ラウンド1:激論!何を教えるべきか?
(スタジオのホログラムが『ROUND1』の文字を映し出し、その下に『国民に授けるべき、たった一つの最も重要な教えとは何か?』というテーマが浮かび上がる)
あすか:「それでは、ラウンド1を開始します!テーマは『国民に授けるべき、たった一つの最も重要な教え』。皆様には、それぞれの教育哲学の根幹を、存分に語っていただきたいと思います。では、この現代社会の空気にも最も近いかもしれません、まずはフランクリンさん、あなたからお願いできますでしょうか。あなたなら、国民に、まず何を教えますか?」
フランクリン:(待ってましたとばかりに、にこやかに頷く。指を一本立てて、語り始める)「よろしい。実に明快な問いだ。そして私の答えも、また明快だ。教えるべき、たった一つの最も重要なこと。それは『自らの力で、富を築く方法』だ!」
吉田松陰:「富、だと…?また金の話か、この商人は!」(思わず声を上げるが、孔子に目線でそっと制される)
フランクリン:(松陰の野次を意にも介さず、話を続ける)「ミスター松陰、そう熱くならないでいただきたい。これは精神論ではない、極めて現実的な話なのだよ。考えてもみたまえ。個人の自由、幸福、尊厳…そういった素晴らしいものは、一体何の上に成り立つのか?それは『経済的な自立』だ。日々の糧に汲々としている人間に、高尚な道徳や学問を説いたところで、それは空念仏に過ぎん」
あすか:「経済的な自立、ですか。確かに、現代でも『お金がなければ何も始まらない』という声はよく聞かれます」
フランクリン:「その通り!だから、まず教えるべきは、勤勉に働くことの尊さ、収入の範囲内で暮らす節制の知恵、そして、得た富をさらに増やすための投資の技術だ。私が実践し、我がアメリカの礎ともなった『13の徳』…その中核も、勤勉と節制にある。富は、勤勉な者への神からの祝福なのだよ。国民一人ひとりがプチ・フランクリンになれば、国全体が豊かになるのは自明の理。国が国民に授けるべきは、魚そのものではなく、『魚の釣り方』…それも、一番効率よく釣れる方法なのさ」(自信満々に言い切り、両手を広げてみせる)
孔子:(静かな、しかし芯のある声で、フランクリンの言葉を遮る)「フランクリン殿。あなたの言う『魚の釣り方』、それは確かに民の腹を満たすためには必要でありましょう。しかし、その釣り人が、釣った魚を独り占めし、飢えている隣人に分け与える心を持たなかったとしたら?あるいは、より多くの魚を得るために、毒を流して川の魚を根こそぎ獲ろうと考えたとしたら…?それは、もはや単なる釣り人ではなく、社会を蝕む『盗人』と同じではありませぬか」
フランクリン:「ほう、孔子先生。それは極論というものだ。私が言うのは、あくまで個人の自助努力の話であって…」
孔子:「いいえ、これは教育の根幹に関わる話です。あなたは、富を築く『技術』を教えると言う。しかし、我々がまず教えるべきは、その技術を正しく使うための『心』、すなわち道徳です。富とは、あくまで徳のある行いの結果として、副次的に得られるもの。目的と手段を取り違えては、国は必ずや道を誤りますぞ。『徳は本なり、財は末なり』。これが、二千年以上変わらぬ真理です」
吉田松陰:(孔子の言葉に、強く頷く)「その通りだ!孔子先生のお言葉に、我が意も尽きている!そもそも、学ぶ目的が『富』であること自体、志が低いと言わざるを得ない!我々が学問に励むのは、金儲けのためではない!己を磨き、人間としての器を大きくし、この国、この天下のために、我が身を役立てるためである!その気高き精神こそが『志』!富などというものは、志を遂げる過程で、必要であれば後からついてくる、ただの道具に過ぎん!」
フランクリン:(やれやれ、といった表情で肩をすくめる)「お二人とも、実に理想が高い。結構、大変結構だ。しかし、その『徳』や『志』とやらは、どうやってパンと交換するのかね?どうやって家族を養うのかね?理想だけでは、冬の寒さはしのげんよ。まずは現実的な生活の土台を固めてこそ、高尚な議論もできるというものだ」
あすか:「ありがとうございます!いきなり大きな対立軸が見えました!『まず稼ぐ力をつけよ』というフランクリンさんの実利主義に対し、『いや、その前に人としての心を教えよ』という孔子先生の道徳主義、そして『目的は富でなく、国を思う志だ』という松陰先生の精神主義!…では、この議論、モンテッソーリ先生は、どうご覧になっていますか?」
(三者の熱い議論から一歩引いて、冷静に観察していたモンテッソーリが、静かに口を開く)
マリア・モンテッソーリ:「…正直に申し上げて、皆様の議論は、少々、傲慢に聞こえますわ」
吉田松陰:「な、何だと…!?」
フランクリン:「ほう?それは、またどういう意味かな、マダム・モンテッソーリ」
マリア・モンテッソーリ:(落ち着いた口調で、一同を見渡す)「皆様、『何を教えるべきか』と、まるで大人が子どもに何かを授けることが前提であるかのようにお話しされています。フランクリンさんは『富の築き方』を、孔子先生は『道徳』を、ミスター松陰は『志』を、それぞれが正しいと信じるものを、子どもという空っぽの器に注ぎ込もうとなさっている。ですが、そもそも、その前提が間違っているのです」
あすか:「前提が、間違っている…?」
マリア・モンテッソーリ:「ええ。子どもは、空っぽの器ではありません。彼らは、生まれた瞬間から、自らを成長させ、完成させようとする、強烈な生命エネルギーと、そのための設計図を、その内に秘めているのです。ちょうど、一粒のドングリが、誰に教えられるでもなく、樫の木になるための全ての情報を持っているようにね」
(モンテッソーリ、その言葉に熱がこもり始める)
マリア・モンテッソーリ:「大人の役割は、教え込むこと(ティーチング)ではありません。子どもが自ら学ぶこと(ラーニング)を、助けることです。彼らが今、何に興味を持っているのか。何に夢中になっているのか。それを科学の目で注意深く『観察』し、彼らの内なる声が求める『整えられた環境』と、適切な『教具』を準備してあげること。それだけです」
あすか:「クロノス、補足をお願いします。『整えられた環境』『教具』とは?」
(あすかのタブレット「クロノス」が起動し、スタジオのモニターに映像が映し出される。子どもたちが静かな部屋で、思い思いの道具を使い、一心不乱に何かに取り組んでいる様子が流れる)
クロノスの音声:「モンテッソーリ教育における『整えられた環境』とは、子どもが自分で自由に教具を選び、活動できる秩序だった空間を指します。また『教具』は、子どもの発達段階に合わせて設計された、感覚を磨き、知性を育むための、自己訂正機能を持った教材です」
マリア・モンテッソーリ:(映像を見ながら、頷く)「映像の通りですわ。子どもは、誰にも強制されず、自ら選んだ『お仕事』に、驚くべき集中力で取り組みます。その集中の過程で、彼らは、数の概念も、言語の仕組みも、生活の技術も、すべて自ら発見し、体得していくのです。大人が教えるべきは、ただ一つ。『あなたが、あなた自身になるための方法』、それだけ。富も、道徳も、志も、その子が自らの興味の先に、自分自身で発見すべきものなのです」
吉田松陰:(腕を組み、唸る)「…子どもが自ら学ぶ力、か。確かに、私の松下村塾に来る者たちも、学ぶ意欲、知りたいという欲求は、皆、凄まじいものがあった。身分も年も関係なく、互いに議論を戦わせ、教え合った。その点においては、女史の言うことにも一理あるやもしれん。
しかし!だからと言って、師が不要であるということには、断じてならん!子どもが道に迷った時、壁にぶつかった時、あるいは、自らの才能に驕り、道を誤りそうになった時…その手を引き、時には厳しく叱りつけ、正しい方向へと導く『師』の存在なくして、真の人材は育たん!あなたは、その師の役割を、あまりに軽んじてはいないか?」
孔子:(松陰の言葉に、重々しく頷く)「松陰殿の言う通りです。子どもを信じ、その自発性を尊重することは、誠に尊い。しかし、それは、基礎となる『型』を学んだ上での話。例えば、文字の書き方も知らぬ者に、自由に詩を詠めと言っても、それはただの落書きにしかなりません。まずは師につき、先人の築いた知恵の結晶である『礼』や『楽』といった型を、徹底して身体に染み込ませる。その苦しい修練の果てにこそ、型を破る、真の『自由』と『個性』が生まれるのです。『学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し』。自発的な思考も、基礎となる学びなくしては、独りよがりの危険な思想に陥るだけですな」
あすか:「なるほど…!『子どもが自ら学ぶ力』を最大限に引き出すべきだというモンテッソーリ先生のボトムアップ教育に対し、『いや、師が道を示し、まず型を教えるべきだ』という松陰先生、孔子先生のトップダウン教育!これもまた、教育の永遠のテーマと言えるかもしれません…!
教育の根源を揺さぶる、まさに究極の対立です。ですが、孔子先生。先ほどあなたは、富や才能、志、その全てを乗せる『土台』として、『徳』の重要性を説かれました。あなた様が考える教育の理想像、その『徳治主義』の真髄を、もう少し詳しくお聞かせいただけますでしょうか」
孔子:(松陰とモンテッソーリのやり取りを静かに見守っていたが、あすかに促され、ゆっくりと、しかし確信に満ちた声で語り始める)「よろしい。私が目指す教育の究極の目的は、ただ一つ。『君子』を育てることです」
フランクリン:「君子…?ほう、それはまた、随分と立派なものですな。して、その君子とは、一体どんな人間のことですかな?」
孔子:「君子とは、己を修め、人を安んじ、万民を安んずる者。すなわち、私利私欲に走らず、常に公のことを考え、その高い徳をもって、人々を安寧に導く、理想的な為政者であり、指導者のことです。そして、その君子の核となるのが、私が説く五つの徳、『五常』です」
あすか:「五常…!クロノス、お願いします」
(クロノスの画面に、美しい毛筆体で『仁・義・礼・智・信』の五文字が浮かび上がる)
孔子:(その文字を慈しむように見つめながら)「『仁』は、人を愛し、思いやる心。『義』は、正義を貫き、私利を求めぬ心。『礼』は、社会の秩序を保つ、敬意と節度。『智』は、物事の道理を正しく見極める知恵。そして『信』は、人を欺かず、約束を守る、誠実な心。この五つを、学問と実践を通じて、骨の髄まで染み込ませるのです。
国民一人ひとりが、この徳をわずかでも身につけ、そして国の指導者たちが『君子』として、その徳をもって民に接すれば、どうなりましょうな。法や刑罰で民を縛りつけずとも、民は為政者の徳に感化され、自ずと善に向かい、過ちを恥じるようになる。これこそが、力に頼らぬ、最も持続可能で、最も人間らしい国家統治の姿、『徳治主義』なのです。教えるべき最も重要なこととは、この国づくりの根幹となる、人間学そのものなのです」
(孔子、静かに語り終える。その言葉には、二千五百年という時を超えた圧倒的な重みと説得力が宿っていた)
フランクリン:(腕を組み、しばらく考え込んでいたが、やがて口の端を上げて皮肉っぽく笑う)「いやはや、素晴らしい!実に壮大な理想郷ですな、孔子先生。為政者が皆、聖人君子のようになれば、確かに国はうまく治まるでしょう。…しかし、いくつか、現実的な質問をさせていただきたい」
フランクリン:「まず一つ。その『徳』というやつは、一体どうやって測るのかね?例えば、私が事業を興し、千人を雇用し、町に莫大な税金を納めたとしよう。これは、紛れもない『実績』だ。数字で測れる。しかし、ある男が、一日中、難しい顔をして書物を読み、『私は徳が高い』と主張したところで、その価値を誰が証明できる?結局、役人を選ぶ段になって、口が上手い者や、権力者に気に入られた者が、『徳が高い』ということにされてしまうのが、世の常ではないのかね?」
マリア・モンテッソーリ:(フランクリンの意見に、静かに頷く)「フランクリンさんのご指摘は、もっともな点を含んでいますわ。評価の客観性という問題です。そして、私からは、もう一つ、別の角度からの疑問がございます、孔子先生。
その『君子』という、たった一つの理想像に、全ての子どもを当てはめようとなさるのは、あまりに画一的ではありませんこと?ある子は、あなた様の言う君子のような指導者になるかもしれません。しかし、ある子は、フランクリンさんのように実業家になるかもしれない。また、ある子は、誰にも知られず、美しい絵を描き続ける芸術家になるかもしれない。その多様な個性の、どこに優劣があるのでしょう?全ての子どもが、それぞれの方法で、自分自身の花を咲かせることこそが、教育の喜びではないのですか?なぜ、誰もが『君子』という名の花にならねばならないのです?」
孔子:(二人の鋭い批判に対し、少しも動じず、穏やかに答える)「フランクリン殿。あなたは『実績』を言う。しかし、その実績が、民を苦しめて得たものであったなら、それは徳とは言えませぬ。徳とは、短期的な実績ではなく、その人の日々の行い、言葉、そして周囲の人々の信頼の中にこそ現れるもの。確かに測るのは難しい。だからこそ、教育を通じて、誰もが徳を見抜く『智』を養う必要があるのです」
孔子:「そして、モンテッソーリ殿。あなたの言う多様性は、私も否定はしませぬ。花には、様々な色や形があるでしょう。しかし、どの花も、例外なく、大地に根を張り、太陽に向かって伸びるという点では同じはず。私が言う『徳』とは、その根や幹にあたる、人としての共通の土台のことです。実業家になるにも、芸術家になるにも、その根幹に『仁』や『信』がなければ、その才能は、いずれ人を傷つけ、自らを滅ぼすことになりましょう。私は、全ての花に同じ色になれと言っているのではありません。全ての美しい花が、健やかに咲き誇るための、豊かな土壌を作るべきだ、と申しているのです」
(孔子の揺るぎない答えに、フランクリンもモンテッソーリも、ぐっと言葉に詰まる。スタジオには、再び哲学的な静寂が訪れる。その沈黙を、雷鳴のような一喝が打ち破った)
吉田松陰:「もうよい!理屈は聞き飽きたッ!!」
(松陰、勢いよく立ち上がる。その瞳は燃えるような光を放ち、スタジオ全体の空気を震わせる)
吉田松陰:「徳だ、富だ、個性だ、土台だ…!どれも一理あるように聞こえるが、全てが机上の空論に過ぎん!そんな小難しいことをこねくり回している間に、国が滅びてしまったら、元も子もないではないか!」
あすか:「松陰先生…!?では、あなたの答えは…」
吉田松陰:「俺が教えるべきことは、ただ一つ!『行動するための学問』だ!知識などというものは、それ自体に価値はない!書物を千冊読もうが、聖人の言葉を暗唱できようが、それを行動に移し、現実を、社会を、一ミリでも変える力とならなければ、そんなものは死んだ学問だ!『知行合一』!知ることと行うことは、表裏一体でなければならん!」
フランクリン:「ほう、行動、ね。それは私も賛成だが、具体的にはどうするんだね?」
吉田松陰:「俺の松下村塾に、小難しいカリキュラムなど存在せん!やったことは単純だ!まず、歴史を学ぶ。『この国が、いかにして生まれ、いかなる危機を乗り越えてきたか』を徹底的に叩き込む!それから、世界の情勢を学ぶ!『今、我々の外で何が起きているのか』を知らしめる!そして、最も重要なのは、その後に必ず問うことだ!『お前は、この現状をどう思うか』『お前なら、この国をどうするか』と!
弟子たちは、身分も年も関係なく、夜が更けるまで議論を戦わせた!時には、藩の政治について具体的な建白書を書き、実際に提出もさせた!机の上で学ぶだけでなく、剣術の稽古に汗を流し、共に山に登り、酒を酌み交わし、国の未来を憂いて共に泣いた!教育とは、教室の中で行われる生ぬるいお勉強ではない!師と弟子が、共に生き、共に悩み、共に時代と格闘する、命懸けの実践なのだ!
高杉晋作は、『面白きこともなき世を面白く』と、自らの手で時代を動かそうとした!伊藤博文は、この俺の教えを胸に、初代の内閣総理大臣となって、新しい国を創り上げた!彼らに俺が教えたのは、小手先の知識ではない!この国を思う熱い心!そして、たとえ屍を晒すことになろうとも、信じる道を突き進む『狂気』だ!教えるべきは、理屈ではない!師の生き様そのもの!その背中を見て、弟子が『この人のようになりたい』と、魂を震わせること!それこそが、教育の真髄であり、全てなのだッ!!」
(松陰、叫び終えると、はぁ、はぁ、と荒い息をつく。その凄まじいまでの熱量に、他の三者は完全に圧倒され、言葉を失っている。スタジオは、松陰の魂の咆哮の余韻だけで満たされていた)
あすか:(しばらく呆然としていたが、我に返り、震える声で)「…生き様、そのものが、最高の教科書…。ありがとうございます、松陰先生。魂の叫び、確かに、この胸に届きました…」
あすか:(一同を見渡し、ゆっくりとまとめる)「経済的『自立』を説くフランクリンさん。子どもの『個性』と自己教育力を重んじるモンテッソーリ先生。社会の土台となる『徳』を説く孔子先生。そして、全てを行動へと繋げる『志』を説く、松陰先生…。皆様、ありがとうございました。これで、四者四様の『教えるべきこと』が出揃いました。
どれもが正しく、そして、どれもが、他とは相容れない。まるで、複雑に絡み合った知恵の輪のようです。…ですが、きっと、この熱い議論の中にこそ、現代日本が抱える課題を解きほぐす、未来へのヒントが隠されているはずです」
(あすか、クロノスを操作する。ホログラムの文字が『ROUND1FIN』へと変わる)
あすか:「ラウンド1は、これにて終了です。ですが、戦いはまだ始まったばかり。次のラウンドでは、さらに踏み込んで、『では、具体的に、どう育てるべきか?』という方法論について、議論していただきたいと思います!」
(次の激闘を予感させる、力強いBGMが鳴り響く。対談者たちの視線が、再びテーブルの中央で激しく交錯する)