第4話 森の静寂、異変の足音
森に捨てられてから、もう数日が過ぎていた。
最初の一夜こそ警戒してあまり眠れなかったが、今はだいぶこの環境に慣れてきた。
死の森と呼ばれるこの場所も、適応してしまえばただの「住処」に過ぎない。
この洞窟だって、しっかり拠点として形になりつつある。
枝と骨で棚を組み、拾った石で簡単な道具を作る。
歪ではあるが、使えればそれで構わない。
魔獣肉の燻製や川で獲った魚を干物にするなど、簡単な保存食も作った――出来は悪くない。
「……だいぶ、過ごしやすくなったな」
呟きは冷たい岩壁に反響し、洞窟の奥深くへと吸い込まれて消えていく。
自分以外の音がない、贅沢な静寂だった。
◇
洞窟の外へ出ると、来た頃とは明らかに空気が違っていた。
重く淀んでいた瘴気が、今はとてつもなく薄い。
近くを流れる川も、当初の濁りはどこへやら。
今は底の小石ひとつひとつまで透けて見えるほどに澄みきっていた。
群れをなして泳ぐ魚が跳ね返す陽の光は――まるで森が息を吹き返したようだった。
「……俺が、何かしてるのか?」
手のひらを見つめて呟くが、もちろん答えはない。
ただ、この澄んだ空気だけは現実として肌に触れている。
――ふと、何の気なしに首元に手を添える。
十年。
強制的に従わせるため、俺の感情を削り続けた呪いのような刻印は未だ残っている。
たとえ命令を下す主がいなくなっても、この呪縛だけは消えてくれない。
これのせいで怒りも悲しみも、芽吹く前に摩耗していく。
だが……だからこそ、心は静かだ。
不安も寂しさもない。
それでも……生きようとは思っている。
誰かの道具としてではなく、自分の意思で――この静かな森と共に。
◇
焚き火に干し魚を吊るす。
じわじわと脂が浮き出し、弾ける音と共に食欲をそそる匂いが広がった。
揺れる炎が、瞳に小さな光を宿す。
炎の向こうで、外の森が静かに脈打っているのを感じた。
地面の奥、木々の根を伝うように目には見えない淡い光が波紋のように広がっていく……そんな錯覚を覚える。
まるで、森そのものが呼吸を取り戻していくかのように。
「……このまま、静かでいてくれよ」
祈りにも似た呟きは、夜の闇に静かに溶けた。
◆◆
その頃、森の外れでは黒い外套を夜風に翻しながら二つの影が木々の間を縫うように進んでいた。
魔王セルガと近侍のナツカ。
二人は魔獣『グラル』を降り、鋭い五感を研ぎ澄ませながら慎重に地を踏みしめて進む。
セルガの黒髪が夜風を孕んで揺れる。
眼を細め、静寂に沈む周囲を悠然と見渡した。
その半歩後ろでナツカもまた、瞳を鋭く走らせる。
微かな気配さえ逃さぬよう、音もなく、だが確実に周囲の死角を潰していった。
「……空気が違う」
ナツカが不意に足を止め、鼻腔を震わせて低く呟いた。
森を満たしていたはずの瘴気の匂いが、まるで洗い流されたように薄い。
鼻を刺す腐臭も、身体にまとわりつく湿った重みもない。
澄んだ空気がかえって異様だった。
「異常だな。瘴気の濃度が……ありえないほど低い」
セルガが片膝をつき、指先で黒い土をすくった。
掌の上でほぐし、その匂いを嗅いでみるが瘴気による腐敗の匂いは微塵もしない。
数千年以上この地に染みついていたはずの瘴気が、一部一部消えている。
「……誰かが、意図的に"浄化"したように見えるな」
そう呟く声には、わずかな緊張が混ざる。
さらに奥へと足を進めると、一本の巨木が視界に入った。
その枝先の一部が焼け焦げ、鋭い黒い線が斜めに走っている。
セルガはその焦げ跡に触れ、目を閉じて意識を集中させる。
わずかではあるが魔法の痕跡――魔力の残滓が宿っていた。
「……誰かが火を使ったみたいだな。多少だが、魔力が残っている」
ナツカが地面に目を落とした。
「セルガ、これ……」
湿った土の上に残された微かな痕跡を指差す。
それは確かに人のものに見える足跡だった。
しかし、不気味なほどに踏み込みが浅い。
まるで重力を無視して草の上を滑るように歩いたかのように、わずかに沈んでいるだけだ。
セルガはしゃがみ込み、その足跡を凝視する。
「人の足跡にみえるな。……成人男性ってとこか? それにしても随分と踏み込みが浅いな」
「力が入ってないっつーか、体重が乗ってないっつーのか……。でもそんな歩き方ができるのは、普通じゃねぇだろ」
ナツカの声にはわずかに苛立ちが滲む。
理屈で説明できないものを前にしたときの、野生の警鐘が鳴り響いている。
「やっぱり魔族……か?」
ナツカはそう口にしたものの、自らの推測に納得していない顔だ。
セルガは口元に手を添え、少しの間考え込んだがすぐに口を開いた。
「結論を急ぐな。……もう少し奥へ行くぞ」
セルガの決断に、二人はさらに慎重に歩を進めた。
やがて、根の張り出した木の下で黒ずんだ血の跡を見つける。
すでに乾いているが比較的新しい。
「血……だが、死体はねぇな」
セルガが屈み、指でその跡をなぞる。
わずかな鉄の匂いが鼻をかすめた。
「魔獣の血だ。……報告どおり、死骸も魔石も残ってねぇ」
「誰かが持ち去ったか、跡形もなく消したってことか」
「……そうなるな」
セルガはゆっくり立ち上がり上を向いて、わずかに眉を寄せた。
風の流れ、鳥の声、葉のざわめき。
そのすべてが不自然なほどに静まり返っている。
「誰かが狩りをしているのは確実だ。目的がなんであれ、それが森の破壊に繋がってるなら見つけて止めないとな」
「魔族でそんな真似をするやついるかねぇ、もし居たら謀反もんだぜ。かといって人間ってのもしっくりこねぇんだよなぁ」
ナツカが苛立たしげに髪を掻き乱し、深く息を吐いたその刹那。
パキリ、と。
どこかで乾燥した木の枝が折れる音が、静まり返った森に響いた。
直後、風の流れが変わり微かに香ばしい「何かを焼く匂い」が漂ってくる。
セルガは風の流れを読むように目を細めた。
「……行くぞ。痕跡は新しい。まだ近くにいる」
即座にナツカが前へ出る。
剣として、王の進路を切り開く位置へ。
二人の影は音もなく木々の間へと溶けていった。
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