4話 源家
門の中に入った後、鈴凛は家の前に呆然とたった。古くどんよりとしたこの小さな家に入りたくない。でも入るしかない。
団地では区画サイズの標準的な二階建ての家で「この家はどこからどうみても普通です」といった風な劣化具合と、もうしわけ程度に植えられた辛うじて枯れていない金木犀の木が玄関のまわりにぱらぱらと生えていた。
「ただいま」
母親はいつもどおりの餌を作り終えていた。そしていつも通りこちらを見ない、返事もない。台所で妹のヘルシーメニューを真剣に作っている。
ダイニングテーブルに、いつものプラスチックの安い皿がある。キャベツの芯とニンジンの皮が豚の脂身で炒められたものが載っており、縁にべたべたとした脂が固まっていた。
毎日の鈴凛の夕食は、その野菜のはしくれと残った肉野菜が煮てあるか、炒められているものだった。
それは鈴凛のこの家での身分と、この家の財政難をいつもしみじみと教えてくれる。
鈴凛は洗面所に行き、制服と体操服を洗濯機にかけた。シャワーを浴びながら風呂場の鏡を見ると、がりがりに痩せた見苦しい体が鏡に写っている。胸などほとんどない。昼間柊木勇吾に蹴られたところが少し紫色になっている。
鈴凛は自分の体を見て呟いた。
「気持ち悪い」
パジャマに着替えると、よりいっそう病人のようだった。
母親には学校で何があったかは言わないし、むこうもきいてこない。
風呂からあがると、リビングのソファに寝転がっている脱毛済みの妹の白い足が見えた。
「忘れないでよ、お父さん。アンティのケーキははやめに並ばないと買えないから。イグニスはセントラルタワーズの、地下に入っている。最後でもいいわ。チークは02番だから番号間違えないでね。あと画像を送っておいたエトワのワンピースは32号だから。あと、ウォッチはちゃんとネットで注文してくれたのよね?」
どうやらクリスマスプレゼントの要求らしい。
これで父親のボーナスもほぼ無くなるのだろうと鈴凛は思った。
妹はご機嫌で父親に電話しながら、爪の手入れをしている。雑誌が散らかり、撮影用の衣装が散らばっている。今日はいつもよりその声が陽気だ。鈴凛は何か嫌な予感がした。
「え?」
鈴凛は廊下に大量のゴミ袋が置かれているのに気がついた。
ゴミ袋の中に、数少ない鈴凛の物が見える。祖母の遺品の藍染の布や、鈴凛がいつも着ているトレーナー。トレーナーの横に写真縦が見えた。ビニールごしに幼い鈴凛と白髪の祖母が笑っている。ほとんどない鈴凛の全財産だった。
何が起こったかと呆然としていると、後ろから妹のサキが鈴凛に声をかけてきた。
「おねえちゃん。かわりに咲がゴミだしといてあげたよ」
くりくりとした目がいたずらっぽくこちらを見る。
「おねえちゃんの部屋、わたしの衣装部屋にしていいって。お母さんが言ってくれたの」
妹の1ヶ月分のギャラより、はるかに高価な衣装が、また増えたらしい。
「だってわたしの夢のためだもの」
「なんで」
「わたしツインクルのデビューが決まったの。だからほら衣装入れる部屋がもっと必要でしょ?」
ツインクルという馬鹿げた名前のそれは、妹が所属する地元アイドルグループである。
「おねえちゃんの荷物出しておいたから。おねいちゃんは、納戸で今日から寝てね」
嫌な予感はこれだったかと思う。
「あー、本当にブスで無能で夢がない……無価値な人間に生まれなくてよかった。恥ずかしくて生きていけないもの」
咲が猫みたいにするりと間合いを詰めると、愛らしい顔で微笑んだ。透き通るような肌が目の前にあった。
咲は美しくずる賢い。
自分のためなら母親がなんでもすることを知っている。
夢という言葉が、あらゆる理不尽を押し通すことを知っている。
「……」
「怒った?ほら手をだしてもいいんだよ?かわいい咲を傷つけてみなよ?」
胸焼けを必死に堪えて通り過ぎるのを待った。
「それともまた階段から突き落とす?」
その一言が鈴凛を凍りつかせる。
サキが階段の前でふざけて死体のようなポーズをとる。
「あ、なんだかまだ耳が痛い」
鈴凛は体から力が抜けていった。
鈴凛が4歳、サキが1歳の時、鈴凛がこの階段からサキを突き落とした。その後遺症のせいで、咲は左耳が聞こえづらい。
なぜそんなことをしたのか?幼かったため、鈴凛にも咲にも記憶が無い。しかしその影響力は呪いのようにずっと背後の階段から家族に効力を放っている。
咲は死んでもいたかもしれない可哀想な子
鈴凛は妹を殺したかもしれない恐ろしい子
その見えない肩書きをつけていつもこの家では歩いているのだ。
母はその日から邪悪な鈴凛を愛せなくなった。この階段は何も言わず、その時の傷を残したまま、忌まわしい事件を語り続けている。
妹は可哀想な愛されるべき子。鈴凛は妹を殺そうとした恐ろしい子。
「ね?」
深呼吸する。
鈴凛は無視してゴミ袋を持って、二階へ上がった。
「ねえきいてるー?おねえちゃーん?」
耳を塞ぐ。
納戸は二階の北側、階段のすぐ横にあった。日当たりが悪くいつも暗い。ホコリとカビの匂いで、母親は布団も衣類もここにおくことをやめてしまった。
そこが今日から鈴凛の寝床である。
茶色い引き戸をずらすと、二畳ほどの正方形の空間に鈴凛の布団がぽつんと置いてある。左側にふすまの奪われた押し入れがあり、古びたすりガラス、埃の匂いがした。小さな四角い和風電灯が天井にはりついている。
母親に何かを言っても無駄である。
彼女は妹の忠実な僕だった。
ゴミ袋のものを取り出して再配置していく。
写真たてを押し入れに。祖母との写真と野奈たちと撮ったものだった。おそろいの桜の髪留めをしているやつだ。こうして飾るのはもしかしてこの頃に戻れるかもしれないから。
あの頃はまだ友達がいた。家に居場所がない鈴凛は放課後の野奈たちが心の支えだった。
「ない……」
脱水したての制服をかけようとして、ハンガーをひっかける場所もないことに気がついた。仕方ないのでそれも押し入れにひっかける。
「明日の朝までに乾かないじゃん」
押入れの棚で立ったまま野菜炒めを食べる。あいかわらず味がしない。
「……」
スマホを見る。
(元気か?鈴凛はクリスマスプレゼント何がいいんだ?)
父親からの連絡だった。母親と妹の反対を押し切って、スマホを買ってくれたのは父だ。
「……」
鈴凛は素直に喜べなかった。
『別の人生』とメッセージを打ちかけて消す。
父を余計に情けない気持ちにさせるだけだと思った。昔は父親の博三とその母親、つまり鈴凛の祖母の美鈴が鈴凛の味方だった。だが、祖母は三年前にがんで亡くなり、父は同じ頃、単身赴任で名古屋に住むようになったため、鈴凛の味方はこの家に一人もいなくなった。
離れてしまうと、今日子とサキも父をただのATMとして邪険に扱うようになり、父もまた忙しいことを理由に、今日子とサキから逃げるように家に寄り付かなくなった。
そしてある時、母親が探偵にでも撮らせたのであろう父親と別の女性が並んで歩く様子が収められた写真が、いくつかの書類とともに何気なく家の台所のテーブルに放置されていた。
裏切られた気がした。
鈴凛は父だけが居場所をみつけてしまい、置いていかれた気がした。
「どうせ帰ってこないつもりのくせに」
家の写真たてもアルバムも美しく母親似のサキの写真で狂ったように埋め尽くされている。父はいないように息を潜めている。
「お父さんはいいよね」
あの二人に何も言うことができず、自分を置いて名古屋では女の人を作っている父を心底情けなく思い、また学校で誰にも言い返せない自分がそんな弱い父にどこか似ていると思うとことがよくあることが、鈴凛を余計に嫌な気分にさせた。
鈴凛は学校でのいじめも父親に話をしなかった。自分だけ秘密と居場所を持った父に、どうして自分が心を開かないといけないのか、という素直になれない怒りがあった。
鈴凛は布団をひろげるとその上に大の字になって天井を見上げた。
夏川未来妃の「明日の朝迎えにいくから」が響いた。
「明日なんかいらないのに」
「クリスマスなんていらない」
「お父さんなんていらない」
「未来なんていらない」
未来も、夢も、生きる目的も興味ない。
「全部いらない」
「……」
「わたしが一番いらない」
学校でも家でも鈴凛は不適合者で無価値だった。
最悪な世界。最悪な未来。未来に興味なんか無い。アイドルになって歌うサキ。医者になっている未来妃。議員になった柊木勇吾。
勝手にすればいい。わたしはそんなもの見たくない。
くだらない存在だから。
祖母と映った写真たてをじっと見た。着物をきちっときて白髪をぴっちり結った祖母の美鈴が優しく笑いかけている。
「おばあちゃんに会いたいよ……」
ベッドの中で小さくうずくまる。自分を抱きしめるように腕と足をめいっぱい折りたたむ。
どうしてこんな場所に生まれたのだろう。
悔しい。こんな存在に生まれたことが。こんな環境に生まれたことが。偶然が憎かった。
もっと別の誰かに生まれたかった。
祖母との写真を抱きしめて鈴凛は布団の中で泣いた。
「おばあちゃんは嘘つきだよ。わたしを好きなのはおばあちゃんだけだった」
「どうしてこんな場所に残していったの?」
「!」
階段を登ってくる咲の足音がした。
納戸の扉が急に開かれる。
「!」
「お父さんに何言ったの!」
「なんのこと」
鈴凛は顔をしかめる。
「アンタとお揃いとかまじで嫌なんだけど!だいたいあれ高いんだから、あんたには必要ないでしょ!」
プレゼントをリクエストしなかったため、父親は咲がリクエストした店でお揃いのものを姉妹に平等に買ったつもりらしかった。
ありがた迷惑な、一番最悪な展開である。
「……」
高いと分かりながらキレている妹に、鈴凛は呆れて何も言えない。
「わたしがデビューするからって、あんた悔しいんでしょ? ブスで無能なのに。同じもの着たら同じように見えると思ってるわけ?」
咲が挑発するように笑う。
「まねなんかしてない。お父さんが勝手に」
「あんたが可哀想な子ぶるからでしょ」
その言葉そっくりそのまま返してやりたかった。
「……でていって」
「わたしの次の遠征費がなくなったらどうしてくれるの?わたしの夢を台無しにするつもり?」
「出て行って」
「美鈴おばあちゃんの写真なんかもっちゃって」
「お母さんがそれ見たらどんなに」
「お母さんとおばあちゃんが仲悪かったことは、わたしには関係な」
「かして!」
「だめ!」
「離せ!捨ててやる!」
「やめて!」
「なんで妹なの!なんであなたがわたしの妹なのよ!」
怒りと絶望とわけのわからない感情で鈴凛は奪おうとした。もみ合いになる。
「あんたがこの傷つけてなかったら、もっと早くわたしはもっと上へ行けたのよ!」
咲が掴みかかる。
「そんな小さな傷でしょ!」
「完璧なわたしが、認めてもらえないのはあんたのせいなんだから!」
「音痴なのは耳のせいじゃないでしょ!」
鈴凛は本当のことを言ってしまった。
「あんたなんか死んじゃえ!」
咲が叫んで掴みかかってくる。
「いたい!いたい!」
「なんでこんな嫌がらせばかりするのよ!」
高校生と中学生とは思えない取っ組み合いの喧嘩になる。
「お母さん!お母さん!」
咲が叫ぶ。
「助けて!」
「!」
「おねえちゃんがまた咲のこと殺そうとする!」
咲が床に尻餅をついた。
「鈴凛!」
今日子が一階から血相を変えてやってきた。
「やめなさい!」
母親が押さえつけようと手を伸ばしてきた。
深呼吸して母は言った。
「……妹の夢を応援してあげなさい」
「おねえちゃんなんだから」
笑いが込み上げてくる。
「姉だから我慢しないといけないの?」
「夢がある人が……そんなに偉いわけ……?」
鈴凛の声は震えていた。
「落ち着いて」
「わたしは、落ち着いてるわよ!」
「!」
その手を押し退けると、今日子がよろめいて階段のほうに転げた。
「ああ!」
すんでのところで、咲がニットを掴んで引き上げる。
「う……」
「人殺し!お母さんまで殺す気ね!」
咲から張り手が飛んできて、頬が痛い。
「離して!!」
「あんたさえ産まれてこなければ……」
「鈴凛!妹になんてこというの!」
もう嫌だ。
鈴凛は二人を押しのけて家を飛び出した。
*
体がぐらついたその瞬間、鈴凛は星空を最後に見たと思った。
死ねると思った。全部の疲れから解放されると思った。これで少しだけ鈴凛に関係する全員が迷惑をこうむるだろうと思った。罪悪感を感じるだろうと思った。
嫌なことばかり見せつけるこの世界とおさらばできると思った。
それなのに、それが無粋なライトに消されて見えない。
「!!」
明るいのだ。
強烈な懐中電灯のライトがこちらを照らしている。
「あぶない!」
誰かが叫んで、腕が伸びてくると浮かびかけた鈴凛の腰を掴んだ。
そして大声で仲間らしき人影に声をかける。
「あー!いました、いました! こっちです!」
「えちょっと」
バンが横付けして止まった。
「こっちです!」
妙に若く明るい声だった。しかしどこかで聞いたような気もする声だった。何人かの人影が立っている。逆光で見えない。
「やっぱり死のうとしていたみたいですね」
男の声はどこか自分の予想が当たって楽しそうでもある。
「いったいだれ」
鈴凛は目が慣れてきて、一歩退いた。
そのラフな声とは随分かけ離れたギャップにギョッとする。
猿だ。みんな奇妙な赤い猿の面をつけている。シワが深く掘られ、目や鼻や口には黒々とした漆黒の闇の穴が開いていた。
「いけませんねえ、こんな場所で自殺とは」
「こんな橋から飛び降りたら、本当に死んでしまいますよ」
「な」
ぶわっと猿たちが広がって鈴凛を取り囲んだ。
「なん」
ハンカチが口にあてられる。
「こんなところで死ぬなんて、もったいないですよ」
意識が遠のく。
何かが脳内に広がって重たくなっていった。
「実にもったいない」
「さあ、ご案内しましょう」
最後に聞こえたのは、ツアーガイドぐらい楽しそうな声だった。