第4話:勝負を決める三枚の紙
十一月。疾患名が統一された。 AA-MOFS。急性アンドロゲン依存性多臓器不全症候群。
都内の救急病院、夜間当直室。ファクスが鳴った。 受信紙が三枚。いちばん上に太い文字があった。
『医師会・緊急通達(機密)』
内容は短かった。短いほど命令は強い。 米国CDCで初めて使用された呼称を暫定採用。国内でも呼称を統一する、と。
紙の下には対応手順が箇条書きで続いていた。
疑い例に対しては女性医師が対応する。 あるいは厳重な防護服を着用した医師が対応する。 そして――隔離病棟への男性の立入禁止。
看護師の喉が鳴った。「……先生、隔離に男が入れないって、どうやって回すの」
医師は答えなかった。答えがないからだ。
当直表の空白を見た。夜間救急。当直医。救急対応の若手。 空白が増えている。空白の多くは"男の名前"が入るはずの場所だ。
「……女の先生、今夜いる?」 「いません。産休で――」
看護師は言いかけて止めた。いま、この瞬間に足りない。
紙の下のほうに「マスコミにはまだ知らせるな」と書いてある。 "パニックを恐れ"――その言葉が紙の端に残っている。
当直室の外で救急の自動ドアが開く音がした。 冷気が廊下を走る。担架の車輪の音。
――来る。紙より先に患者が来る。
医師は受話器を取った。夜勤の師長へ。
「師長、いま医師会の緊急通達が来た。――AA-MOFS。疑い例は隔離導線を別に。男性の立入は禁止だ」
受話器の向こうで沈黙が一拍落ちた。 「……分かりました。救急入口の手前で発熱者を分けます。防護具、倉庫から出します」
十一月の手前の夕方は、昼の暑さの名残と夜の冷えが同じ廊下でぶつかっていた。 涼子は石本茂の事務所を訪れた。
石本は立っていた。背は高くない。 けれど立ち姿に"現場の人"の硬さがある。目がこちらをまっすぐ見た。
「厚生省の……時田さん」
涼子は深く頭を下げた。「突然失礼します。――お時間をください」
涼子は鞄から封筒を出し机に置いた。封はしていない。 石本は封筒から紙を出し目を走らせた。読むときに瞬きを減らす癖がある。
「……男性に偏る」 石本がそこだけを口にした。
涼子の喉が鳴るのを抑える。 「現時点ではそう読めます。ただ――」
「公には言わないほうがいい」 石本が言った。迷いがない。 「言葉が先に走ると現場が壊れます。壊れた現場は戻らない」
涼子は頷いた。 「上司が閣僚レベルへの報告を渋っています。確証がないと。騒ぎになると」
石本は紙を机に置いた。置き方が静かで音がしない。 静かすぎて逆に重い。
「渋るでしょうね。"病気"は誰の責任でもないふりができる。でも"対策"は責任になる」
石本は受話器を取った。 「田所さん。今夜、医師会の先生に連絡を入れて。『病名は伏せる、欠勤の数字で話す』って」
秘書の声が受話器から漏れた。「どちらの先生に」
石本は涼子に視線を向ける。「あなたの資料、都心のどこが一番早い」
涼子はすぐ答えた。「証券会社のシステム部。丸の内。欠勤と早退が連続しています」
石本は受話器に戻る。 「丸の内の救急を受ける基幹病院、そこの救急部長。あと都医師会の理事」
涼子は口を挟まなかった。石本の段取りは説明ではなく処置だった。 止血する手つき。
石本は次の番号を押す。 「看護協会にも。師長会に話を回す。『発熱導線の分離』『記録の統一』『防護の基本』」
石本は机の引き出しから白い紙を一枚出した。 何も印刷されていない。真っ白。
「書きなさい。三枚で足りる」 石本は指を一本ずつ折った。
「一枚目。海外と国内の事実だけ。形容詞なし。数字と日付」 「二枚目。今日からやること。拾う、分ける、報告する」 「三枚目。報告様式。誰が見ても同じ記録になる形」
「上に上げる言い方も変えなさい」 石本は言った。 「"未知の感染症です"は誰も聞かない。――"救急とインフラが止まります"と言いなさい」
涼子は頷く以外できなかった。
石本は少しだけ身を乗り出した。「あなたの上司、渋るんでしょう」 「はい」
「なら上司を守る形で上げなさい。『海外から照会が来ている。行政として回答が必要だ』――責任が"外"から来た形にする」
涼子の胸の奥で何かがほどけた。
石本は壁の写真を見た。看護帽の集合写真。 「私は看護師だった」それだけ言って戻す。
「病床の人は"今"しかない。政治は"来年"がある。――その差を埋めるのが私の仕事」
「明日の朝、あなたは省に戻る。――三枚紙を作る」
涼子は答えた。「局長。次官の手前まで。……そこから先は」
石本は頷いた。「そこから先は私が"外"から叩く」
石本は涼子を見た。 「あなたが倒れたら全部止まる。倒れるな。寝ろ。食え。怖がるなとは言わない。怖いなら手順に落とせ」
涼子は深く頷いた。「分かりました」
石本は涼子の鞄を一瞬だけ見た。 「――十一月の前に、勝負をつける」
十二月の空は早い時間から暗かった。 山口の町でも忘年会という言葉があちこちで聞こえる。 駅前の飲み屋の赤提灯が夕方になると一斉に灯る。
優は自転車を押しながらその匂いを避けるように歩いた。
その週の月曜、朝のホームルームが始まる前。 黒板の横に貼られた時間割が鉛筆で書き換えられていた。 赤い字で小さく「※3年2組 理科 自習」
「理科、また自習?」 和夫の声がする。和夫は目の下に薄い影ができていた。
「先生、休み?」 「高熱だってさ。――"不摂生な男が罹る風邪"って職員室で言ってた」
"風邪"。その言葉が廊下の空気を少しだけ軽くする。軽くしてしまう。
スーパーの保冷庫の前に立った瞬間、優は足が止まった。 ガラスの向こうが広い。
牛乳の列が途切れている。 いつもは白いパックがぎゅうぎゅうに並んで奥が見えない。 今日は奥の銀色の壁が見えた。
豆腐も半分だけ。納豆は棚が空いて、卵は値札だけがきれいに貼られていた。
優は何も言わずにガラスに手を当てた。指先が白くなる。 冷たさに驚いたようにすぐ引っ込めた。
「……ないね」 声が小さい。
駐輪場の端で伊藤和夫の母に会った。 髪を後ろでまとめ、首元の名札が少し曲がっている。
伊藤母は笑おうとしてやめた。笑うには目の下の影が濃すぎた。
「入荷が遅れてて。今朝からずっと……」 「どうして?」
「トラックが……来ないんです。運転手さんが足りないって……」
「足りないって、年末だから?」 伊藤母は首を振った。 「それもあるけど……"体調不良"が多いって」
物流。学校の先生が休む前に、救急車の話が増える前に、まず"棚"が空く。 それは咳より静かで誰も泣かない変化だった。
父が休んだのは咳が出たからじゃなかった。出張から帰って二日目。三日目。
父――肇は朝になっても起き上がれなかった。 居間のこたつの縁に手をついたまま体を前に倒している。額に汗が浮いていた。
「……平気だ」 父は言った。声が平気じゃない。弱くて掠れている。
その"平気だ"が、優にはいちばん怖かった。
和美が台所から戻ってくる。父の額に手を当てた。「熱、ある」「寝れば治る」 和美は言い切った。「病院。今日、行って」
父が少しだけ眉を寄せる。「……仕事が」「仕事は休んでるでしょ」
家に帰るとうどんを作った。湯気が立つ。鍋の音。 父は少しだけ食べた。少しだけ。すぐ箸を置く。「……うまい」 言っただけでもう疲れている。
妹の美幸が突然テレビに向かって言った。 「ねぇ、今日も出てない」 「何が」 「アキラだよ!最近ずっと体調不良で休んでるんだって」
優の声が自分でも驚くほど硬くなった。 「……おまえさ、とうさんをもっと心配しろよ」
美幸が顔を赤くした。「だって、アキラは……!」
言い返しかけて言葉が詰まる。美幸の目が潤む。 そのとき父が小さく咳をした。ひとつ。
優と美幸の言葉が同時に止まった。
玄関の鍵が回る音がした。和美が帰ってきた。 父の顔を見る。「……行ってないのね」
「優。美幸。――支度して。今から病院」
玄関を出ると夜の冷気が頬を刺した。 父はコートを着るだけで息が上がっていた。
玄関の柱に片手をつき肩で呼吸をする。優は父の腕を支えた。骨が軽い。 病院へ向かう道で救急車のサイレンが二度すれ違った。
「……多いね」 美幸が小さく言った。優は返事をしなかった。
病院の駐車場はいつもより明るかった。車のライトだ。 誰も消さないまま停めている。
玄関の自動ドアの前に、人がいた。列だった。 立っていられない人が壁に寄りかかり、しゃがみ込み、抱えられている。
優は父の腕を支えたまま足を止めた。
待合室のガラス越しに見える光景が学校の教室とは違う。空気が違う。 暖房の熱ではない。人の熱だ。焦りの熱だ。
受付の前に行列が伸びている。並んでいるのはほとんどが女だ。
女が男の腕を抱えている。女が男の背中を叩いている。女が診察券を握りしめている。 男たちは顔色が悪い。土気色。青白い。目がうつろ。
受付の女性の声が何度も同じ調子で繰り返される。 「すみません、順番にお願いします!」
床に座り込んでいる人がいた。女だ。 隣に男が寝かされている。コートを丸めて枕にしている。
男は目を閉じて口を少し開けている。息が浅い。 女は男の手を握っている。握って離さない。
和美がようやく窓口に辿り着いた。 「玉木です。夫が高熱で……出張から帰ってから三日、食欲がなくて、今日は立てなくて」
受付の女性が父を見た。視線が父の顔を一瞬で測る。 目の下。唇。呼吸。皮膚の色。
その測り方が怖いほど手際よかった。
「こちらに記入をお願いします。症状の欄、できるだけ詳しく。……男性の方ですので、念のため」
"男性の方ですので"。その一言が薄い紙より重く落ちた。
優は父を壁際へ連れていった。椅子はない。床に座るしかない。 父をゆっくり座らせる。父の膝が震える。
父が背中を壁に預けた瞬間、目を閉じた。呼吸が少し浅くなる。
優は父の手を握った。冷たい。熱があるのに手が冷たい。 その矛盾が優を怖くさせた。
廊下の奥から担架が出てきた。白いシーツ。走る足。看護師の声が短い。 「通してください! 通してください!」
人が壁に寄る。列が崩れる。女たちが男を庇うように体を寄せる。
担架の上の男の顔は見えなかった。 見えない方が怖い。見えない方が父の顔と重なる。
病院は戦場のようだった。銃声はない。血も見えない。 あるのは列と紙と呼吸だけ。
そして女たちの足音だけが途切れずに走っていた。
大臣室の空気は暖房が効いているのに冷えていた。
村山達雄は椅子に座ったまま机を叩かなかった。 叩かない代わりに声だけを硬くした。
「――田辺君」 扉の前に立っている男が深く頭を下げた。厚生事務次官、田辺。
「コントロールできているのではなかったのか」
声の芯に怒りがある。 怒りは田辺に向いているというより"外れたハンドル"に向いていた。
「成田。都心。救急。欠勤。――医師会が勝手にAAだの何だのと名前を付けている」
田辺の顎がほんの少し上がった。上がったまま下がらない。
「……大臣。"コントロール"という言葉は紙の上では便利です。現場では口に出した瞬間に嘘になります」
「救急の入口は列です。列の先は床です。床の先は廊下です。――医師が足りません。看護師が足りません」
田辺は紙束を机の端へ置いた。置く音が静かすぎて逆に重い。
「――救いがひとつだけあります」 田辺が言った。 「医師に感染者は出ておりません。現時点では」
村山が呟く。「医師には、出ていない」
田辺は頷いた。 「はい。発熱外来、救急、隔離導線――接触は多い。それでも医師そのものが倒れていない。つまり手順と防護が効いている可能性がある」
村山は机の上の赤い電話機を見た。 「……なら、抑え込めるのか」
田辺の口元がわずかに歪んだ。笑いではない。痛みだ。 「抑え込めるかどうかを決めるのは病気ではありません。人と物流と電力と現場の気力です」
村山は視線を田辺の青い顔に戻す。 「――私が何をすればいい」
怒りの声ではなかった。初めて問いになっていた。
田辺は答えた。短く、手順だけを。
「言葉を統一してください。"過労"で逃げるのをやめる。ただしパニックを起こす言葉は使わない。内部ではAA-MOFSで揃える」
「外には」 「外には、まだ出さない。――出すなら準備を整えてからです」
村山は息を吐いた。机の上の紙が少しだけ揺れた。
田辺ははっきり言った。 「大臣。今の敵は石本でも園田でもありません。――"間に合うふり"です」
部屋が静かになった。村山はゆっくり頷いた。「……分かった。やる」
田辺は深く頭を下げる。下げたまま、青い顔で言った。
「倒れるのは、男だけにしてください」
冗談ではなかった。祈りでもなかった。 ――命令に近い、現場への願いだった。




