラザー」
「誰が、ブラザーだよ。馴れ馴れしいな」
「ちょっと、ひどくない!? 今、すごく友情の暖かさが垣間見えた感じだったのに」
「別に俺はお前に対して友情を感じたことは一切ないぞ」
「ひどいや!? ……しくしく、こっちは、君に対して友情を超えた恋慕の念を抱いているというのに。つれないわね」
涙流しながらハンカチ噛むとかどこの昼ドラの夫に不倫された奥さんだよ。今周りに人がいなくて本当によかった。
マジで自分まで変人だと思われたらたまったものじゃない。
「そういう人間とは思えない気色悪さは出さなくていいから、早くその情報とやらを教えてくれ」
「人間以下っていうのはちょっと看過できないところだけど、まぁ、確かに君の言うとおりだしね。さくっとこの作業を片付けつつ、教えちゃおう」
そうして、彼は、手を動かすスピードを速めた。俺もそれに見習って、どんどん積み上げていき、ものの10分ですべてが完了した。
やっぱり一人でやるのと二人でやるのとじゃ、スピードにしても精神的な面でも全然違うな。
俺たちは、そのまま、くすんだ灰色の校舎に壁に背を預けて地面に座り込んだ。校舎裏ということもあってか、柵の手前まで、雑草が無秩序に、生え、手前の、水草と苔が繁茂した池からは、独特の臭いがする。
くすんだ灰色の壁には、人間がたまりやすいということもあってか、下劣な落書きをはじめとして見るに堪えないことになっていた。
「単刀直入にいうとね。今、使徒たちが動き始めているらしいんだ」
そう口火を切ったのは、彼だった。清冽な視線が事の重大さを物語っていた。
やはり、聞いてよかったと思った。
「動き始めた?」
「あぁ、使徒の階層の連中が、無能力者を路地裏に引き込んでは、暴行を加えているらしく、しかも、それが度を行き過ぎているらしい」
「それはどのくらいなんだ?」
「聞いたところによれば、既に、15人が、被害にあっているらしく、そのうち10人が死亡、あとは重症で、意識不明もちらほらといるらしい」
そうか。人が死んでいるのか。それも10人も。かなり、問題だな。
「しかも、たちが悪いのが、統治政府の公認という点だ」
統治政府とは、この都市の管轄を国より任された本来の国家を治める政府に従う全く別の政府である。学生が内閣に名を連ね、運営を行っているため、たかが知れていると侮られがちだが、実際は、権力の及ぶ範囲が小さいというだけで、それ以外は何ら従来の政治活動と相違がない。
彼らは、無能力者にも、能力者にも平等かつ公正に接しなくてはいけないのだが、その彼らが、使徒の残虐行為を認めているということはつまり。
「統治政府は、今の首領に代わってから、世間体こそ整えてはいるようだけど、首脳陣が無能力者を徹底的に嫌っているようだから、本当に大きな問題を起こさな限りは使徒の無能力者に対する行為は大方何でも許されているらしい。全く。内弁慶もいいところだ」
ということは、つまり、他の人に助けを求めることはできないということ。
となると、後は、自分たちで身を守るわけしかないのだけれど。
「あっ、わかっていると思うけど、ゆめゆめ一人で、使徒に戦いを挑うだなんて、思うなよ。勝てるわけがないんだから」
「改めて言われるまでもないさっ」
多くの無能力者が、反乱を起こして、その全てが完膚なきまでに叩き潰されたことを知っている。
だからこそ、最初からその可能性は万に一つもないものとして頭の中から消していた。
「……というか、お前の情報は本当なんだよね?」
まさか、こんなことで冗談を言うような奴じゃないことはよくわかっているつもりだが、一応、嘘であってほしい、という希望も交えつつ、そうたずねると、
「嘘なわけないだろ。何言っているんだ」
そうですよねー。いや、わかってはいたんだけど、あまりにも理不尽すぎて、笑いたくなっちゃうというかね。
俺たちは何なんだ。使徒の奴らはどうしてそこまで迫害する必要があるんだ。十分に僕たちは苦しんでいる。不当な扱いだって受けている。
それなのに、どうして、命まで奪おうとするんだ。
「くそっ」
使徒たちの苛烈な暴力に対する怒りと、全くどうしていいか見当もつかない自分に対する無力感。
その二つが相まって、俺は、壁を何度も殴りつけた。すぐに手は赤くなり、痛みが体を駆け抜けたが、それでも、手を止めなかった。
「まぁまぁ。君の心中はよく察するけど」
「何で、お前は、そんなに蚊帳の外のように振舞っていられるんだよ! むかつかないのか。悔しくないのか。怖くないのか!」
「そうだね……まぁ、怖いっちゃ怖いかな」
「だとしたら、どうして」
「どうして、そんなに余裕があるかって?」
彼は眼鏡を食いっと上げると、にやりと笑い、そう言って、指を俺に突き付けてから
「俺は」
「よーし、薪割り終わったかー」
と、大事なところで、統制官が、会話を断ち切るように、やって来てしまった。
「おい、貴様、何で、そんなところにいる?」
しかも、目ざとく僕の隣に座る彼の存在に気づいた統制官は、睥睨した。本来、こういった懲罰作業は、一人でやるのがルールであり、誰かが申し出もせずに協力した場合、その協力した側のみが、罰せられる。
その規則をきちんと彼も知っているので、あたふたしながら、
「いやですね。あのその、さっき、そこで、腰を痛めてしまいまして、苦しんでいたところを、彼におんぶしてもらったんですよ! いや、何という人情の素晴らしさ。 人の優しさってやつです。はい!」
おいおい、言い訳にしてはひどすぎじゃないか。その若さで腰を痛めるとか、小学生でも考え付きそうだぞ。
まずいまずいぞ。このままだと、あっけなく嘘が見破られて、罰せられてしまう。何とか穏便に済ますような巧妙な言い訳を考えなくては。
「……そうか。なら、仕方ないな。まぁ、作業も終わっていることだし、これでよし。あとは自由時間とする」
そう言い残してすたすたと、何事もなかったように、すたすたと立ち去ってしまった。
俺たちはそれを呆然とした様子で見送っていたが、彼が視界から消えると、ふいに、
「ふいー。良かった。良かった。俺のうまい訳のおかげで難を逃れたぜい。感謝しろよ。シスター」
「やかましいよ! 意味が分からんわ。あれで、ころっと騙された、統制官も統制官だけど、とっさに思いついた言い訳が、ふざけてんだろ、なぁ」
「まぁまぁ。そう、怒らないでよ。問題は、起きなかったんだからさ」
「まぁ、それはそうかもしれないけどさ」
「あぁ、そうだ。俺、用事を思い出した! ちょっと行かなくちゃいけない!」
彼はそう言って急に立ち上がると、そのまま駈け出そうとしたので
「おい、ちょっと、僕はどうすれば、いいんだ。その、使徒の無差別なリンチから、助かるには」
彼は、はたと立ち止まると、ポケットから紙とペンを取出し、何かぐしゃぐしゃと、書きつけると
「明日の午後8時。ここに来てくれ」
そして、持っていた紙を放り投げると今度こそ走り去ってしまった。
「まったく、なんなんだ、あいつは……」
一人取り残された俺はため息をつきながら、地面に落ちたそれの元まで行って、手に取った。
「どれどれ、あいつは、どこに行けばいいって書いたんだろうかな?」
その時強く吹いた風は、校舎の壁を伝って、空高く舞い上がっていった。
「ひ、ひー! だ、誰か、助けてくれぇ!」
「はっはっは! そろそろ、鬼ごっこはおしまいにしようぜぇ。さっさと、おめぇを殺したくて仕方ねぇ」
ひっそりと翳りが落ちた誰も近づかないような小道。
どうして、こんなところに着てしまったのかといえば、その男は、大勢の仲間を引き連れて、格下がどこかで、怯えて隠れていないか、徘徊していたためだった。
しかし、何も見つからず、いらいらも募ってきたので、休憩がてらにタバコを吸っていたところを、
「やぁやぁ、そこの無能力者のみなさん。こんなところで、学生がた喫煙だなんていただけませんなぁ」
そう2人組の男が近寄ってきたのだった。
どちらもパーカーを目深にかぶっており、まったく素性は分からない。もしかしたら中に、無能力者指定の囚人服服を着ているかもしれない。
彼らは、そう考え、ようやく見つかったかと内心ほくそ笑むと、一人の仲間が立ち上がって、二人ににじり寄り、
「あぁ、おめぇ、俺らのことなんだと思ってんだ。こら? なめてっと殺すぞ」
しかし、二人組は動じるどころか急に笑い始めた。甲高い不気味な声だった。
「な、何がおかしい!」
逆に、脅しに屈するどころか、赤子のいたずらを、微笑ましく見る親のように余裕の対応をしてきた二人にただならぬ恐怖を感じた彼は、それを隠して、威勢を強めた。
「くくく。いやだってさぁ」
一人が言った。
そして、もう一人が言った。
「君、もう死んでるよ?」
そう言われて、彼はいつの間にか自分の腹に長い光をまとった槍が、突き刺さっていることに気づき、口から血を吐いた。
「そ、そんな、まさかお前らは……」
しかし、それ以上は言葉にならない。無慈悲に二本目が彼を貫き、そして、そのまま崩れ落ちたのであった。
血たまりが彼の死体の下に広がり、その血の一部が流れ出して、それまで傍観していた別の仲間の男の脚を紅に染めた瞬間、現実を理解した一人の女が泣き叫び、それを皮切りに一斉に全員が逃げ始めた。
それは、もう地獄絵図だった。というのも、人数の多さに見合わない細さの道だったので、全員がなりふり構わず逃げようとすると、足が絡まったり、といろいろと問題が起きるわけで、
「どけよ! 俺は死にたくねぇんだよ!」
「邪魔だ。ブス。消えやがれ!」
殴り合い、蹴り合い。はたまた裾の縋り付いてくるやつをナイフで切りつける奴もいる始末。
「ほらー、早く逃げろよぉ。鬼に追いつかれたら全員殺すからねぇ」
そうして、曲がり角が来るたびに霧散して、数は減り、すぐに、悲鳴が聞こえる。
その繰り返し。闇の中から、ただ、あはは、待って、とか細い声がし、仲間はどんどん減っていく。
そして、いつの間にかその男はひとりになっていた。もう後続は誰もいなかった。そして、目の前には壁がそびえたっていた。
何もかもが行き止まりだった。道も人生も。
「はーい。ゲームオーバーでーす」
使徒は悪魔のようにケタケタと、笑う。
「ちょっと、ま、待ってくれぇ。なんでもするから、せめて命だけは!」
無能力者は泣き叫ぶ。
しかし、二人組は、歩を進めることをやめない。そして、一人は、ついに右手に光を纏わせ始めた。
「お願いだ。本当に何でも言うことを聞くから、命だけは助けてくれよぉ」
なりふり構わず懇願した。顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに汚れ、失禁で、股の部分は黒くシミを作っていたが、それでも、ただ必死に土下座した。
それでも、二人は何も言わない。ただ一歩一歩その男に近づくのみ。
そして、地面についた男の頭の前まで来ると、立ち止まり、
「何でも言うこと聞くって言ったよね?」
「え?」
彼は、顔を上げた。そして、顔面蒼白となった。
今にももう一人の男が槍を振りかぶろうとしていたからだ。そんな状況下で、最後の一言が発せられた。
「試してみたい殺し方があったんだよね」
どこからかとりだした朝のズタ袋を顔にかぶせ、紐をきつく締めると、そのまま腹を殴った。
「ぐふっ」
そうして、壁に倒れ掛かった。袋を取る暇はない。
「さようなら」
その言葉を合図にして真槍は顔めがけて振り下ろされた。