第3話 喰われる森、魔王の遠征(魔族視点)
「……瘴気が薄くなってる?」
報告を受けた魔王セルガは執務室の窓から遠くの森を見やり、眉をひそめた。
『死の森』――人間たちがそう呼ぶその場所は、魔族の間では『ヴァルハスの森』と呼ばれている。
瘴気と魔獣が常にうごめく危険地帯であり、同時に魔族領の天然の防壁としても重要な場所だ。
けれど今、その森に静かな異変が起きていた。
夜ごと響いていた魔獣の咆哮は減り、空を覆っていた瘴気もこの数日、異常な速度で薄まっていた。
風が吹くと腐葉の匂いよりも鉄の――血の臭いが勝って漂ってくる。
「はい、陛下。森の南端から北東にかけて、急激な減少が確認されています。ですが……もう一つ、奇妙な現象が」
報告した兵士の声が、少し震えている。
目に見えない何かに怯えているかのように。
「倒された魔獣の死骸が、ほとんど残っていません。血の跡はあるのに、死骸も魔石も消えている。まるで……人間の冒険者が後始末したみたいに、綺麗なんです」
その言葉に部屋の空気が張り詰めた。
普段は勇敢な魔族の兵士たちも、この異様な現象には動揺を隠せないでいる。
セルガは無言で立ち上がり、窓辺へ歩く。
遠く霞むヴァルハスの森が、闇の中でゆらりと揺れたような気がした。
そして喉の奥から絞り出すように、低い声で言葉を落とす。
「瘴気が薄れ、死骸が消える……か。まるで森そのものが"喰われてる"みてぇだな」
「喰われてる、ですか……?」
兵士がオウム返しのように呟く。
「そうだ。あの森は瘴気に生かされている。だが今起きているのは、瘴気を喰う"何か"の仕業だ。自然に起こるもんじゃねぇ。森の循環が壊されてる」
ゴクリと兵士が唾を飲む。
そんな中、窓辺から目を離さず腕を組んで黙っていた青年――魔王近侍のナツカが鋭い視線を森に向けたまま口を開いた。
「それでも人間の仕業って線は薄いだろ。ヴァルハスの瘴気は、人間の肺じゃ五分も保たねぇ。南から北東まで抜けるなんて、物理的に無理だ」
セルガは思案するように指を顎に当て、しばらく考え込んでから首を僅かに振った。
「……だよな。だがそうなると、"誰の仕業だ"って話になる」
「魔獣同士の喰い合いにしては、魔石まで綺麗に消えるのは変だしな。妙な掃除屋でも出たのかもな」
続いたナツカの言葉に、セルガは小さく短く笑った。
しかしその目の奥は笑っていない。
底知れない警戒心と、未知の現象に対する抑えきれない好奇心が入り乱れていた。
「ハハ、とんだ掃除屋だな。うちの防壁をまるっと片付ける気か?」
ヴァルハスの森は魔族領の最前線。
そこで異変が広がれば、魔族領そのものが脅かされることを意味する。
それに気づいた兵士が身体をこわばらせた。
室内に短い沈黙が落ちたあと、セルガは執務机にかけてあった黒い外套を掴み、迷うことなく羽織った。
「行くぞ、ナツカ」
「おいおい、陛下自らか? ったく……相変わらず血の気が多い」
「いつものことだろ。それに、何か妙な"気配"がする。放っといたら後悔しそうな、な」
「はぁ……魔王様が出張る話じゃねぇってのに」
ぼやきながらもナツカは腰に提げた愛剣の柄を軽く叩く。
彼の瞳にも底知れない興味が宿っていた。
「……ま、退屈してたしちょうどいいか」
王を前にしての、ナツカの無遠慮な口ぶりを咎める者はいない。
セルガが王位に就いてからというもの、彼は『命じる王』ではなく、常に先頭に立ち自ら刃を交える『戦場の中心』として在り続けてきた。
その背中を、誰よりも近くで守ってきたのがナツカだった。
命令よりも先に動き、言葉よりも早く剣を抜く。
王の傍に立ち、その剣となることを当然のように選び続けてきた男。
故にセルガは彼の無遠慮を咎めることなく、どこか楽しげに口元を緩めナツカの肩を軽く叩いた。
「行くぞ。ヴァルハスの森に何が隠れているのか――この目で確かめる」
「了解」
ナツカはセルガの横から一歩だけ前に出て、自然な動きで半歩前を取る。
常に守るべき位置、剣としての最適な距離。
それは長年の関係性が生んだ、言葉のいらない連携だった。
夜風が窓から吹き抜け、遠くで森がざわめいた。
◇
セルガとナツカは速さを重視して、馬ではなく魔獣『グラル』に跨り城をあとにした。
深紅の双角を持つ四足の獣――王族に古くから従える、屈強な種だ。
グラルが石畳を踏みしめるたび、大地の低く唸るような音が響く。
「……気味悪いくらい静かだな」
ナツカが目を細めて呟く。いつもなら聞こえる魔獣の遠吠えや羽音が、まるで掻き消されたようだった。
「瘴気が薄れりゃ、魔獣も息がしづれぇんだろ。アイツらは瘴気から生まれてるからな。――それか……何かに怯えているか」
その声音に含まれた警戒を、ナツカは聞き逃さない。
王の横顔を一瞥し、口の端をわずかに上げた。
「なぁセルガ。もし"誰か"が森を喰ってるんだとしたら、そいつは何が目的だと思う?」
「目的? 喰う理由なんざ一つだ。――腹が減ってる」
冗談じみた返答に、ナツカがカラカラと小さく笑う。
「……はるか昔は、魔族も似たようなもんだったろ」
セルガが僅かに声のトーンを落として低く呟く。
「弱者を喰って、生き延びてきた。……だが、今は違う」
吹き抜ける風に外套が大きくはためいた。
セルガは真剣な眼差しで真っ直ぐ前を見据える。
「魔族は、弱者と仲間を守る。そこに危険な存在がいるなら――放っておく理由はねぇ」
ナツカは小さく頷くと、それ以上何も言わなかった。
ただグラルの歩調を半拍だけ前に出し、自然と前衛の位置を取る。
やがて夜霧の向こうに、木々の輪郭が浮かび上がった。
「……血の匂いが濃いな。しかもまだ新しい」
二人は森の入口でグラルを止める。
森の奥から漂う鉄の匂いにナツカが鼻をひくつかせ、セルガもその異常さに目を細めた。
「魔族でも迷うことのある森だ。気を引き締めて行くぞ」
二人は同時に地へ降り立ち、森を見上げた。
樹々はまるで呼吸を忘れたかのように静まり返っている。
風も止み、ただ森そのものが何かを孕んでいるような圧だけがあった。
その奥で、何かがゆっくりと――蠢いている。
そんな気がした。
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