十之二
闇のベールに覆われた大坂城を取り巻く妖気はさらに濃く深く厚みを増してゆく。
大地にあふれる人々の叫声が渦を巻き、生ぬるい風となって藤林碧の頬をなでた。
瓦礫によって埋め立てられて荒れた道のようになった惣掘の、南にある小高い高台に立って、碧は目を細めて、暗闇に浮かぶ真っ赤に燃える天守閣を見つめていた。
両隣では、伊賀崎嵐が片膝をついて進発の合図を待っているし、城戸鶫も落ち着かぬふうに握った短刀の柄を指でしきりに掻いている。
淡路での真聖神惶教との激闘のあと、三人の前に果心居士の霊体が現れた。老師に導かれ、彼女たちは最終的な仕上げの修練に身を投じた。
そうして山にこもり十数日の修行を終え、堺で待機していた三人に藤林長門より命がくだったのは、つい先刻のことであった。
――城内城外において死人兵の跋扈はなはだしく、豊臣秀頼の潜んでいる蔵まで軍を進めようにも進軍をはばまれて、まるで身動きがとれない状況だ。藤林衆討魔忍であるお前達三人が活路をひらけ。
碧にとってその命令は、とりもなおさず花神恭之介を討つことであった。
――あそこに恭之介がいるのだ。
奇妙に落ち着いた気持ちで碧は思った。
藤林衆を裏切り、碧の師父加瀬又左衛門を斬り、みずからの師である果心居士まで手にかけたかつての許婚。碧の心のなかに腰をおろし続けていた憎しみも、半年前の闘いで敗れて味わった敗北感も屈辱も、どこか遠い記憶の断片に変わり、今はもうただあの男を討つという一途な一念が心にあった。
宿命。
そんな言葉が今の碧の心をかすめていった。
どこか遠い場所――おそらくそれは前世からの連鎖なのだろう、はるか昔からの因果によってふたりはこうして闘う運命が決まっていたのだ、という気がしていた。
碧と恭之介が出会ったのも、恭之介が裏切ったのも、碧の大切な人の命を奪ったのも、愛憎に身を焦がし身を悶えさせたのも、すべては因縁の行きつく先にあった出来事なのであろう。
碧の隣で片膝をついて、碧と同じ光景を眼に映しながら、伊賀崎嵐は思った。
――私はどれほどあの男に近づけただろうか。
出会ってほんの数カ月の間柄にすぎない、しかし数年来の宿敵のような、鬼巌坊というあの生臭坊主の顔が脳裏に浮かんだ。
幾度拳を交えても、どうしても越えることができなかった。
次に出会えば、どちらかの命の尽きるまで闘い続けることになるだろう。
そうして想いをひと巡りさせて、私らしくもないな、と嵐は思った。
先のことになどくよくよ思い煩わず生きてきた。どんな困難も、その場の勢いで乗り越えてきた。そのはずだ。
莫妄想。
想いにとらわれるな、ただ今を見よ。かつて、破戒僧のくせにいっぱしの僧侶らしい訓戒めいたことを鬼巌坊は云った。
――とらわれやしないさ。
想念のなかで見下すように口をゆがめる男に嵐は云い返した。全身全霊でぶつかってお前を倒してやるさ。
思えば幸徳井祥馬という男は、憐れな男であった。鶫との破局から思考を失調させてゆき、やがては花神恭之介の手先になりさがり、今では死人兵などという唾棄したくなるような妖術さえ使っている。
いや、と城戸鶫は自分に向けて首を振った。
鶫の心に幸徳井祥馬があり続けるのはけっして憐憫でも同情でもなかった。
愛しているのだ。
数カ月の間、大坂城の屋敷で彼とすごしていた時はどうとも思わなかった。過ぎ去った恋の相手でしかなかった。だが会わずにいると、不思議と祥馬のことばかり考えている自分に、ふと気がつく時があるのだ。
未練だとわりきろうにもわりきれぬこの思いは、やはり愛なのだ。
これが真実に愛なのなら。
私自身の手でけりをつけねばならぬ。彼も私に未練を残しているならなおさら……。
三人とも、動きの妨げにならないよう、身体の要所を守るだけの小具足程度とでもいうべき甲冑を身に着けていた。頭には鉢金、鉄の胸当てに鉄糸の腰帯、左右の腰だけの草摺、籠手と臑当はいつもより頑丈な造りの物であった。
その鎧に身を包んだ三人の女たちは、胸裏にある暗い思いを秘めたまま決然と立つ。
やがて目顔で頷きあった。
そしていっせいに走りだす。
視界に迫るのは、人々のいとなみの瓦解した荒野に浮かぶ無数の屍鬼の影。
走るみっつの影の、二本の白刃と、両腕の鉄の籠手と、ひとふりの短刀に、燃え盛る炎光が反射してきらめいた。
三条の光芒が、うごめく暗黒を貫いてゆく――。




