第2話 自由の朝、ただ生きるために
太陽の光が岩壁の隙間から、まるでスポットライトのように細く差し込んだ。
ゆっくりと、まぶたを開く。
――誰の命令もない。
――誰の悪意もない。
十年ぶりに迎える、静かな朝だった。
昨夜見つけた洞窟を拠点にして、自然に溜まった水で顔を洗う。
泥の匂いが混ざる冷たい水。
だけど戦場で飲まされた泥水に比べれば、十分すぎるほど澄んでいる。
洞窟の天井には昨夜、拠点を探している時に仕留めたブラッド・ボアの肉が吊るされていた。
丁寧に血抜きをして、周りの野草で軽く香りをつけておいたものだ。
(朝は……ステーキでいいか。塩はないけど、シルタで代用しよう)
硬い石を割って即席のナイフを作り、『シルタ』と呼ばれる野草を手に取る。
潰すと塩気が出るその草の青臭さと潮の香りがふわりと鼻をくすぐった。
昨日のうちに作った即席の竈に手をかざす。
体内に沈んでいる魔力を必要な分だけ練り上げ、形を作る。
「《フレアボル》」
手のひらほどの火球が、静かに竈の中に灯る。
鉄板代わりの薄い石の板を炎の上に置き、肉を乗せた。
ジュー、という音と共に、草と肉の脂の匂いが混ざり合う。
誰もいない森の中で、肉の焼ける音だけがやけに鮮明に響いた。
焼き上がった肉を石皿に乗せ、表面にシルタを揉み込んでから一口、噛みしめる。
――思わず息が漏れた。
「…………うまい、な」
十年間、食事は生き延びるための『作業』だった。
与えられた食べられる物を、ただ胃に流し込むだけ。
だが今は、違う。
自分のために作り、自分のために食べる。
それだけで胸の奥が少しだけ満たされる気がした。
(……そういえば)
記憶の底から、河原の夏が浮かび上がる。
幼なじみたちと火を囲んでいたあの日。
皆で釣った魚を捌き、炊き立てのご飯の香りに皆が笑って。
「お前の飯が一番だ」なんて言われて――ただ嬉しかった。
(料理……好きだったんだよな)
趣味や娯楽、そういったものは気づけば頭の中から消えていた。
――そっか。今はもう、やりたいことをしてもいいのか。
過去の温かい記憶と、今の静かな自由がそっと重なった。
◇
食事を終えて立ち上がる。
洞窟の外では、見たこともない魔獣たちが息を潜めているのだろう。
――だけど、恐怖はなかった。
(散歩がてら、周囲の確認でもしよう)
武器も荷物も持たない。身体一つで森へ踏み込む。
普通の人間なら自殺行為と呼ばれる行動だ。
でも今の俺には、あまり関係がない。
瘴気の流れ、大気中の魔力の濃度、魔獣の気配。
すべてが無意識に、呼吸をするように読み取られていく。
この世界に召喚された時から持っていた固有能力――《生存進化》。
それは死線を越えるたびに、この身を『生き残るため』に進化させ続ける、世界の理を逸脱した力だ。
傷を負えば耐久が増し、毒を受ければ抗体が生まれる。
極限を迎えれば迎えるほど、適応は深くなる。
戦場ではそれを『人間兵器』と呼ぶ者もいたが――今もこの力は、止まることを知らない。
肺に入った瘴気は毒となる前に分解され、静かに魔力へと変わる。
それを繰り返すうちに今では大気中の瘴気すらも自動的に分解し、己の中に魔力として取り込んでいく。
もはや意識せずとも働く、この身に刻まれた生存の本能。
◇
森の中を少し進むだけで、様々な魔獣に遭遇した。
巨大な狼や岩のような皮膚を持つ熊、沼地を這うワニに似た魔獣、空を覆い尽くすほどの群れをなす魔蟲に奇襲を仕掛けてくる魔鳥。
人間領では滅多に見ない、名も知らぬ生き物たち。
だがなんの障害にもならない。
襲いかかってくるなら処理する。
逃げるなら追わない。
ただの作業のように自然と身体が動く。
倒した魔獣に軽く手を添えると淡い光が走り、巨体が霧のように消えた。
《生存進化》の副能力――《魔装庫》。
一度触れた物を、個人領域に収納できる能力だ。
腐敗はなく、劣化もない。
魔獣の肉や薬草など、使えそうなものを片っ端からしまっていく。
「……しばらく食に困らないな」
淡々と独り言を呟き、さらに森の奥へ。
所々に実をつけた低木や小動物の通り道を見つける。
この瘴気の中でも命は確かに息づいている。
きっとここに生きる者たちも、この環境に順応するように進化してきたのだろう。
――俺と同じように。
◇
拠点へ戻り、竈に再び火を入れて魔獣の肉を炙る。
香ばしい匂いが洞窟全体に満ちた。
揺れる火を見つめながら考える。
明日はもう少し北側を探索してみようか。
ここよりも水質のいい場所や、調理に使えそうな野草がもっとあるかもしれない。
生活の予定を立てる。
それだけで未来が少しだけ形になる気がした。
「……本当に、自由なんだな」
首の紋章は消えたわけじゃない。
だが俺をここに捨てた人間が、わざわざ命令をしに来るとも思えない。
それを実感するように呟いて目を閉じる。
火の光が揺れ、静かな森を夜が包み込む。
目的もなく、ただ生き延びただけの一日。
それでも――胸の奥に残ったこの温かさは、十年ぶりに俺が『俺のために』使った時間の、確かな重みだった。
こうして、二日目の夜も穏やかに更けていった。
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