プール道具室
この世界に生まれてはいけなかった存在などあるのだろうか。
神さえもそう思うものが−−
「おい夏になったけど、閃は死んでねえじゃねえか」
哀が黒いゴーグルをつけたまま仁王立ちで言った。
七月になり、すっかりプールの季節になっていた。
「ちょっと、死ぬべきみたいな言い方やめてよね。いいことでしょ。余命なんてそんな正確なものじゃないし、このままよくなってくれたらいいの」
未来妃が言った。
「新しい鳴海先生が優秀なのよ……ちょっとあの人怖くて近寄りがたいけど仙道先生より優秀そうで……って、ああ、いけないいけない集中……集中て」
「未来妃、おまえはプールになんで単語帳?」
「順番待ちの間も無駄にはできない。とにかく間に合わないの。ああーもう!頭こんがらがりそう! どこから手をつけていいやら。今週末は閃くんとプールの約束あるのに!ほんとうに勉強する時間がない!」
「どこから……」
「なんで二人ともそんな余裕なの」
鈴凛はそう言いながらも自分はもはや諦めてしまっていることに気が付く。
「もうセンター試験まであと少しなのに」
「試験なんてどうでもいいからよ」
哀があっけらかんと言ってしまう。
「鈴凛もなんか余裕じゃない?」
「え……そんなことはないけど……」
「わからないことをわからないままにするからだ」
飛鳥がやってきて未来妃を睨む。
「自由時間だって」
周馬と熊野もやってきた。
鈴凛は周馬の水着姿に少しだけどきっとする。綺麗な体に整った筋肉が浮いている。
それを見ると、南の国にでも無人島をみつけて、二人っきりで永遠に暮らすのも悪くないかもと思えてきた。
「勉強はひとまずおいて、今年はじめてのプールを楽しもうぜ」
周馬がにやっとして言う。
「だな!」
アイがそう言って勢いよく飛び込んだ。
「うわ水が飛び散る……何もかもうまくいってるあんたたちと一緒にしないでよね……」
プールサイドで未来妃がいじけていた。
「鈴凛、水着よくみせて」
周馬が冗談めかしていう。
「え……やだよ……はずかしい」
鈴凛は未来妃の後ろにかくれた。とても自慢できる体ではなかった。
「本当にうらやましいほど能天気ね。いいわねえ夢があるひとは……」
未来妃に同情する。誰もがそこまで賢くはない。
留年がかかり勉強していた時期もあったが、また鈴凛は勉強が適当になっていた。でも幸いなことに鈴凛は大学にいかなくていい。
みんなとわいわいくだらないことをやっていれば忘れることができる。
時間が飛ぶようにすぎたきがした。
わからないことをわからないままにしたくなくても、新しいわからないことが無限に積み上がるのだ。なすすべはない。
ただみんなといる楽しさでそれを紛らわせている気がした。
あの竜宮城から、何も進展もないまま7月を迎えてしまった。
何も解決しないまま。何もわからないまま。
「……」
幸いなことに閃はすぐに死ななかったし、鈴凛はわからないことを、わからないままにすることに、慣れてしまっていた。
今までの人生わからないことだらけだった。咲となんでこんなに憎しみあうのかも、母にここまで嫌われるのかも、何で戦姫になったのかも、何で未来妃が自分のことをこんなに好きなのかも、なんでいじめられていたのかも……
なんで周馬と付き合えたのかも
何もわからない。
「……」
陵王は照日ノ君の分身。
鈴凛はまたわからないことが増えたことだけは気がついていた。
これもわからないままな予感がした。
もはやわからないことが多すぎて、わからないことがどれだけあるのかもわからなくなってきたし、わからないことなんて無数にあって、考えても無駄なきがした。
「
「思考停止するな。わからないことをわからないままにしてくるからそうなる」
鈴凛は飛鳥の発言にドキッとする。
「だって気がついたらそうなってたんだもん。もうどこまで、できてるのかも、わからないわよ」
未来妃が飛鳥に訴えている。
「自分の現在地も理解してないのに、何かをするな。できているとできていないをまず見える化しろ。その面倒をやらない限り勉強する意味がない」
鈴凛は整理することも、考えることもなく生きてきた、いつもいっぱいいっぱいなのだ。そんな賢い人ばかりじゃないと思った。
「そんなこと言ったってそんな時間がどこに。わからないことを解決する前に次がくるのよ。それにできてないことが多すぎてもう間に合わないことを知ったら勉強に手につけられなくなりそうで」
「それでもそこからできることを選ぶしかない」
−−終わり〜!! 着替えて教室戻れ!
体育教師の三村が声をあげていた。
「はあ……」
鈴凛も重い腰をあげた。
「源、道具室をさっとかたずけて、鍵かけておいてくれないか」
三村が笑顔で立っていた。
「はい」
鈴凛はなんで自分なんだろうと思いながら、鈴凛は着替えたあと、鍵を持って更衣室にむかった。
ついてない。
弁当を食べる時間が減る。周馬や未来妃と昼休みは宇多での最高の時間なのに……。
「?」
道具室の中に誰かの気配がした。
−−もっと可愛くならなくちゃ……痩せなくちゃ……
声がきこえた。
誰かが腰掛けていた。
今日は組との混合の体育だった。鈴凛は知らない子だろうと予測していたが違っていた。
「野奈」
細い後ろ姿が見える。
久しぶりにその名を読んだ。
返事がない。
鈴凛はしょうがないかと思い直して、無視してかたずけをはじめようかと思ったとき、ものすごい穢レの量に気がついた。
「!……」
鈴凛は声をかけるべきか迷った。
今までのことが頭をめぐる。助ける義理はない。
ざわざわと穢レがあつまって、本人には見えてないが、幽霊のような人影が肩にいくつも乗っかっているのが見えてくる。
「はあ……」
鈴凛はため息をついた。
「こんなところで何してるの」
「……」
「野奈ちゃん」
「……なれなれしく、名前でよばないでよ」
野奈は一瞬びくりとしたものの、重苦しい声で振り返らずに言った。
「着替えないの?」
「……あなたさえいなければ」
「周馬君とだってこんなに離れることはなかった」
「!」
「あの悪魔みたいな子もこの学校に来ることはなかった」
「悪魔みたいな子……?」
ああ、咲のことか、と思う。確かに悪魔みたいである。
「なんで全部、滅茶苦茶にするの?」
「!」
鈴凛は少しむっとする。滅茶苦茶? 友達だったわたしを散々手下を使っていじめたくせに。
「……」
鈴凛は言い返そうか迷って黙った。
「あの子、なんなの……」
確かに学校中の野奈のファンは、すっかり咲のファンに入れ替わってしまっていた。
鈴凛も野奈の存在すら忘れかけていた。そういえばいつも最近いつも一人でいるのをみかけたような気がする。
鈴凛にいわせれば学校にいた野奈のファンなど所詮、顔しか見てない連中だから、そんなことはしごくあたりまえに思えた。連中は短絡的な欲望だけで動く、そう、子豚塚くんみたいに。
「鈴凛ちゃんのせいであんな子がこの学校にきたんでしょ!どうにかしてよ!」
確かに。それは間違いではない。
「咲は」
なんといっていいかわからずそう言う。
穢レが渦巻いて野奈にまとわりついてぐるぐると畝っていた。
野奈を許せない気持ちと、このまま放っておいてはやばいという理性が戦っていた。
「なんで……」
小顔の野奈は儚さを通り越して、危うい感じをかもしだしていた。
「あの子はわたしとは全然違う」
咲は周馬と釣り合う。本物に比類なき美しさを持った芸能人だった。鈴凛はそういう流行だの芸能だだのの情報に疎かったし、妹の活躍など知りたくもなかった。だから知らなかったが、鈴凛だって思い知らされている。咲は今や美人の代名詞で、超有名人でこの地味な地方の田舎街には不釣り合いだった。最近では世界でもっとも美しい顔にノミネートされたと聞いた。そんな美女がわざわざここにいる理由。
「わたしから周馬をとるためにここにいるんだよ」
本物の悪女の前では野奈は役不足。小悪魔も本物の悪魔の前ではなすすべがない。
「あの妹には一番わたしが困ってる」
「なにそれ」
野奈は吐いて捨てるようにそう言った。いつもの誰かにやらせておけばいいといった余裕がない。それもそのはずだ、上田三枝も、山原泰花も鈴凛のせいで死んでしまった。
「勇吾をとられることもなかった」
柊木勇吾は完全に咲とおぞましい気質があってしまったらしく、いじめっ子グループのパワーバランスは崩壊してしまったらしかった。
柊木勇吾は幼馴染の野奈をあっさり放り出して、咲と学校での権力を集中させ、悪の帝国を築こうとしているらしかった。
もしくは鈴凛に虎視眈々と仕返しの機会を伺っていた。
「……」
だからといってもちろん野奈と柊木勇吾の友情の再構築に一役買ってやる気にはとうていなれない。
「あんなやつとは縁を切ったほうがいいよ」
「鈴凛ちゃんに何がわかるの!!」
野奈が叫んだ。
「わたしは寂しそうにしてたあなたをグループに入れてあげたのに」
「なんで……」
「わたしから周馬くんをとって……」
自分をさんざん手下をつかっていじめていた事実はぬけおちて、自分自身はすっかり美化されていることに鈴凛は呆れて物も言えなかった。
それなのに野奈はこう言った。
「大っ嫌い……」
涙目になった野奈がしぼりだすように言って、鈴凛を睨んだ。
「!」
久しぶりに野奈が鈴凛を見た気がした。
可愛らしい丸い目が人間に懐かない怪我をした野生動物みたいな目できっとこっちを睨んで必死に去勢を張って涙を堪えている。目は少し充血して、骨が浮いて、表情に病みと闇ばかりがさしていた。
いっぱいいっぱいで、限界で、どうしようもないんだな、鈴凛はなぜか冷静にそう受け止めていた。
「このままじゃやばいよ」
鈴凛はぽつりとそう言った。
「……ほっといて」
野奈はどう見ても限界だった。
助けてと悲鳴が聞こえるようだった。
別のクラスになって鈴凛にとってどうでもよくなっていたが、野奈は柊木優吾がいなくなってから、一人で孤立しているのだと思った。他の子が誘ってもプライドが許さないのか一人でいる。
「とにかくいこう……鍵かけないといけないし」
「水着は着れない……」
しぼりだすように野奈は言った。
「……」
「こんな骨じゃ水着なんて着れないの!!」
「……」
「水泳の授業はもう終わったよ」
鈴凛は本当に野奈がいっぱいいっぱいなのだと思った。
「……」
「いまからお昼の時間だから」
「そう……」
野奈は荷物を持った。
鈴凛は背をむけて、歩き出す。
足首をさあさあと冷たいものが抜けていく。
「……」
穢レが強すぎる。
このままでは−−
鈴凛はそこまで考えてぎゅっと目を閉じた。
頭ではこのままではまずいと理解できる、でも気持ちがついていかない。
野奈を助けるなんて。
鈴凛はなぜこのタイミングで−−と運命を呪った。
いっそ忌になってくれていたら、仕方なく切ったのに。
「……」
最後の最後にまるで野奈を助けるのかどうか試されているみたいだった。
「……緒に」
野奈の手をつかんだ。
「なに」
「いこう」
「お昼ご飯、一緒にたべよう」
「はあ……?」
鈴凛は自分でも信じられないことを言っていた。
「……!」
野奈は驚いた顔をしていた。
柊木省吾を殺した。前世も殺したかもしれない。
自分が自分でわからない。
いったいどんな性格なのかも、運命なのかもわからない。
でも今は選べる気がした。
彼女を助ける人間になるのか、ならないのか−−。
「……いい。同情なんかいらない」
「同情じゃない。とにかくしばらくわたしの目の届く範囲にいてもらわないと困るの」
鈴凛は野奈を屋上にひっぱっていく。
「ちょっと!なに……」
「放っておくわけにはいかないの。わたしが嫌な人間になりたくないの」
「なにそれ」
忌になったら困る。特に学校で忌になったら困る。
「病んでいくところまでいってしまったら、わたしが困る」
「は?」
忌になってしまうのを、そのままになんてできない。
それだけ。
本当にそれだけだ。
そこまで考えて思い出す。
「もう友達じゃないけど」
青雉も……三枝ちゃんもその方がきっと喜ぶから。鈴凛は心の中で言った。野奈は知らないけど命を張って守ろうとした。だから野奈は簡単に死んだり忌になったりしては困る。
この子にだって友達はいた。
自分にとっての未来妃みたいに。
「ほうっておいてよ。わたしは大丈夫なんだから」
「大丈夫じゃない」
*
屋上に二人でやってくると、未来妃と哀がぎょっとする。
「なんで連れてきた」
哀が眉間に皺をよせる。
「今日からお昼を一緒にたべる」
「それって……」
「こいつおまえをいじめてたやつなんだろ」
哀が睨んだ。
「そうよ……鈴凛にひどいことしたのに」
未来妃が顔をひきつらせていた。
自分だって入れたくない。でもこのままじゃ、野奈はたぶん忌になる。
鈴凛の穢レに影響されているからか、野奈の闇が深いからなのかわからないが、鈴凛に見えている穢レの強さは尋常ではなかった。
「許したのか?」
「許してないけど」
「じゃあなんでだよ」
哀には穢レは見えていないようで、哀も納得いってないようだった。
飛鳥と熊野は黙って様子を窺っている。
周馬は購買部にいっていているらしくまだきてない。
「周馬君こないじゃない」
「周馬めあてかこいつ」
「なんで連れてきたの」
野奈は弁当すらもってきていなかった。
「……食べなよ」
鈴凛は自分がコンビニで買ったものを半分あげた。
このままじゃますます体が弱ってよくない。
体が弱ると、心が弱る。
「食べなきゃどんどん痩せてくよ」
「そうね。無理なダイエットはよくないわよ」
未来妃も言った。
野奈は苦しそうに小さな弁当をみつめていた。
「うるさい……」
「よ、お?」
周馬がやってくる。
「もう、ほうっといてよ!!」
野奈は周馬をおしのけて走って出て行ってしまった。
「うわ……」
「野奈?」
「なにあれ……」
未来妃が迷惑そうな顔をしている。
「あんなやつほうっとけよ」
哀も吐いて捨てるように言った。
「いいもなにも、本人もあたしらの中に入るの嫌がってんだろ」
黙っていた飛鳥が口を開いた。
「無理矢理弁当を食わせようとしたからだ」
「え?」
未来妃が声をあげる。
「あれはおそらく摂食障害だ。やせ細り、おおぜいでの会食なども苦痛を伴う」
「摂食障害?」
「若年の女性が罹患する精神疾患の一種だ」
「つまりじゃあ」
「あれは病気か」
熊野がぽつりと言った。




