八之十
根来寺――。
正確には一乗山大伝法院根来寺、という。
高野山から分派した真義真言宗の本山で、豊臣秀吉の焼き討ちによって衰退したが、徳川家康の庇護のもと、近年(慶長年間)復興を果たした。
ゆえに、広大な敷地のなかの建物は新旧入り混じっていて、碧は雨の中、座主の居住する本坊を目指した。
夜中で雨が降っていたし風も強く、彼女の気配をまったく労することなく消失させることができた。勝手に拝借してきた、納屋に置いてあった蓑笠を身につけていたが、藁がこすれてかさかさと鳴る音も雨音に紛れてかき消えてしまう。呼吸音を消すために口に布を巻いているがその必要もなかったほどだ。時々みかける巡回の僧兵たちも、なんなくやりすごせた。
りっぱな本坊の縁の下に笠と蓑を隠してから侵入し、奥にある座主の寝室に忍び込んだ刹那であった。
「なんかようかの」
まったく落ち着いた、老人のしわがれた声が碧に問いかけた。
碧は畳に片膝をついて、夜具のなかの老人に向かって云った。
「夜分に大変失礼なのは承知いたしておりますが、二、三、おうかがいしたい儀があり、御前にまかりこしました」
「ほう、女子か。これは珍奇な偸盗かな」
「私は徳川様よりのご依頼を受けてまいりました忍です。なにも盗みはいたしません。ただ、お話をうかがいたいだけです」
「説法なら、わしでなくともよさそうなものじゃが」
どうもすっ頓狂な老人である。
「夜中、女子相手に説法をするのも、煩悩を制するひとつの修練よな」
らちがあかないと見た碧は、
「単刀直入にお聞きします」
「うむ」
「伏見城にかすみという女性を送り込んで、妖術で彼女をあやつって公儀を脅迫しているのは、こなた様のご指示にございましょうや」
「しらん」
「とぼけないでいただきたい。かすみを連れてきた男は、根来から来た、と云ったそうです」
「根来寺、と云ったのかの」
あ、と碧は暗闇のなか瞠目した。一瞬で思考がひっくりかえった思いだった。
根来といえば根来寺、という先入観があって、かすみを送り込んだのが根来寺の策略だと完全に思い込んでいた。これは、碧だけでなく、兄の長門も、服部半蔵でさえもそうであった。たんに根来と云うのなら、この周辺一帯が根来なのである。
「しかし、何者が」
「しらぬともうすに。おおかた、我らをこたびの一揆に巻き込みたい連中の差し金であろうよ」
「…………」
「我らは、太閤によって蹂躙され、すたれかけた教義と寺域を、大御所様の庇護のもと、ようやっと再生できたのじゃ。誰が好き好んで公儀に逆らうようなまねなどするものか。こたびの一揆に当寺は、いっさい関与せぬ。なんじゃったら公儀に与力して大坂城を攻め落としてやりたいくらいなもんじゃ」
「で、では、なぜ、真田のあぐりさまをさらわれたのですか」
「真田の?それこそまったく身に覚えのない話じゃ」
人を食ったような物いいであったが、嘘を云っているとは思えない。
「もうよいかの」
「は」
「二、三ともうしたが、もうひとつばかり訊きたいことがあるのではないかえ」
「え、いえ、それは言葉のあやでして」
「ふうん、じゃあ、帰ってくれ。わしはもう寝る」
碧は闇の中で、羞恥に顔を赤らめた。
そうして後ろさがりに部屋をでて、そっと襖をしめた。
――なんということだ……。
座主の云うことに嘘いつわりがないのなら、まったく見当違いの探索を続けていたことになる。もちろん座主の云っていたこと全部が真実という保証はないが、すじは通っていた。
本坊を出て、ふたたび笠と蓑を着、脱兎のごとく境内を駆け抜けた。
いくつもの塔頭の脇を抜け、大門を眼の端に見ながら寺域を抜け出たときだった。
右手の前方から、大粒の雨のなかを突き抜けて、なにか石つぶてのようなものが飛んできた。
碧はさっと濡れた地面にころがって、それを躱した。
飛んできた何かは、いったんもとの射出点に戻り、戻ったと思ったらすぐさま飛んでくる。
背帯にはさんでいた短刀を引き抜きざま、碧はそれを打った。
鉄と鉄が打ち付ける乾いた音が雨音のなかに響いた。
――これはまさか……。
立ち上がりつつ、碧は闇に蠢く敵に向かって迎撃の構えをとった。
ひゅんひゅんと、鞭のようなものが空気を切り裂く音がし、その音とともに、山吹色の陰が姿をあらわした。
「これはこれは、奇遇ね、碧」
「鶫……」
碧はつぶやいた。まさか、とは思わなかった。彼女はここにいるべくしてここにいる。そんな気がした。




