第3話:山口の空、ラジオの沈黙
八月の、同じ頃。 山口県の夕方の空は、東京より少しだけ低かった。 湿った風が田んぼの匂いを運ぶ。
玉木優は自転車を押して伊藤和夫の家の玄関をくぐった。 畳の匂い。奥から金属の焦げる匂いがする。
「和夫、これどうするんだよ」
優が言うと、和夫は机の上の配線から顔を上げた。 目が光っている。半田ごての先が赤い。
「触るなよ。今、熱い」
机の横で石川俊夫が座っていた。優より細い手が時々袖口をいじる。 和夫が引き出しから黒い箱を引っ張り出した。角張ったラジオ。「見ろ。BCL」
「……それ、何」 「海外の短波が入るやつ。いま夜に回すと、世界が聞こえる」
和夫はダイヤルに指をかけた。つまみを回すたび、内部で細いバネが鳴る。
「いいか優、今夜はイギリスのBBCを狙うんだ」 「イギリス?」 「なんか、あっちの方で変なことが起きてるらしいぜ」
和夫がダイヤルを回す。 スピーカーからザーッという白いノイズが溢れた。
その中に、ふっと別の音が混じった。 切迫した短い英語。息を継ぐのも惜しいみたいな声。
英語は分からない。 けれど、言葉と一緒に流れてくる"空気"だけは、部屋の中を少し重くした。
優は窓の外を見た。街灯の下、背広姿の男たちが歩いている。 ビールの匂いのする笑い声。
――まだ、この町には「お父さんたちの世界」が当たり前みたいに置かれていた。
十一月下旬。最初の兆しは咳ではなかった。「欠勤」だった。 丸の内のビルの中、証券会社のシステム部。
朝の始業前、いつもなら一斉に鳴る端末の起動音がところどころ欠けた。
「田辺、来てないの?」 「昨日、早退だって。熱」 「高熱?インフルか」 「わかんない。救急車呼んだってさ」
同じ頃、山口。 玄関の戸が開く音がして優は居間から顔を出した。
父の肇がスーツのまま上がってきた。 出張鞄の角がいつもより擦れている。肩が少し下がっている。
「おかえり」 優が言うと、肇は笑ってみせた。「ただいま。東京、疲れたわ」
声はいつも通りだった。でも、笑い方が軽い。軽すぎて薄い。
食卓に座っても箸が進まない。味噌汁に口をつけ、すぐ置く。 「どうしたん」 母が聞く。 「いや……食欲ないだけ。寝たら治る」
肇は笑う。笑って、すぐ口を閉じた。 優はその"閉じ方"が気になった。 父が笑いを途中で切るのをあまり見たことがなかった。
十一月の終わり。和夫の部屋の窓ガラスは外の冷気でうっすら曇っている。 石油ストーブの匂いが畳に染みて、半田ごての焦げた匂いと混ざった。
「……おかしい」 和夫がダイヤルの前で呟いた。
指先がいつもより慎重だった。つまみを回す速度が遅い。 耳が音を"探して"いる。
ザーッ。白いノイズ。 そこに、いつもならどこかの国の言葉が刺さってくる。――今日は刺さらない。
和夫がメモ帳をめくる。鉛筆で書いた周波数の数字。 横に国名らしい単語。BBC. RFI. VOA.
「ほら、ここ。いつもこの辺で――」 つまみが止まる。
ノイズが急に"薄く"なる。ザー……。 音が小さくなったわけじゃない。空気の密度が変わる。
代わりに耳に刺さるほどの静けさが来る。
「……無音?」 優は思わず言った。
微かに残るもの。遠い遠い一本の線みたいな――ピー、という細い音。
「……これ、放送してない」 和夫が言った。声が少し震えている。
俊夫が小さく息を吸った。 「……いつも,声がしてたよね」 「してた」
和夫はダイヤルをまた回した。ザーッ。ザー……。 また沈黙。また細い線の音。
「……ここも」 さらに回す。
いつも夜になると賑やかだった帯域が穴だらけになっている。 喋り声が立ち上がるはずの場所が空っぽだ。
窓の外では近所の犬が一度吠えて、すぐ静かになった。 遠くで車が通る。いつも通りの町の音。
――部屋の中だけが、世界から切り離されたみたいだった。
和夫はしばらくダイヤルに触れたまま動かなかった。 機械の中の小さな灯りだけが変わらず点いている。
点いているのに。世界が消えていく。
優は窓の外の街灯を見た。背広の男たちが歩いていく。笑い声も聞こえる。 町はまだ"いつも通り"を演じられている。
でもラジオの沈黙だけが、先に真実を知っているように思えた。




