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沈黙の十一月  作者: 杜人
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第1話:ロンドンからのテレックス

八月の湿気が庁舎の廊下にまとわりついていた。 時田涼子は腕時計に目を落とす。針は午後二時を過ぎたところで止まりそうなほど鈍い。

「時田さん、こっち」 隣の机の女性が顎で奥を指した。 「通信」とだけ札のかかった小さな部屋。

テレックス機は無表情だった。灰色の箱。 紙が巻かれ、細い歯車が音もなく待っている。

――ガガガッ。

打鍵音が走り、紙が吐き出される。 涼子は反射で受信トレイに手を添えた。熱い紙が指先にすべる。

発信元で目が止まる。LONDON. 同僚が軽く笑う。「また向こうの騒ぎ?この暑いのに」

涼子は笑わなかった。視線が本文の単語を拾っていく。

MALE PATIENTS. RAPID DETERIORATION. UNUSUAL CLUSTER. ……"男性患者"。"急速な悪化"。"集団"。

心臓が一拍遅れて鳴った。

「……何よ、それ」 背後から覗き込んでいた女性の声が低くなる。

涼子は紙を数センチだけ自分のほうへ引いた。 「まだ、確定じゃない」

ドアの外で誰かが笑っていた。廊下の雑談。扇風機が回る音。 日常の音が、薄い紙一枚で遠くなる。

「時田」 不意に、男の声。

係長ではなかった。涼子が"先輩"と呼んでいる人が立っていた。 白いシャツの袖を肘までまくり、ネクタイは緩めていない。

「……先生」 涼子がそう呼ぶと、先輩は眉をわずかに動かした。 目が紙の上の英字に落ちる。

「男だけ?」 先輩の指が本文のMALEに触れた。

「今のところは。偏りじゃなくて……繰り返してます」 「……出せないな」 「はい」

先輩は周囲を見回した。 「原本は」 「ここにあります」

「コピーは取るな。ログも、必要以上に残すな。お前が持て。俺の机には置くな」

涼子は一瞬意味が飲み込めなかった。先輩の机に置けば保護される。上にも通りやすい。なのに。 ――"上"が、まだ日常の側にいる。

「時田」 先輩が声を落とす。 「これ、仕事にするな。まず"命を拾う"ほうだ」

涼子は喉が奥が熱くなって、頷くしかできなかった。 引き出しを開け、無地の茶封筒を取り出した。宛名は書かない。 封筒に受信紙を滑らせる。

――電話を取る。内線番号を押す指先に、迷いが一瞬だけ乗る。その一瞬が長かった。

「……感染症情報の係、お願いします。時田です」

呼び出し音が二回、三回。その間に涼子は窓の外を見た。 蝉が鳴いている。白い空。

「感染症情報係、川上です」

「時田です。海外から変なテレックスが来ました。ロンドン発信。男性患者に偏った重症例の集積が――」

「男性に偏った?」 声が低くなる。

「原本があります。コピーは取らないよう言われています。今、持って行ったほうがいいですか」

一拍。 「……持ってきてください。すぐ」

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