蛙介と鯆多丸
笠山の寒々しい山を駆け巡る。また椿が咲いていた。
訓練を開始した夜にもたくさんの椿が道に落ちていたのを思い出す。
哀が飛び上がって、鈴凛の眉間に竹刀をばしりとふりおろした。
「!!」
「い−−」
びりびりとおでこが痛い。視界が真っ赤になった。
「顔面だぞ、よけろよ」
「そこまで」
拘式が鈴凛を睨む。
「おまえは−−」
鈴凛は眉間の出血を抑える。しばらくするとすぐに止まった。
「やる気あんのかよ……今日は他のやつらもいんのによお……ちっとはいい格好しろよな」
アイが被せて先に言った。
吹っ飛んで大岩に叩きつけられた鈴凛を哀が軽蔑の目で見てくる。
翔嶺が心配そうにこちらを見ていた。
体が重い。反射も遅い。明を接種すれば一時的には冴え渡ったが、切れると体が前より悪くなっていた。何もかもが鈍いし、気持ちはイライラしやすい。
暗くて長いトンネルにいる。出口の光は全く見えてこない。
毎日が苦痛で、毎日がとてつもなくめんどうくさくなっていた。
それでも自分は死ねないから、落ちるところまでどんどん落ちていくしかなかった。
「……全然だめじゃん」
ぼそりとつぶやく男の声が聞こえる。
「てゆうかこれ見る意味ないし、むしろ睡眠不足は作業効率落ちるし、てゆうか……練習だとしてもコスチュームはもっと……いやそもそも年をとりすぎているというか……」
ぶつぶつと太った男が悪態をついている。
羽犬の後任で鯆多丸という日本人男性で、哀が勝手に豚丸とあだ名をつけるほど太っていた。
「だまってみろ、キモデブ」
もう一人は目が細い四十代くらいの中国人の小柄な男性で蛙介と言った。少年のようにも実は年をとっているようにも見える。何の武器を使うのか知らなかが実動部隊の一人だった。
「チビ……」
「んだと!」
「だいたい戦う少女がスカートじゃないなんて、世界の調和を見出すというか……なんというか……」
「あ、またやられた」
哀の攻撃にまた足を掬われて尻餅をついた。
無様な自分に腹がたってくる。
みじめな自分の見せしめのような気がしてきた。
「……もういいじゃないですか……」
竹刀を放り投げる。
鈴凛は戻れるかもわからない戦姫の練習などやる気が起こらなかった。
「それは俺が決める」
拘式が唸るように言った。
今はだめだ。いやこれからもかもしれない……
とにかく今はこんなことをやる意味なんてない。
本当にここ最近は体がだるすぎた。
訓練中は次の飴を口に入れるタイミングもない。
鈴凛は拘式に言われても竹刀を拾わなかった。
「聞こえなかったのか」
「……」
「あの銀天狗に逆らうとは、恐れを知らんやつだな」
アイは間狸衣と修祓を重ねてどんどん体の動かし方がうまくなっている。
鈴凛とは反対に絶好調だった。いつの間にか鈴凛はおろか修羅番付の数字も影姫を抜いたらしい。
「じゃあ……ちょっと明をとらせてください−−」
「またかよ」
哀が呆れて言った。
鈴凛は袋から飴玉を取り出した。
「だめだよ」
厳しい声が門の方からした。
「!」
朝方のもやの中にふたつの影が見える。
「誰です? 彼女に明を与えたのは」
蟻音と佳鹿がやってきた。
「あ、リーダー帰ってきた」
「ご覧の有り様なんですよ、うちの子が……」
佳鹿がしおらしくくねくねした。
「佳鹿、なんで蟻音さんなんか連れて−−」
「蟻音さんにまかせておけば大丈夫だから、ね?」
医師のいうことをきかせる母親のごとく佳鹿が言った。
「は?」
鈴凛の状況をやばいと思ったのか、佳鹿が連れきたらしい。
「……!」
佳鹿をじっと見ると何かまたうにょうにょと影が蠢いている気がして目を逸らす。
「ん?どうかした?」
「……なんでもない……」
「飴をお渡ししたのは我々です」
毛利照親が返事をする。
「どうしても急をようする時だけどいったでしょう」
蟻音が険しい顔をして言った
「落ちるところまで落ちたいんですよ、この人は」
毛利就一郎がつらりとして鈴凛を見た。
「……」
「戦姫のご命令ですので……」
毛利照親が少し困って言った。
「とりあげてください。これはこういうふうに常習するものではないんです」
蟻音が歩み寄ってカバンに手をのばす。
「え!」
「だめです」
「これがなきゃわたし」
「お願い蟻音さん……」
「これがないと」
「これがあればわたしは大丈夫なんです」
「それは大丈夫って言わない」
蟻音が真っ直ぐに鈴凛を見た。
「わたしの考えが甘かったようだ」
「君には治療が必要だよ」
*
飴は取り上げられ鈴凛は毛利邸の地下に監禁されることになった。
「どうするんですか」
「一定期間強制的に抜くしかないよ」
「でも……」
鈴凛は前の飴を摂取してから三十分も経っていることに焦りを感じはじめていた。
「荒治療するしかない」
「そんなことしたらもっと穢レが強くなって」
「大丈夫、鱗は出てない」
「……」
「こちらです」
地下への扉を毛利照親が開けた。
「禁断症を乗り越えるしかない」
地下は思った以上に深く、長い石の螺旋階段が地下にまで続いている。
「ひゃーすげえな。おまえらの先祖はここで何してたんだよ」
哀が毛利就一郎に言った。
「てゆうか、今も何かに使ってんだろ。掃除されてる」
「……」
「さあ?拷問か、さらってきた人を始末したか、いずれにせよ八咫烏としての仕事を遂行するために使われていたのでしょう」
毛利就一郎が気味悪く笑う。
「なにここ……」
二十メートルくらいはある深い穴だった。
湿った地下の冷たい空気が登ってくる。
「降りたく無い……」
穢レが濃くなっている。
鈴凛はきゅっと目を閉じた。
「しっかし明は神々の聖なる何かの粉で、穢レを抑えるんだろ?」
「こんなにも中毒性があるなんておどろきです……」
間狸衣が気まづそうに言った。
「体質もあるかもね」
「なるほどこいつがネガティブでメンヘラだからか……でもそのわりには考え方が甘いお花畑なんだよな。考えなきゃいいのに」
「……わたし……本当に明を辞めるんですか? 危険なんじゃ……もしまた八岐大蛇になったら……忌になったら……」
「……これ以上依存するほうが危険だよ。いずれ限界が来る」
佳鹿がうんうんと首をたてにふる。
「明と穢レはバランスが大切だし、こんな状態じゃ修祓もできないでしょ」
「でもやだ……ここ……なんか、こわいよ……お願い。佳鹿……」
「だめよ……蟻音さんにまかせておけば大丈夫だから」
「でも……」
「ああそんな目で見ないで。ママは胸が痛いわ……でも……ごめんね」
「それより本当にこんな危険なことを我が家の地下でするんですか?」
毛利就一郎が不満げに言った。
「一刻もはやく薄めたほうがいい」
「万が一の時は……」
「あたしがぶっ倒してやるから大丈夫だぜ!」
哀がガッツポーズしてウインクした。
「家が損壊する前にお願いしますね」
「それって……哀が……わたしを殺すってこと?」
「まあそれも含むな。おまえは蘇れるし大丈夫だろ」
「八岐大蛇は特別な武器じゃなきゃ倒せないって……」
「おまえは山田大蛇なんかじゃねえだろ。あん時はBBの持ち込んだあれのせいで妙なことになっただけだって! とにかく頑張れ。その飴玉をれろれろいつも舐めてるのはウザすぎる」
哀たちが登っていった。
「やっぱり無理です……」
「こんな暗いところにおいていかないでください」
「最初の飴をくれたのは蟻音さんじゃないですか!」
「ごめんね」
鈴凛は手錠で地下に繋がれた。
「こんな所にひとりにしないで」
「……」
「穢レは……彼らは怖いものじゃない」
「……?」
「人だったものだ、人の意志だったもの」
「……人……」
そうは思えない。あれは禍々しくて、よく無いもので、人を忌に変えてしまう何かで—
「そうだろう?」
「それは……」
「彼らは存在しちゃいけないんだろうか?」
「彼らだって残りたくて残っているのではないのかもしれないだろう」
「それは……」
そんなふうに考えたことは無かった。
「わたしには見えないんだ。残念ながら……」
「君にそれらが見えるなら……」
蟻音が静かに言った。
「受け入れることもなく、拒絶することもしなくていいんだよ」
そう言って綺麗に微笑んだ。
「それは……?」
鈴凛は指先が震えた。一瞬わかったような気がする思考を振り払う。
「空気のように扱ってごらん」
「空気……?」
「じゃあ、もういくよ……」
ランタンを持って蟻音は上がっていった。
「やだ……」
湿った暗闇が広がっている。
しんと音がしなくなった。
はじまる。
鈴凛はそう本能で感じた。
「いやだ……」
ほわわわわわといった何か電波のような音が響いて、それがどんどんはっきりとした音になっていく。
小さな悲鳴や、ガサガサという音が聞こえ始める。
「いやだいやだ……」
目の前にモヤが立ち上がり、人型になってきた。
「やだ……」
次々に地面から人の腕が出てくると、土をかきわけてそれらがでてきた。
一部が骨の者、肉が中途半端に残った者、そもそも人間にすら見えない異形のもの。
うろうろと鈴凛のまわりを周り始める。
「……」
見えてない、見えてない、見えてない……
必死にそう考えながらぎゅっと目を閉じた。
さあああという謎の音がますます強くなり、鈴凛は耳も塞ぐ。
ビニール袋をがさがさとするような音がすぐそばで騒々しく騒いでいる。
「お願いです……もう許して……」
目を閉じているのに、それを感じてきた。
「!!」
きいーーーーーーーという叫び声が聞こえて、それらがはっきりと見えた。
地面から次々に這いだしては、鈴凛にちょっかいをかけてくる。
闇の中で目を閉じても、鈴凛はそれらにとり囲われていた。
「やめて……やめて……」
鈴凛は目を閉じて、耳も押さえて必死に耐えていた。
逃げる場所がない。
「こわい……こわい……」
気がつけば、それらで竪穴は満たされていた。歩く踏み場も無いほどにうようよしている。
「多すぎでしょ……」
騒々しく忌まわしいものたちは飛び回ったり騒ぎちらしている。
「……はやく終わって……」
鈴凛はただ耐えるしかなかった。喉が異常に渇いて、つま先と指先がびりびりした。
いつになったらこれは終わるのだろう……
そう思い始めた頃、ひとつのことに気がついた。
「……?」
影たちの中に不思議なものが見えた。それだけが服を着ている。
ひまわりのワンピースを着た女性が見えた。
それは普通の人が来ているような服だった。
それが騒ぎに混じらずに、じいっとこちらを見ている。
それは本当に人のようだった。
わたしたちは存在している
それがそう言っているように聞こえた。
それはいけないこと?
「……!」
そんなこと−−……
鈴凛の心が勝手に答えていた。
わたしに決める権利ない……
「……」
鈴凛は急に安心したような気がした。
「あ……」
ワンピースの影は穢レたちの中に混じって見えなくなった。
少し寂しいような気がする。
彼女もいつか生きていた。
冷静になって周りの連中を見る。
彼らも最初はあれくらいの人の形をしていたのかもしれない。
「……」
音が遠のいていく。
あれは誰かだった。
きっとこれらも……。
彼らは人混みの中の知らない誰かと同じ。誰かだけど知らない他人。
この世界を満たしている命のひとつだったもの。
苦しくて、辛くてそれでも生きようと生きていた何か。
この大地に縛り付けられた何か。
一生を駆け抜けて、わたしたちの世界からは去った誰か。
もがき続けて−−
彼らは何を考えていたのだろう?
どんな人だったんだろう?
「……」
わたしにはわからない。
ただ……彼らは形を変えてそこにいるだけ—
「……ただあるだけ……」
勝手に口から声がでた。
でも、いつか−−
彼は、ここを去りゆく。
鈴凛にはそれがなぜかわかった。
「……苦しみもいつか終わる」
なぜかそう言うと心が落ち着いていった。
「さよなら」
勝手にまた口が唱えた。
かつて生きていた誰か。
頑張った誰か。
またいつか−−
穢レた者たちが薄くなっていく。
「……」
鈴凛は泣いていた。
わたしと同じように生きていた誰か。
いつか必死になって生きていた誰か。
この世界にはそれが、命とともに満ち溢れている。




