9話 パビカフェ
コンビニでおにぎりやジュースを買って、暖房の効いた待合室でぼうっと正月番組を見ていた。
今日は普通の元旦。信じられない。
テレビの中で綺麗な振袖を着たアイドルと、芸人らしき男が、雑煮の餅を食べながら笑っている。
「やっぱり夢だったのかも」
鈴凛はそう思って手を見たが指輪が収まっていた。
「こんなに食べたのにまだ食べたい」
することがないのもあるが、鈴凛は三回コンビニに行き、おにぎりは十個。菓子パンも十個以上食べた。
ぐうとお腹が鳴る。
「お餅がたべたいな……おばあちゃんのお雑煮」
空腹が異常だった。五日程度眠っていたらしいから飢えているのかと鈴凛は思う。腹が全然膨らんでない。
「……」
「リリ!」
遠くで呼ぶ声がする。
後ろを振り返ると小柄でうねった髪の白髪混じりの父が走ってきた。
「−−よかった、無事で」
息があがって、父は膝に手をついていた。
くたくたのスーツに、いつもの古い携帯電話を握り占めていた。
ひとめで苦労してずっと探してくれたことがわかった。
「お父さん、ごめんなさい」
髭が伸びて、クマがくっきり浮き出ている。疲れてはいるが、優しい安堵した眼差しがあった。少し疲れた匂いがした。
「よかった」
笑うと優しいシワが顔中に広がる。
「……」
久しぶりに会った父は歳をとっていた。
「よかった無事で本当に、本当に」
父は泣いた。
「すまなかったな……」
「怪我してないか?大丈夫か?」
「う……うん」
「!」
父に電話がかかってくる。それを見て父親は僅かに顔をしかめた。会社からのようだった。
「はい源です」
「はい、−−はい。申し訳ありません」
「それは」
父の何か言うことを遮って向こうが何かを長く話しはじめた。
終始、父親は顔をしかめている。
「そこをなんとかしていただきたいです」
「……」
「わかりました」
「会社休んだの?怒られた?ごめんなさい」
娘が行方不明になっても会社は探すことも許してくれないらしかった。
「あ……ああ。いや、会社はどうでもいいんだよ。鈴凛が無事でいてくれただけで」
「ありがとう」
父は身震いした。室内とはいえ冬のコンコースは寒い。
「16時47分ので帰りたいから……」
まだ30分程度あった。
「……まだ帰りの新幹線まで時間があるから」
「暖かい飲み物でも」
父が構内の隅になる喫茶店を指差した。ステンドグラスが店と駅との仕切りに嵌め込まれている。古臭い昭和っぽい雰囲気の小さな店だった。『パビカフェ』と書いてある。
「出張でたまに使うんだ」
「うん」
「いらっしゃいませ」
「コーヒーは飲まないだろ? おすすめ紅茶セットをふたつ」
メニューは少なかった。店内はがらんとしている。
「店内は暖かいな」
父も何を話からはなしていいのか、腕時計をした手が下にいったり上にいったり落ち着かないように両手をテーブルの上で動かしている。
「……うん」
しばらくすると、店員がカップとソーサーをかちゃかちゃと言わせながら持ってきた。
小さなピンク色と黄緑色のマカロンが添えられている。
優しい味だった。
「あたたまるよ、飲みなさい」
砂糖も入れてないのに少し甘く感じる。
「おいしい」
甘ったるいヴァニラの香りを含んだファンタジーを詰め込んだような不思議な匂いがした。
「……」
熱いと思って用心して口をつけたが、思いのほかぬるい。
体が隅々まで緩んだ気がした。鈴凛はマカロンもすぐに口に入れた。あんなに食べたのにまだ食べ足りない。そわそわとして店の前の食品サンプルを眺めてしまう。
「家出するほど追い詰めてすまなかった」
父の神妙な声で鈴凛は背筋をぴんと伸ばして視線を戻す。
「……」
「とにかく……一緒に一度、宇多の家に帰らないとな……」
父親は力無く言った。
あたりまえのことだ。
恐ろしいことは終わった。
それなのに全く嬉しくない。
父親も帰りたくないのか浮かない顔をしている。
「うん……そうだね……」
リリの顔を見て、父が言った。
「帰りたくないのか」
「帰り……たいよ」
鈴凛はようやくそう言った。
もうあんな怖い目にあうのは嫌だ。
でも、帰ってももう自分の部屋は無かったことを思い出す。
あの二人は帰ったらどんな顔をするだろうと思った。
長い沈黙が流れた。
「……」
すると父親がふと小さく口を開く。
「名古屋に来るか?」
突然そう言った。
「え?」
鈴凛はカップを持った手が止まる。
「全部がうまくいったら……だが」
鈴凛は体がすっと軽くなるのを感じた。
「ほんと?」
声が上ずる。
「もちろん編入試験を受けて、どこか別の高校に転校しなきゃいけないが」
指先が震える。
「もしおまえが−−」
「うん!わたし名古屋にいきたい!」
思わず身を乗り出してしまい、がしゃんとテーブルの上のものが揺れた。
「わ、ごめん」
リリは震えた。全部が変わる。今までのことに全部さよならできる。
あの学校のいじめっ子にも、サキにも会わなくて済む。未来妃に可哀想な目でみられることもない。毎日もうあんな思いをしなくていい。それに……この指輪の世界の彼らにも、みつかりにくいかもしれない。
「すぐにでもいきたい」
「そうか」
「あ……でも」
鈴凛は思い出した。
「でもお父さん新しい人がいるんじゃ。お父さんの新しい恋人……」
「なに?」
父は心底驚いた様子だった。
「そんなもの、いるわけないじゃないか」
リリは今日子が持っていた写真を見たことを告げた。
「今日子は勘違いしているんだ。その人は……そういうんじゃない」
父親は少し困っていた顔をした。
「すまないわたしたちのことでおまえに……」
「じゃあ、わたしが行っても大丈夫?」
「ああ、もちろんだ」
新しい生活がはじまる。名古屋で。
「そしたら……!」
鈴凛の思考によぎるものがあった。
こんな時まで横顔の如月シュウマが浮かんだ。
紅茶のまだ揺れている表面を眺めた。
馬鹿みたいだ。
如月周馬と友達でも、まともに話したこともないのに。
「……」
通りをみやる。世界は広いはずだ。かっこいい人はいくらでもいる。
「……」
通り行く、萎れたきのこのようなおじさんやギラギラしたもので髪をねめつけ、自信に満ちた様子で電話をかける若い男たちを眺めて自信を無くしていく。
「いやいないか」
この世界に如月周馬以上に、透明で屈託なく輝く存在がありえるだろうか……もうあんな人には、人生で二度と出会えないかもしれない……
「……でも」
あきかけた口が閉じる。
冷静になって考える。
自分はこの世界に何を期待しているのか?
自分とあの美青年が恋に落ちるわけがない。友達になれるわけがない。世界線が交わることは無い。
それよりも、今現実を見ることが大切だ。咲との憎しみに満ちた家での生活や、柊勇吾たちのいじめに終止符を打つことが、自分の人生にとって、どれだけ大切かバカでもわかる。
「……」
そして指輪の感覚をポケットで探す。彼らにもう見つからないためにも名古屋に行く方が良い気がした。
「わたし、お父さんと暮らしたい」
そう言ってみて、リリは今まで何故そんな簡単なことが、素直に言えなかったのか自分でもわからなかった。それは言葉に出してしまえば、勝手に転がっていく小さなビー玉のような願いだった。
「リリがそう言ってくれるならそうしよう」
「遅すぎたのかもしれないな……」
「はやく言うべきだった」
父親はぽつりと言った。
「勇気がなかったんだ……」
「……」
「言い訳じゃ無いが、色々なことが頭に浮かんだんだ」
「鈴凛はお婆ちゃんの思い出がある宇多を離れるのは嫌なんじゃないかとか、男親と二人暮らしなんて女子高生は気持ち悪くないかとか……」
父親は自信なさげにもじもじとして見えた。
「……」
なるほどと思う。
自分も似ているこのような煮え切らない態度が人をイラつかせるのだとなと他人事のように思った。
「いやそれも言い訳だな」
「本当は今日子がどんな顔をするだろうとか、中立を破って鈴凛の願いを聞いたら……咲がもっと手に負えなくなるほど我儘になるんじゃないかって……ふがいない父親だ……」
鈴凛は父親も色々悩んでいたことに、少し驚いた。名古屋で一人でのびのびと暮らしているのだと思い込んでいた。
「家族が壊れてしまうのが怖かったんだ」
「わたし……お父さんに見捨てられたと思っていた」
「!」
「素直にお父さん助けてって言えばよかった。お父さんも悩んでいたのに……ごめんね」
「鈴凛」
父は嬉しそうに、そしてさらに年老いたように見えて笑った。
「仲直りだね」
腕時計に目を落とす。
「時間だ」
二人は新幹線に乗り込んだ。平日はサラリーマン風のひとが多い。
ほとんどが、パソコンやタブレットを開いている。
鈴凛は父と色々なことを話した。母には父から名古屋へリリを住まわせることを言うこと。リリは父親の職場の近くの高校の編入試験を受けること。父が名古屋で休みにリリを連れて行きたいところ。
「鈴凛……?」
「なんだか体が重い」
「少し休みなさい」
父親がそういうとリリは張り詰めていたものが事切れたような気がした。