12月10日、プロポーズ。
乾いた落ち葉がシャラシャラと自分の足元を通り抜けたとき、僕は、しまった、と思った。
太陽が真上にあるうちはいいが、陽が沈めばジャケット一枚だとさすがに肌寒い。
道を戻ってマフラーでも取ってこようか、いや、今戻ったら待ち合わせにはきっと間に合わない、でももしひかりも薄着だったら……なんて悶々と考えているうちに、切符を握りしめ駅のホームに立っていた。
小倉駅行きの電車の中で、鉄分と人間の汗が混じった、蒸れた生暖かい空気を吸い込みながら、僕は"アレ"を渡すタイミングをずっと考えていた。
こげ茶の小さめのショルダーバッグには、自分の想いを込めた手紙が入っている。
できるだけ美しい字を心がけた。
プロポーズなんて、僕には無縁の話だと思っていた。
ひかりは少し変わっていて、もしもプロポーズをされるとしたら、指輪じゃなく手紙が欲しい、想いをいつまでも新鮮なまま手紙に残したい、と願う人だった。
ひかりの反応に期待する一方、断られた後の事ばかり考えていた。断られたらどうしよう。どんな顔をしようか、どんな声色で、どんな言葉を使おうか…。
僕の頭の中は、ネガティブな妄想でいっぱいだった。
僕には、人生の中の大切な場面で背を向けて走って行ってしまう、いわば逃げ癖があった。
その行動の根幹には、傷つきたくないという自衛の本能が強く表れていた。
逃げるという行為によって、自分自身を守ることはできたが、大抵は自分以外の誰かが傷ついた。
僕はひかりを傷つけたくはなかった。だから今日だけは、たとえ断られたって、絶対に逃げないと誓っていた。
何より僕には、ひかりがきっと自分のことが好きだろうという大いなる自信があった。
ひかりに初めて出会ったのは、一年前の晩秋だった。
僕が自宅の前で倒れていたのを、ひかりが偶然発見し、目が覚めるまでつきっきりで世話をしてくれたのだという。
ただその時、自分が前日に一体何をやらかしてひかりの厄介になったのか、さっぱり覚えていなかった。
世話を焼く間にひかりも情が移ったのか、その日からほぼ毎日のように僕のところに顔を出しては、体の調子はいかがですか、よかったら召し上がってください、と晩飯の残り物を土産で置いていくようになった。
それからしばらくすると、夜だけは二人で食卓を囲むようになった。僕たちには、「家庭」というものがなかった。
だから二人きりの晩飯の時だけは家族のように笑い合って、寂しさを紛らわした。残りの人生をひかりと過ごしたい、もう僕の人生には、ひかりのような人は現れないだろうと思い始めるのは自然な事だった。
ひかりに対する好意が確かなものだと認識できた後、僕は色々と頑張った。
週末には必ず花を買って帰ったし、半月もすると、「好きだ」という言葉を頻繁に使うようにした。
君の作る料理が好きだ。君が書く文字が好きだ。君の匂いが好きだ。君が怒った顔も好きだ。君の頑固なところも、優しくて素直なところも好きだ。
ひかり。僕は、君が心の底から好きなんだ。
今日は僕たち二人が出会ってちょうど一年目だ。残りの人生を共に歩みたいと伝えるには今日しかないと、駅前で僕に大きく笑顔で手を振るひかりを見てまた強く思った。
「ひかり、ごめんおまたせ。待った?」
「全然。今来たところだよ。じゃあ、いこっか。」
駅内のビルにある湊屋で寿司を食べた後、小倉城内を散策することにした。
出会ったころから、ひかりの黄色いレザーのキーケースには、所々色の禿げた名古屋城のストラップをつけている。キーケースの内側の小さい透明なポケットには、金閣寺の写真を入れていつも持ち歩いていた。
ひかりはもしや、古いものが好きなのではないかと、小倉城内のツアーを二人分予約していたのだった。
しかし、その後の1時30分の映画に間に合わなくなりそうだったので、僕たちは小倉城内ツアーを仕方がなく中断し、ユメモールへとゆっくり歩きだした。
映画の間、ひかりはずっと泣いていた。
初めのうちは、握り拳をぎゅっと膝の上にのせ、吸っているのか吐いているのか分からないような控えめの息をして、僕がひかりの耳元に何か囁いても、死んでいるんじゃないかと思うくらい、どこも動かさなかった。ひかりが思い出したかのようにハラリ、とまばたきをした時、ほろほろと大粒の涙滴が、ひんやりと青白く浮かんだひかりの頬をスッと伝って、白のスカートに滲んで姿を消した。
映画の終盤あたりに差し掛かると、ひかりは自分自身をコントロールできないみたいだった。
溢れ出る涙も、声も、抑えられないように、ただひたすら泣いた。ただ子供と違って、とても柔らかく、細い糸が揺れるように、繊細に泣いた。
映画が終わった後、ひかりにどうだった?と聞くと、何だか昔のことを思い出しちゃって、泣いちゃった。恥ずかしい。大人気なかったよね、ごめんなさい。と僕に謝った。あなたはどうだった、とひかりに聞かれ、僕はひかりが美しいと思った、と言った。ひかりは穏やかな声で、馬鹿ね。とまつ毛をまたハラリと伏せた。
外に出ると、一瞬にして季節が変わってしまったのかと思うほどだった。赤く腫れて少しだけ血の滲んだ細くて白い指先に、ひかりは薄白の息を吐きだした。なじみのいいひかりの冷たい手をぎゅっと握ってジャケットのポッケに入れ、紫川の河川敷を少し歩いてから帰ろうか、と言った。
「今日は本当に楽しかった」
「僕も楽しかったよ。よく考えたら、二人でこんな風に出掛けたことなんて無かったね」
「そうだった?」
「そうだよ。それに今日は、僕たちが初めて出会ってから一年だ」
ひかりはあっと静かに驚き、そうだったね、と小さく呟いた。
「ひかり」
「うん?」
「話したいことが、あるんだ」
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