故郷は遠くにありて思うもの
「先生、息子はどうなんですか」
白衣の老人は視線を、宙に浮かぶ電子カルテのホログラムから、声の方に向ける。彼の前には虚ろな表情でベッドに横たわる少年と、手を握る母親の姿があった。
「残念ながら、流行り病に間違いないです」
母親は項垂れ、両手で顔を覆った。
「薬を出しておきます」
少年と母親が映し出されていたホログラムが消えると、今度は看護師が現れた。
「診療時間外になりました。本日の業務は以上になります」
医者が頷くと看護師の姿も消える。
暗い部屋の中で、医者が立ち上がり伸びをすると照明が点いた。
扉が控えめに叩かれる。医者が扉を開くと、真鍮色のボディのロボットが立っていた。左右の腕の長さが異なり、ケーブルが露出した流麗さとは無縁のロボットは両三本の指で車いすを押している。
車いすには老婦人が虚ろな表情で座っていた。
「待たせたね。行こうか」
二人と一体は海岸の望めるバルコニーでテーブルに着く。既に一人分の料理が並べられてあり、皿を覆っていた半透明の膜がパタパタと勝手に畳まれていく。
医者は並べられていた料理に手を付けていく。対面の老婦人は無表情でいた。
二人の間に会話は無く、夕陽が海岸の向こうに消えて行く。
「美味しかったよ」
食事を終えた医者は老婦人に微笑みかける。
老婦人の表情に変化はなかった。
「お体が冷えます」
ロボットは老婦人の乗る車椅子を押して先に室内に戻る。
見送った医者は海岸に並ぶ多くのベッドを見た。年齢も性別も様々な人が、ぼんやりした表情で横たわっている。
「偽物の海で病が治るものか」
医者は吐き捨てるように言うと、室内に戻る。リビングのソファにゆっくりと腰かけると、ロボットが戻って来た。
「康則さんから連絡がありました。メッセージを残されましたが」
「再生してくれ」
ロボットが直立の姿勢を取り、胸から雑音が流れ始め、直ぐに男性の声が聞こえてきた。
「父さん、僕はやっぱり志願するよ。これはチャンスだ。多分、病気を解明するきっかけがあそこにある。メッセージを聞いたら連絡をくれ」
再生が終わると医者は目頭を強く揉んだ。
「返信は致しますか」
「明日の朝にする。今晩はもう休んでいい」
ロボットは小刻みに体を揺らしながらリビングを出て行った。医者はテレビに向かって人差し指を回す。ぱっと明るくなったテレビの画面にスーツ姿の女性が映った。
「先日、最新の感染者数が各病院から公表されました。推定ではコロニーの15パーセントが、り患している疑いがあり」
溜息を吐いた医者はチャンネルを変える。
「企業連合の対策としては」
「政府の対応が遅れているという批判に」
医者はテレビの画面を消した。
「まったく」
静まり返ったリビングで、医者は画面の消えたテレビを眺めていた。
日が沈み、勝手にリビングの照明が点いた頃だった。
がちゃん、と窓ガラスの割れる音が聞こえた。
音のした部屋に向かうと、目出し帽を被った男が包丁を持っていた。
「中山だな」
「そうだ」医者は首肯した。
男は両手で包丁を構えると、医者に突き付ける。
「俺と一緒に来い。娘を治せ!」
「それは無理だ」
「嘘をつくな。あんた、分科会の一人だろうが!」
「私が会に参加していたのは半年以上も昔だ」
「なんでもいい。俺の娘を治せ!発見した治療法を教えろ!政府は治療法を隠しているんだろう!」
「出鱈目だ。政府は何も発見していない。そう報道されているだろう」
「嘘をつくな!」
医者と男は睨み合っていたが、医者の圧力に押された男が僅かに後ずさりをした。
「着いて来い」医者が言った。
背中を見せた医者の後を、男は躊躇いがちに続く。二人は電気の消えた部屋に入る。
部屋には、ベッドの上で横になり、眠るともなくぼうっと虚空を見つめる老婦人がいた。
「私の妻だ」
医者は男の様子を盗み見た。目出し帽の上からでも唇が震えているのが分かった。二人は穏やかな表情のまま動かない老婦人を見つめている。
「私が分科会を辞めたのは、打つ手がないと分かったからだ」
いつの間にか男の気配は消えていた。潮騒だけが寝室に聞こえていた。
「よかったのですか」
振り返るとロボットが廊下に立っていた。
「どうして彼を責められようか」
「本当に治療法は分かっていないのですか?」
「治療法も原因も分かっている」
「どうして嘘をついたんですか。彼に伝えれば」
「しかし解決のための手段はないからだ」
「どいうことでしょうか」
「この病気は人が地球を離れたからこそ、起きたものだからだ」
老婦人の部屋を出た一人と一体はリビングに戻って来た。医者が手を叩くと照明が消え、中央に灰色の球のホログラムが浮かぶ。
「地球を去ってほんの数年だが、人間の些細な部分から歪みが生じている。地球に居た頃には見られなかった兆候だ。それらが積もり、病となっている」
「誰にも予想できなかったのでしょうか」
「数年間、誰も地球の外で生活をしたことが無かったのだから仕方ない」
「このコロニーの風景は地球の環境に酷似していますが」
「環境や街並みを再現した所で紛い物でしかない。結局、人は本能的に地球に縛られているのだろう。人は故郷を離れるべきではなかった」
「しかし、もはや地球は人が住める環境では」
一人と一体の視線の先で、暗いリビングに漂う惑星は渦巻くガスに覆われ、時折、隙間から覗く地上は固まった血液のように赤黒い色をしていた。
「故郷は遠くにありて思うものだ」