第5話 異変の森、魔王との邂逅
焚き火の火が小さく爆ぜ、パチッという乾いた音が静寂を打つ。
魚が焼ける香ばしい匂いが、夜の湿り気を含んだ冷たい風に乗り、淡い煙と共に暗がりの奥へと霧散する。
そんな中、不意に風が止む。
周囲の木々は呼吸を止めたように静まり返る。
――だからこそ、その"違和感"は研ぎ澄まされた刃のように鋭く浮かび上がった。
……いる。
空気の流れがわずかに変わる。
地面を伝う微かな振動が、足の裏から皮膚の下を這うように駆け上がってきた。
この森に身を置いて数日。
小さな変化には嫌でも敏感になる。
これは人間じゃない。かといって、知性のない獣とも違う。
もっと濃密で圧倒的な質量を持った――重い魔力の気配だ。
(……魔族か?)
この森で自分以外の、知的存在と出会うのは初めてだった。
(こっちに来ている……?)
――スッ。
意識して身構えたわけではない。
染み付いた生存本能が、俺の右手を自然と焚き火のそばに置いた自作の石ナイフへと伸ばさせていた。
逃げようとは思わなかった。動いても無駄だと、本能が告げていた。
気配の速度、魔力の密度、これまで相手にしてきた魔獣とは次元が違う。
火の揺れがわずかに形を変え、焚き火の奥が暗さを増す。そして、その輪郭がゆっくりと姿を現した。
木々の隙間から、二つの影が静かに歩み出てきた。
黒い外套をまとった魔族が二人。
魔族を直接目にするのは初めてだったが、彼らがそうだと理解するのに説明は不要だった。
外見以上に、人間とも魔獣とも異なる、幾重にも積み重なった強固な魔力の層が、周囲の空気を震わせていた。
殺意はない。だが、隠そうともしない鋭い警戒心が空気をピリつかせていた。
「――動くな」
先に声を発したのは、大柄な方だった。
夜の闇のような黒髪に、鮮烈な赤のインナーカラーが混じっている。
金の瞳が焚き火の光を受けて、捕食者のように鋭く揺れた。
低く――しかしよく通る硬質な声が、夜の静寂に深く沈み込んでいく。
その隣ではもう一人の魔族が、警戒するように周囲へ視線を走らせていた。
茶色の髪に淡い桃色のメッシュが混じる、独特な色合い。瞳は赤みがかっている。
見た目の違いはあるが、二人が放つ魔力の質はよく似ていた。
顔立ちも、どこか通じるものがある。
俺はゆっくりとナイフから手を離し、視線を再び焚き火へと戻した。
これ以上の敵対心がないことを示すために。
「動かないよ。……驚かせたなら悪かったな」
「いや、こっちこそ飯時に悪いな。だが――」
大柄な魔族は一度俺から視線を外し、隣の男と同様に周囲の闇をひと通り確かめた。
そこに伏兵や罠がないことを確認すると、再び射抜くような視線で俺を見据えた。
「この区域、瘴気が薄すぎる。……こんなことは普通じゃありえねぇ」
――瘴気。
この森を覆い、人の命を奪い魔獣を生み出すもの。
拠点に決めたこの場所は元々瘴気の薄い所ではあったが、魔族が「異常」と言うならばそうなのだろう。
「お前……何者だ」
威圧感を帯びた問いかけ。
正面に立たれたまま凝視されるのは妙に落ち着かない。
俺は肺の中の重い空気を吐き出すように、小さく息を吸った。
嘘をつくつもりは毛頭なかった。
そもそも目の前のこの二人に、稚拙な誤魔化しが通じる気がしなかった。
「ただの人間だよ」
言った瞬間、二人の眉が同時に動いた。
「ただの人間が森一帯の瘴気を数日でこんなに消すかよ、しかもたった一人で。さすがに冗談きついぜ」
小柄な魔族が即座に言葉を叩きつける。
口調こそ軽いが、その手は腰に提げた武器の柄をしっかりと握っている。
「もし本当なら……人間の認識を改める必要があるな」
大柄な魔族が乾いた笑いを漏らす。
だがその瞳の奥は一切笑っていない。
「瘴気は極端に薄れ、魔獣の個体数も減っている。しかも――不可侵の、他族の領域でそれが起きている」
不可解な現象の犯人と決め打つような物言い。
俺はその威圧的な視線に見つめられながら、小さく肩をすくめた。
「本当に人間なんだけどな。自分の力がどこまで周りに影響するのか、俺自身もよくわかってないんだ。けど、侵略するつもりはない」
二人の視線が刺さる。
特に大柄な方は俺の呼吸、重心の置き方、指先の細かな癖まで――そのすべてを観察しているようだった。
「なら聞く」
低い声が鼓膜を揺らす。
「なぜ、こんな場所に一人でいる?」
「というか本来ここは人間が踏み込める場所じゃねぇ。死にに来たとでも言うのか?」
続く小柄な魔族の軽口の奥には、確かな慎重さが潜んでいた。
ほんの一瞬、言葉を選ぶために迷った。
だが取り繕う理由も、隠すべきプライドも――今の俺には残っていない。
「……捨てられたんだよ。十年使われて、いらなくなったらここに運ばれた」
焚き火の火がパチッと小さく爆ぜる。
二人の気配が微かに揺れた。
「捨てられた……?」
小柄な魔族の表情から、先ほどまでの不敵な軽さが消える。
大柄な方も目を細め、目の前に座る『ただの人間』を測り直すように見下ろした。
「……処分のために、この森へ送られたということか 」
「まあ、そんなところだな」
淡々と答えたつもりだった。
だが声の奥に、自分でも気づかないほどの――砂を噛むようなざらつきが混じっていた。
しばしの沈黙が流れ、燃える火だけが命を宿したように音を立てていた。
やがて大柄な魔族が短く息を吐いた。
「……そうか」
そして静かに続ける。
「……名はなんと言う。どう扱うにせよ、名がなければ始まらねぇ」
拒む理由はない。
俺は一拍置いて、焚き火の橙色に照らされた二人の顔を真っ直ぐに見て――答えた。
十年間、誰にも呼んでもらえなくなって、それでも自分だけは忘れなかった俺の"名前"を。
「……コノエだ。コノエ・シギハ」
その瞬間。
二人の空気が――止まった。
焚き火の揺らぎすら凍りついたように感じるほどの、深い静寂が落ちた。
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