明雅顕証の儀
「新たなる敵……」
浮舟で本を掲げながら、鈴凛は独り言が思わずもれた。
鈴凛は坂本の弟の坂本鉄のセリフが何日経ってもいつまでもこびりついていた。
その後部活では坂本鉄は特に何かしてくることは無かったが、それが逆に不気味だった。
「コテンパンにするーー」
坂本鉄の可愛らしい顔がこびりついていた。
「確かに可愛い……あの顔は……いやいや、男の子だし」
蟻音に借りた本を開いて、最初の方を読んだ。羊飼いの少年は……
「まてよ?もう付き合ってるとか?」
雑念が本への集中を邪魔する。
「もしかして、モテるのに、彼女がいないのはそういうこと?」
鈴凛は本を落としそうになった。
女が眼中に無いってこと?
妙な映像が浮かびそうになり、鈴凛は頭に本を打ちつけた。
「本に集中! 本に集中! 本に集中!」
「ああ……早く返したいのに……」
蟻音にがっかりされるのは嫌だった。
「素敵な扉絵の本ですな」
猿田彦がにゅっと顔を出す。相変わらず長い鼻が飛び出していて何かの香ばしい香りがする。
「借りた本なんだ」
今日は猿田彦の浮舟が鈴凛を迎えに来てくれた。
高天原で何かの儀式が催されるということで、訓練が休みになった。
「明雅顕証の儀の時に限って、高天原に入れないとは」
今日は何か絶対に高天原に行かねばならない日らしく、それで猿田彦が迎えに来た。泊まりの予定になっており、サラコマンダー武術の合宿ということになっている。今日子は顔をしかめたが、鈴凛には興味がないしお金もかからないからか文句は言わなかった。
「どうして入れないの?」
「む……湍津姫様の具合がよろしくないのでしょう」
「しばしお待ちください。たまにこういうことがあるのです。10分もすれば開きます」
猿田彦が長い筒に似た望遠鏡のようなもので見ている。
鈴凛は今こそ本か、と思い蟻音の本を開く。
羊飼いの少年は……
「百姫様」
「わ!」
また音もなく猿田彦の真っ赤な顔が真横に来ていた。
真っ赤でてかてかの鼻先が鈴凛の頬にあたりそうである。心臓に悪い。
また香ばしい匂いがした。
「わたしのコレクションを見ていかれませんか?」
「え?」
鈴凛は案内された部屋の中の光景に釘付けになっていた。
個性的なアトリエ兼工房のような雰囲気である。
色々なものが置かれていた。工具や画材、ハンガーには革ジャンやいかにも天狗の隠れ蓑らしいもの。ハンモック。望遠鏡。靴や下駄。ごちゃっと作りかけのような靴や服、家具……ものがとにかくたくさんある。
そして奥には無数の絵が壁いっぱいに溢れていた。中は思いのほか広かった。
「この富士山、綺麗」
入ってすぐの右手に青い富士が真っ白な雲と共に描かれている。
「富士は本当に美しい山です」
確かに色々な絵のタッチがあって、個性が違っていた。
この仕事は待つ時間が多いのだろう。待っている間、猿田彦は絵を描いているのだ。
「これは……」
鈴凛は角にある黒っぽい絵が気になった。この部屋の中でひとつが異彩を放っている。
絵の感じが、全く違った。
「ああ。これは良い絵だと思いまして、手にいれました。ちょうど百姫様をお送りした時に、打ち捨てられているのをみつけました」
「……」
それはスプレーアートのようなデザインだった。正直に言ってキミが悪い絵で、鈴凛は思わずあの汚い宇多市のトンネルを思い出す。怒りをそのまま落書きしたような絵だ。
他の絵と全然似ていない。他の絵と一緒に、この絵もいいと思う神の感性はよく解らない。
「いい絵でしょう?捨てるなんて信じられません」
「え……ああ……そうですね」
鈴凛はやっとそう言った。
気を取り直してみてまわる。どこなのだろうと思う場所もある。空想の場所かもしれない。
葡萄の巻き付いた館が湖に浮かんでいる絵。黄金の地球を覆う樹。宇宙に浮かぶ星々の絵や銀河鉄道のように宇宙を走る列車の絵もあった。
赤やオレンジ、黄色の明るい暖かい色の幻想的な絵が多い。猿田彦心の美しさを表しているような気がした。
「あ……」
めずらしく男女が描かれている小さな絵があった。
「これ綺麗な絵ですね……一番好きかも」
白い髪をなびかせた女神と銀色の男神が黄昏時のようなオレンジの星空の中に描かれている。二人とも羽衣のような服をきて、翼が六枚ある。
「……」
ふたりの女神と男神は手を伸ばしつつ、もう少しで届きそうな絵だった。鈴凛は如月周馬にもう少しで手が届きそうな自分を想像した。
鈴凛はほうっとため息をつく。
「これはわたしが描いたんです」
「すてきですね……愛そのものを描いたって感じで……惹かれ合う男女は結ばれるんですね……」
鈴凛は絵に微笑みかけながら言った。
「男女はね……」
自分の願いもどこか入っていた。
「いえ」
猿田彦の否定する声が聞こえた。
「?」
「これは、とても美しい者同士が惹かれ合う時、それは必ず、引き裂かれるという意味です。これはわたしが描きました」
真面目な顔で猿田彦が言った。
「え」
鈴凛は思わずこけそうになった。
「でも……」
確かにじっくりと見てみると、この絵はどちらにも見える。引き裂かれているのか……もう少しで手が届きそうなのか……。
急に胃の辺りがずしりと重くなって、世界が青色に思えた。
それが世界の真理だとしても、なぜそんな悲しいことを絵にした?と鈴凛は思う。
「それは……」
鈴凛はぐっと飲み込んだが、聞かずにいられなかった。
鈴凛の目標は如月周馬に告白すること。生死のとんでもない戦姫の仕事をしながらも、青春の恋をすることだった。
かならず引き裂かれるなんて聞いて、そのまま流すことができなかった。
「どうしてですか?」
「……うーん……」
猿田彦は解答に困っているようだった。
「モテすぎて他の人が邪魔をするから?それとも……大人になると好きだけで結婚はできないとかいう、お金とか家族の問題?」
猿田彦はますます困って苦い笑いした。
まるで子供をみるような優しい目だったが、それが逆に鈴凛を傷つけた。
大人だけが知っている何かな気がした。
未来妃とダブルデートを目標にした自分がひどく幼稚で馬鹿な気がしてきて、鈴凛は暗い気持ちになった。
「わかりません、恋人たちによってその理由はさまざまでしょう」
猿田彦はありきたりなことを言った。
「……」
「ただはたからその愛が美しいとわたしが眺めると、みな引き裂かれるのです。わたしがサッカーを見ていると、その試合だけ負けるみたいに」
酷い例え方だと鈴凛は思って鈴凛はますます気が沈む。神々にとって人間の愛が破断に終わることは、サッカーの一試合程度のことらしかった。
「もしくは、悲恋に終わるからこど美しいのかもしれません」
「……猿田彦様は……ん……」
待てよ?逆も言えるのではないか?と鈴凛は思う。神々は何かを司っている。猿田彦は実は、恋愛の不吉を司っており、猿田彦に見られると悲恋に終わる……失恋の神?
俄然、鈴凛は自分の仮説が正しいような気がして、赤い顔をはっと見た。
天狗の姿が悪魔のように思えてくる。
「彼らはその中でも特別でしたがね……」
猿田彦はじっと絵の男女を眺め始めた。描いた頃を思い出しているように。
鈴凛は黄金と闇を縁取った不思議な目玉をみつめる。ただ見たので描いたようにも、悲しいと思っているようにも、見える。天狗の顔は表情が読み取れない。
だがその声は少しだけ悲しいという気持ちがこもっていた。
気を取り直して、長い鼻に向き合う。
「それでも、この絵なんだか好きです。猿田彦様は黄色や赤や暖かい色を使うんですね」
鈴凛はにっこりとした。そして目にとまったものを指差す。
「あれは画材のコレクションですか?」
赤やオレンジ、黄色の粉や液体の小瓶ばかりが飾ってある棚を指差した。
「いえ」
猿田彦はまた真面目に否定した。
「あれは唐辛子です」
「え」
鈴凛はまたこけそうになった。大真面目な天狗顔を思わず見てしまう。絵画と香辛料をなぜ一緒にするのだろうか。そこには筆やパレットなどが置かれ、明らかに画材に見えてしまう。
「唐辛子って絵の具にもなるんですか?」
やはり神々は少し何かがズレているなあと鈴凛は思いながら顔をあげる。
「まさか。あれは食用です」
天狗顔は表情が読み取れない、怒っているのか、無表情なのか。
「もしかして、猿田彦様の顔が赤いのは、唐辛子の成分だったりして……」
鈴凛は思わず、思いついたを言ってしまった。
「!」
天狗顔の巨大な金色の目が見開かれる。
しまった。調子にのりすぎた。不敬にも程があると思いながら猿田彦の顔を見た。
「も……申し訳ありません……わたし」
「な……」
「?」
天狗顔がふるふると揺れている。猿田彦は照れていた。
鈴凛と目が合うとぽっとさらに赤くなる。
「な……なぜわかったんですか……?!……我らの秘密……強さの秘訣はカプサイシンとカプサンチンです」
鈴凛はぎょっとした。
「恥ずかしいです……」
そこは恥ずかしがるところなのか?と鈴凛は思いながら猿田彦をじっと見てしまう。
鈴凛はうっかり猿田彦の秘密を言い当ててしまったらしかった。
猿田彦は、香辛料について説明を求められたと勘違いして棚に行って一瓶とりあげた。
「これはカロライナリーパーなる強烈に辛い唐辛子を混ぜてある七味とか。こっちは日本の唐辛子で青いうちに……」
「……辛いものが好きなんですね」
「ええ」
「今度じゃあわたしも、激辛お菓子みつけたら、買ってきます」
「ぜひお頼み申します」
*
「神々って、なんか変な人多くない?……月読姫や照日ノ君は普通なのに……」
高天原に戻り、桃の宮で着替えながら羊杏に言った。
「強さの秘密が唐辛子なんて、まるでギャクみたいだし」
「!……不敬ですよ、百姫様。白麗衆がきたらどうするのです……」
羊杏はびくりとした。
「はあい」
「お綺麗です」
羊杏が儀式のために着付けてくれた。
「髪色に、春色のものがよくお似合いです」
「あ」
羊杏が声をあげて中庭の庭園をみると、池の水面を滑るように朱色の何かが流れてきた。
羊杏がそれを柄杓のようなもので掬い上げる。
それは白い折り紙で花形におられた紙だった。
「折紙?」
「水折紙です。通達や連絡や手紙などに使います」
「今何もついていないのに、進んでいるようにみえたけど」
「水折紙は意志の紙。原料のミツマタは非常に賢い木なので、水に浮かべれば必ず宛先人に届くのです」
「へえ……すごい……ね」
鈴凛はもはや詳しいその物の出どころや、仕組みを聞いてもしょうがないと思い始めていた。ここは普通ではない。
「半刻ほど早くはじめるようです」
電気のない高天原ではそれが通信手段のようだった。
「小舟で参ります。神宮周辺は天牛禁止なので」
「……飛行禁止ってことか」
羊杏が宮の裏にある船着場に案内してくれた。小さな船がある。乗ってみると、肌触りがささらとした素焼きのような船だった。
「不思議な船だね」
「泥の船です」
「え、泥?」
「木材より軽い砂を使っております。大丈夫です。沈みません」
「神楽殿は神宮の西にあります。月光庭園と呼ばれる竹林を抜けた先です。海から川を登って参ります」
−−!
羊杏がひとかきするだけで、すいっと船が進む。
櫂は魔法の杖のように、船にまるで進むように命令を出しているだけのようだった。
夕日がほぼ沈んでおり、あたりは暗くなりはじめていた。姫宮と四季楼の温泉の湯気が遠くなる。神宮の渡り廊下の灯りも五橋も遠くなっていった。
神宮の周辺の縁を回り込むようにして西に進む。しばらくいくと羊杏が声をあげた。
「ん」
羊杏が遠くの水面を見ようと身を乗り出した。
「なにか」
黒い影が見えた。海に何か浮かんでいる。
「何か流れてきます……」
「ワカメ?」
黒っぽいものが浮いている。
「え……人……」
白い腕が見えた。
「これは……」
鈴凛はそれを引き上げた。
「え」
光り輝く水死体見えた。
「うわ……」
「え?!」
「湍津姫様−−」
「死んで……」
必死に引き上げる。
「湍津姫さ−−」
鈴凛が口元に手をあてると、カッと紫色の目が開いた。
「きゃーーーー!!」
鈴凛が驚いて、船が大きく揺れる。
「!!」
「たたたた!湍津姫様?!」
羊杏も腰をぬかしている。
「だ、大丈夫ですか!」
水を吐くわけでもなく、びしょびしょのまま彼女は立ち上がる。
「大丈夫」
彼女は小さくそう言った。
「ど、どうして海に?」
「竜宮城に潜って行ってみようと思ったら、無理だった。それですこし休んでた。」
ぼたぼた水を垂らしながら、真顔で湍津姫は言った。
「えっと……」
竜宮城って何本当にあるの? 海の底なのに潜るのは無理じゃ? なんでそんなややこしい休み方?
いろいろつっこみどころが多すぎるセリフに鈴凛は質問を迷う。
湍津姫がじとっと近づいて鼻を向ける。
「あなたから……いい匂いする」
「え……?」
「この匂い……」
びじょびしょに濡れた少女がすりすりしている。
「ああ……お召し物が……」
羊杏が悲しそうな顔をする。
綺麗で大きな目が上目遣いでこちらを見ている。
「湍津姫様が稲姫様といっしょにおられない所は、はじめて見たでござりまする……」
「あなたこそなんでここに?」
「今から神宮に明雅顕証の儀に行くんですよ」
「わたしも帰る。のせて」
「わかりました。どうぞ、夜風で冷えますよ」
鈴凛は着ていた上着をかした。
「ありがとう」
湍津姫はびしょびしょのまま鈴凛の横にちょこんと座った。
「で……ではまいりましょう」
羊杏はまた櫂を進める。
静かな海を進む。遠くに白い何かが見えてきた。
「なにあれ?」
夜空に光かがやく真っ白なものが飛んでいる。
「え、海に蝶?」
「おしらさまです。竹林が近いですから」
「綺麗……」
「あれ……?」
なぜか夜空に舞い上がる彼らをみると、鈴凛の頬に涙が勝手につたった。
「え?」
「あんなにたくさん……」
それはただ綺麗だった。鈴凛はふわふわと飛ぶ彼らを儚いと思った。
胸がばくばくとして、そして目頭と耳の辺りがじわじわと震えている。
涙腺が堪えきれず、一度涙が流れると、もっと流れだした。
感極まって涙が出る。
「あ……れ……なんだろ」
湍津姫が鈴凛をじっとそれを見つめていた。
「え?」
「大丈夫ですか?」
羊杏が心配して櫂を止める。
「大丈夫だよ。自分でもわからない。大丈夫……」
心が震える?いや、魂が震えているような感情の起伏があった。
「綺麗すぎ……だからかな」
「おしらさまは、正確には蝶ではありません。竹の葉を食べて、繭をつくるのでござります」
「ん……てことは蛾?」
鈴凛は涙が止まって、ぎょっとした。
「そこに」
船のふちに大きな白い羽を開いたり閉じたりしてとまっていた。
ぎょっとしたが、黒目がちな目をつけた、青白く輝くそれはふわふわとして愛らしかった。
「川のそばに竹林が広がっており、おしらさまを飼うお社と機織り場があります」
背の高い竹林が近づいてきた。よくみると、竹は根元が輝いており、ところどころに透かしのような模様の穴が空いている。
「おしらさまが中に入り光っているのです」
「へえ……」
こんな儚そうに見えるのに、竹をかじっているのかと不思議におもう。
「戦姫様方の神衣はこの繭と神々の糸からできているのですよ」
「機織りは宮仕の次に人気があります」
「機織りが?」
「照日ノ君に最初に愛された人間も機織り女だったのでござります」
「え?」
「だから機織女も宮仕と同じくらい、わたしたち高天原の女たちの憧れなのでございまする」
それを聞いて、そういえば、しばらく照日ノ君に会えていない。また会いたいなと思う。
「静謐な庵で、赤き心をもち、しゅくしゅくと美しい秦を織る姿は美しいのです」
羊杏がうっとりとして言った。
「名は残されていません。我々は機織りの鶴の恩返しにちなんで、夕鶴様と呼んでいます」
「誰よりも特別に愛されたお方とか……」
「伝承によれば、素戔嗚様が厩戸に放り込まれた馬によって、命を落としたとか。そのせいでかの有名な天岩戸事件も起こったわけですし」
羊杏がちらりと湍津姫を見たが、表情を変えないまま、ぼうっと座っていた。
「へえ……」
「照日ノ君は悲しまれて……とても美しい方だったそうですよ。その生まれ変わりの娘も愛されたとか……」
「生まれ変わり……」
その響きに妙にひっかかる。
美しいもの同士が惹かれ合う時、必ず引き裂かれるーー。猿田彦はこのことを言っていたのだろうか?と思った。
「人間が特別に愛された……」
「悲恋の死でございまする」
羊杏は物語にうっとりするように言った。
鈴凛は想像してみる。女が投げ込まれた馬の下敷きになっている。
「でもさそれって、なんだかひどい事故死っていうか。喧嘩のとばっちりってことだよね?たまたま投げ込まれた馬の下敷きで死ぬなんて……」
想像すると、残念な死に様な気がした。
「素戔嗚命……って」
鈴凛は記憶を巡る。
「けっこう偉い人じゃなかった?」
「三貴神のひとはしらです。百姫様、素戔嗚様をうろ覚えとは、さすがに不敬すぎまする!」
「覚えてる。覚えてる。その人、まえ八岐大蛇を倒した人だよね? なんか英雄的な人じゃなかった? そんなぶっ飛んだ人なの?」
「天照大御神の弟君にございます」
「照日ノ君の弟?……弟が兄神の大切な人を殺したの?」
やはり神々はとんでもない変な人ばかりだと思う。
「……」
湍津姫は相変わらず話にも入らずぼうっとしていた。
「意図したことではなく、大暴れされた際の事故ですが……天照大御神は、そのことを、とてもとても悲しまれたとのこと」
神々の喧嘩は想像を絶するということなのだろうかとぼんやりと思う。
「おふたりはわだかまりが解け、かの有名な……こちらにおられます湍津姫様や田心姫様など宗像三女神様を生み出した、『誓』をしたばかりのことだったそうですから」
羊杏はまたらりと湍津姫をみて、かいを動かしはじめた。
「たいそう裏切りにも、心を病まれたと」
「それで、天岩戸にお隠れになったというわけです」
「ふーん……あんまり会いたくはないね……」
素戔嗚命。どんな人なのだろう。鈴凛はぼんやりと思った。
「女の人を殺すなんて……」
「バカ女だったぞ」
「湍津姫さ?」
「ぐあ!」
羊杏がばたりと倒れて、船が揺れた。
「この蛾を増やしたのもあの女だ」
「え……?」
「な……」
それは湍津姫の着物から伸びている。
「え……?」
鈴凛は意味がわからず混乱する。湍津姫の中にその拳が戻っていく。
湍津姫は項を垂れたて表情が見えない。
「湍津姫さ……?」
ばっとそれが伸びて、鈴凛を押し倒す。
「く……る……」
「死ね」
湍津姫は馬乗りになって、鈴凛の首を絞めていた。
低く聞いたこともない唸るような声だった。湍津姫の目がカッと開かれている。馬乗りになり、十本ほどの手が締め付けてくる。
「ほら、死ね」
え?なにこれ?どういうこと?
鈴凛の頭に疑問が湧いたが、酸素が足りない。頭が混乱する。鈴凛はじたばたと押しのけようとするが、ものすごい力だった。
「やめ……」
「も……」
なんで?
「くる……し」
こんなところで殺されるーー。鈴凛は目眩がした。しかも、戦姫に—
意識が遠のく。
風船が破裂するような圧力が頭にかかり、やがてしぼんでいくようだった。
体の感覚は無くなり、暗闇になった。
ああ、また死んだ−−……
体も心も消えた。
暗闇だけになったと思ったのに、すぐに鈴凛の脳は再起動したかのように映像が浮かんだ。
凄まじい勢いで記憶が飛んでいく。
かつても見た気がした。
それは人生の断片だった。
祖母の笑顔、如月周馬のジャンプ、野奈たちの笑い声、未来妃の横顔。咲の美しい足、疲れた今日子の台所での背中−−、父が庭で遊んでくれた記憶いろいろなものが駆け巡る。
「……!」
ぷはっと息をする。
「もう蘇ったか」
「!」
手が緩んでいた。鈴凛はげぼごほと咳をする。
「体が残っていると早いのだな」
「な……んで」
「おまえと会った時から、やってみたかったんだ」
鈴凛は呆然とする頭で考える。はじめて会ったあのつづらを持ってぼうっとした表情でそんなことを考えていたのかと思う。
「それよりな、話の続きだがな」
食事中の話の途中だったかのように湍津姫はあぐらをかいてこちらを見た。
「え……?え……?」
鈴凛は体を起こしながら、湍津姫を見る。
「厩戸女のことだ」
「え?」
「死んで当然の女だった」
のどが痺れて鈴凛は何も言えない。
「それでもってなあ」
「素戔嗚はなあ、天照が嫌いだからあの時は清清したろうよ」
「!」
妙にやさぐれた声で鈴凛は驚いた。しかも神々を呼び捨てにして驚いた。
湍津姫だが、別人のようになって、片膝をたてて、にやっとしてこちらに顔をあげる。
「羊杏!」
羊杏が心配になって、かけよる。気絶しているが、息をしていた。
「よかった……」
「どうし」
「素戔嗚はわしらにとっちゃあ父親でもあり師匠みたいなもんでもあるがなあ」
湍津姫は無視して話を続ける。
「ほ、本当に湍津……姫……様?」
鈴凛は半信半疑で聞いた。
「タギは寝た」
鈴凛は驚いた。
「けけけけ……聞いたことがあったろう。わしらは多重人格なのさ」
妙な声で彼女は笑う。
「それは……」
鈴凛は記憶を辿る。戦いの中で精神攻撃を受けて、精神分裂を患ったといったような話だった気がした。
「おおかた誰かに病とか事故の後遺症とでもきいただろう。それは嘘だ。わしに言わせればこれがわしらそのものなのだ」
湍津姫は試すような目つきで鈴凛を見ている。幼く愛らしい表情は消え去り、蛇のように鈴凛を捉えた視線に体が固まる。
「嘘……」
「ああ、嘘だ」
「……どういうことですか?」
「ここは嘘と秘密だらけってことだ」
真誌奈が草庵で言ったことが急に思い出された。この高天原には、美しい嘘が蠢いている。
「バカそうな女だ。月読に何をされるかも知らずに」
儀式のことを言っているらしかった。
「まあ、昔よりはましか?」
湍津姫は自分で言って、思い出して、一人でクスクス笑う。昔?なんの昔?
「あなたは……誰なんですか……? 昔って……わたしはあなたに会ったことが?」
無数の腕が鈴凛を締め上げた。
「ぐ……」
息ができない。
「誰が質問していいと言った?」
恐ろしく見開かれた目がこちらを見ている。
「気をつけろ、わしの機嫌を損ねたら、また殺すぞ」
鈴凛はさっきも質問したような気がしたがもう何も言えなかった。
「く……くるしい……」
「タギはおまえを気にいっているようだ。サティも好きそうだ。だから殺したら面白いだろうなあ……カーリは……ふふふ……」
酸素がなくなっていく。頭が重い。
「次はバラしてみても面白いかもな」
何が面白いのかくつくつと笑っている。
タギ?サティ?カーリ?
湍津姫はじっと鈴凛を見つめた後、考え直したように、力を緩める。
「だが……」
「おまえといれば、わしは一時的にでも外に出られるようだ」
「わたしが……外に?」
鈴凛は意味がわからない。湍津姫をこんな風にしたのは自分らしかった。
「おまえは穢レが強い。そしてさらに穢レが強まっている」
陵王のバチに触れられたことを言っているのだと思った。
「思金様には治療はしてもらいまし……」
「そんなものでは隠せない」
「……?」
「おまえは穢レが強い。におうにおうぞ。母なる黄泉の匂い……」
湍津姫は赤い糸のあたりをくんくんと嗅ぐ。
「ああ。でも今からその匂いも随分消えるのだろう……月読の口蜜は強い。最悪だ。あのクソロリババアを殺してやりたいが……」
「あなたはいったい……」
門の灯りが見えてきた。
−−湍津姫様〜
湍津姫を呼ぶ稲姫の声が近づく。
「わしと会ったことは誰にも黙っていろ。玉手匣されるぞ」
「!」
ニヤッと湍津姫が笑った後、目が閉じられると、ばたりと倒れて船が揺れた。
「わ……」
湍津姫を思わず抱き止める。すうすうと急に眠った。
「何だったの……」
鈴凛は仕方なく、自分で漕いで灯りのもとまで行った。
「百姫さ……」
船着場で鯨山と末兎と稲姫が待っていた。
「湍津姫様?!」
「……よかった……」
鈴凛は呆然と湍津姫を抱いていた。
「ん……華子が寝ておりますな……」
鯨山が顔をしかめた。
「何があったのです?」
末兎が鈴凛に聞いた。
鈴凛は何かを言うべきか迷った。湍津姫様に絞殺されました、とも言えない。稲姫が心配している。
「なに……もないです」
玉手匣され記憶を消されるのは嫌だった。
「よかったです……迷子になってしまわれて探していたのです」
稲姫がほっとしたように言った。
「……」
「何かありましたか?」
鈴凛は眠ったままの羊杏をみつめる。
「いえ……なにも……二人とも疲れてしまったみたいで」
鯨山が目を細めた。
「華子はわたしが預かりましょう……もうすぐ儀式です」
「湍津姫様は、稲姫様がいれば大丈夫です」
「は、はい」
鈴凛は咳払いする。まだ締め付けられた喉が痛かった。
「さあ百姫様は参りましょう。月読姫様を待たせるわけにはいきません」
「この儀式は、月読姫様の口蜜をいただくものです。明の深度を上げ、身体能力をより神に近づける……拡張のためでもあるのです」
鯨山が言った。
「能力の強化につながる大切な儀式です」
「海外にいる戦姫様は経口摂取できるように飲み物や薬があるのですが、百姫様は日本の守り姫。いつも口蜜の御神酒をいただけることは、ありがたいことにございまするぞ」
「はい……」
神楽殿は真っ白な玉砂利が敷かれ、両脇に竹林がどこまでも広がっている。灯籠に灯りが灯っていた。神職姿の末兎と鯨山が灯りを持っている。空には月がでていた。
そういえば青春がしたいと言って直談判していらい会っていない。
「玉串はこのようにお受け取り、お納めください」
「玉串を奉納されましたら、このように受け取り、返し、このようにお納めください。一礼し、頭を深く下げ、今度は二礼」
「あはい」
鯨山が次々と足速に説明する。
「月読姫が三度、御神酒を召し上がられ、こちらにまわってきますのでお飲みください」
「えっと」
ややこしい説明に鈴凛は混乱する。間違えないだろうかと心配だった。
「行きますよお待たせできません」
「はい」
中に入ると、笛や和太鼓が鳴らされ、雅楽のようなものが流れていた。白麗衆州がずらりといて驚いた。
鯨山に招かれた場所に正座する。
祭壇に白月姫が座っていた。
美しい真っ白な一体の雛人形のようでもある。照日ノ君に比べると人間味があまりなかった。
−−かしこみ かしこみ もうす
鯨山が祝詞を唱える。
白麗衆週が酒を持ってきた。
明は神々の口蜜に宿る。つまりこれが明の定期的な接種というわけなのだろうと思った。
もし完全に抜けきってしまったら?
鈴凛は草案のことを思い出す。
よい匂いがする。鈴凛は口をつけた。少し甘くて清々しい冷たい水のようだった。
口をつけると、冷たい水は食道あたりでぽかぽかして、体は高揚したような気がした。心臓の音が聞こえはじめる。
「ふ……ふ……」
息もあがっているような気がした。
何でもできるような気分になってきて、目が爛々とした。
「……」
鯨山が二度目のさかずきを持ってくる。口をつけてすすると、頭がぼうっとしてくる。ふと月読姫に目がいくと、釘付けになってうっとりして目が離せない。あの天鈿女命を見た時のようだった。心の奥底から欲望が湧き上がる。なぜか、白月姫に抱きつきたくなってくる。
「……」
三度目のさかづきに口をつけた時、切なくなって、むわりと何か本能が立ち上がる。胸の先や下腹がじんじんした。体のコントロールは効かなくなって、さかづきを投げ捨てると、鈴凛は飛び出した。
「?!」
鯨山が驚いてよろよろと立ち上がる。
どん。床に白月姫の髪が散らばっている。
鈴凛は気が付くと、白月姫を押し倒していた。唇に吸い寄せられて無理やり口に吸い付いた。
ぼんやりと、これってファーストキスだな……などと思う。
「いかん!!」
鯨山と白麗衆が慌ててやってくるのが見えたが、もはやどうでもよかった。
小さく柔らかい唇に割って入ると、みずみずしい口内の白檀のような香りが広がった。みずみずしい液体を飲み込みたくて夢中で啜る。
「引き離せ!!」
大声で鯨山が騒いで、白麗衆もどっと押し寄せる。
「黄金類を!」
黄金の棍棒や、何かでバシバシ叩かれていたが、鈴凛は無視して、その清々しい果実を舐め回して啜っていた。
鯨山はついに黄金の小刀を突き立てて、鈴凛を蹴り飛ばす。老婆のどこにそんな力と技があったのか、
鈴凛は夢中で月読姫の口を食べていた。
ついに白麗衆たちに取り押さえられる。
「いかんさらに明を摂取してしまう!」
「お納めしろ!」
「黄泉香をもて!」
白麗衆が鈴凛をものすごい力で払い退けて、鈴凛は床に叩きつけられた。不気味な腕に青筋が浮いている。
「ああ……月読姫」
姫の着物が乱れて、華奢な肩が露わになっていた。美しい額にかけられたも模様紙が少しめくれている。そこには驚いたことにもうひとつの閉じられた瞼があった。
「まぶた……」
「!」
「月読姫……月読姫……」
「お……?お……?」
鈴凛は鼻血が垂れているのに気がついた。
「お許しください!!」
がんっとなにか硬いもので頭を殴られた。
頭がぐるぐるとして気を失った。
*
「あれ……?」
頭がじんじんと痛い。今度は鯨山に撲殺されたのだろうか……とぼんやり思う。
今日はひどい日だった……2回も殺されてしまったとぼんやりと思う。
「ん……?」
幼く美しい顔が心配そうに見下ろしている。
「わたし……」
いい匂いがする。
小さな少女に膝枕されていた。
すんすんと月読姫の首や髪のいい匂いに吸い寄せられる。透き通るような尊い匂い。永遠にそうしていたい。また欲望が湧き上がる。
「深呼吸をしてください……黄泉香を嗅ぐとよいです」
炊かれた煙がうっとうしく感じる。
「明を移す口蜜には誘惑作用があるのです」
ささやくようなこえで月読姫が言った。
鈴凛は話半分で聞いて銀色の瞳を思う存分眺めていた。すると、今度は鈴凛は妙な気分が湧き上がる。
それはイライラとした怒りだった。
「わたし……わたしは……最低のクソ餌です!!」
鈴凛は拳を握りしめて立ち上がり、月読姫を振り返る。
「なんでなんでなんで」
そして頭をかきむしった。
なぜあんなにも馬鹿馬鹿しいことで悩んでいたのか。男がどうしたというのだ。青春がどうしたというのだ。鈴凛の指先がわなわなと震える。
「脳みそが腐っていたんです。一度死んだせいかもしれません。なんでこんな大切なことを……!」
ひざまづいて、月読姫の両手をきゅっと握りしめた。
「月読姫以外に大切なものなど何もないのに!!」
月読姫はきょとんとしている。
「……そなた……」
「なんで今までこんな」
鈴凛は今までのことを考えると、猛烈な絶望が襲った。
なぜこんなことに気が付かなかった?
血を分けてもらって、今、生きているのは月読姫おかげだ。
どうして月読姫のために今まで全力で戦姫として生きてこなかったのだろう……
鈴凛は今までの自分が自分じゃないように思えた。
「わたしたちは永遠の母と娘。それ以上の強い絆などあるはずもないのに……それ以上に大切なことなどあるわけないのに……わたしは……わたしは……何をしていたんでしょう?」
鈴凛は感極まって震えた。
「……!」
「わたし、くだらないことばかり考えていました。ボーイズラブがどうとか、テストがどうとか……本が読み終わらないとか……宿題が終わらないとか……月読姫がここでどんなにお寂しいか、お辛いか……どうしていままでちっとも考えなかったんでしょう……わたしなんて死んだ方がましです……死ねないんですけど……」
鈴凛は一気にまくしたてた。
「穢レが酷くなったときいていたので、盃への口づけを長くしたのですが……強すぎたようですね……明には誘惑作用が……」
月読姫が深刻そうな顔をした。
「違います! これは胸の奥底から湧き上がる本当の心です……今霧につつまれて何もわかっていなかった心が、晴れたんです!これが本当のわたしです!」
鈴凛は拳をにぎりしめてまた立ち上がったが、クラクラとしてまた倒れそうになり、月読姫がそれを支えた。
「ずみません」
鼻血をおさえる綿をつめたまま鼻声で言った。
「立ちあがると、よくないでしょう」
深呼吸すると落ち着いた。
月読姫の小さな手が鈴凛の頭をなででいる。恍惚として癒される。
「ああ……」
庭には竹灯篭が広がり、おしらさまが幻想的に飛んでいた。
「もう大丈夫です。でもまだ帰りたくないです。月読姫といたいです。」
月読姫がくすりと笑う。
二人で竹林庭園を歩く、その背中はとても小さい。着物がとても重そうだ。月読姫が愛らしく美しいからか、この女ばかりの世界でおかしくなったのか、鈴凛はぎゅっと抱きしめたいような気分に駆られる。
「月読姫はなんて美しんでしょう……」
「わたしは照日ノ君をかっこいいだなんて思って、今日会えるかもしれないとかちょっとドキドキして、本当に最低のビッチです」
「照日ノ君は月読姫の夫なのに」
銀色の目は複雑な美しい光を放っていて、何を考えているのかまったく読めなくなった。でもあまり楽しそうには見えなかった。ここに引きこもってうようよいる白麗衆に見られながら外にも出ないのだ。楽しいわけないと鈴凛は思った。
「妾を……許してほしい……」
「……え?」
「そなたを……このような運命にした……そなたをかどわかす妾を……」
「あの拘式谷で死にかけたわたしを助けてくれたのは月読姫です!」
「妾は無理矢理そなたを娘にしたのです」
「違います!これは」
「これは……これは……運命なんです!」
そしてあれ?と思う。
前と自分が言っていることが全く違う気がした。
自分が戦姫になったことは運命なのか……?
蟻音に言われてこれは仕方ない事だと思っていたような……
鈴凛は頭が混乱した。
それでも今月読姫の娘になったことを強く運命だと感じていた。
「妾が心配になりすぎるのも、大きな気持ちになるのも、口蜜のせいです」
「そんなことはありません……」
「月読姫……」
鈴凛は手を握りしめて、うるうるとしていた。
「そなたは、優しいですね」
月読姫が額に触れる。
その瞬間、鈴凛にしか見えないあの赤い糸がぎゅんと飛び出して、月読姫の瞼に飛び込んだ。
「え!」
それは瞼を割って無理矢理中に入る。
「あ……!」
月読姫も驚く。
「!」
その時、赤い糸を通して電流のようなものが走った気がした。
何かが接続されたような感覚があった。体が増えたような、領域が増えたような感覚。
「……!」
膨大な情報が脳に流れ込む。
「いけません!」
誰かが泣き叫んでいる。
無数の触手のように絡みつく、黒い森のような魔物が見えた。うじゃうじゃとのたうち、それは人々を捉えて、どこかへ運んでいる。鈴凛はそれを見たことがあった。
八岐大蛇だった—
だがあの時と何かが違う。そこは鈴凛が知っている拘式谷ではなかった。
そして、その触手の中に女が一人立っている。
「櫛名田!湯津爪櫛になればそなたはーー」
今からは想像もできないが、感情的な声、それは月読姫の声だった。
「月読姫、牛利を頼みます」
美しい男が月読姫を越して、進み出る。
「難升米!」
魔物の沼に立っている女に向かって言った。
「櫛名田」
「!」
怯えた顔で、黒髪の女がこちらを向く。未来妃みたいな賢そうな眼差しを持った日本風の美人だった。黒く長い髪が風に巻かれている。
「牛利を守ると約束しただろう」
男が思い出させるように言った。
「……そうだな……」
女の方が疲れたように言った。
「わたしは……愚かだ……忘れていたのだ……」
「櫛名田!もうよいのです!」
「月読姫……わを……お許しください」
黒髪の女が後ろ姿のまま言った。
もう一人別の男が進み出る。背の高い、青い髪がたっぷりとして浅黒い男だった。水干服をきていた。
「素戔嗚……」
月読姫が怯えた声をあげる。
「結べ」
櫛名田のもとまでいくと、青い髪の男は低い唸る声で言った。
「誓を」
「ああ、頼む。素戔嗚」
櫛名田は素戔嗚の手をとった。
「愛してはいけないものを愛した、わをお許しくださいませ」
それを聞いた月読姫の心が張り裂けそうなほど震えている。
「許されない……許されるべきでないのは妾なのに−−」
「それは……妾なのに」
月読姫は泣いている。
「素戔嗚に、わの……全てを」
黒髪の女がそう言うと、青髪の男が噛み付くように女に口づけする。その時、眉の濃い凛々しい素戔嗚尊の目元が見えた。
「あ!」
次の瞬間、櫛名田の胸が赤く輝き、驚いたことに素戔嗚はその光の渦へ右手を差し込んだ。
大きな七枝に分かれた剣城がひきずりだされる。
「あれが……」
眩い赤い光が広がっていく。
「湯津爪櫛……」
そばに年老いた男がつぶやいた。
「その力、使われるもの……」
真っ白になり、乾涸びたものがばさりと落ちる。ミイラのようになった櫛名田だった。
「櫛名田!!ああ……ああ……」
月読姫はただ泣いている。
「蘆名槌!!」
難升米と呼ばれた男が叫んで、老人ははっとする。
「八絞酒を!」
拘式谷でみたように、魔物をまわりを、ぐるりと、鳥居で取り囲むように、民衆が綱で引き上げた。
「素戔嗚様が八岐大蛇を退治される!」
青髪の男は、赤い剣でばっさばっさと首を落としていった。
「ああ……」
それでも八岐大蛇の無数の腕のようでも蛇のようでもある触手がそこらじゅうでうじゃうじゃとしていた。
「月読、親父がやるまで下がっていろ!」
傍をみると、険しい顔の湍津姫がいた。髪が逆立ち、無数の腕を伸ばす激しい湍津姫が戦っている。大蛇の攻撃を必死に防いでいた。
「姉者たちがやる」
空では眩い光が大蛇の首を弾き返している。
「首が落とされていく」
青髪の男は最後の首を切り落とすと、まだのたうっている大きな尾らしき部分にも刀を振り下ろした。
ギンっと言って何かに当たる。
「……!」
ドロドロした化け物のうごめく肉の中から黒銀色に輝く何かを掴みだす。
「目を伏せよ!」
素戔嗚が叫ぶ
何人かがばたばたと倒れた。
それは草案でみたピンセットと同じようにまがまがしい光を放っている。
「草薙の剣」
素戔嗚は赤く輝く湯津爪櫛を見やると、それを手に纏わせた。
赤い手でそれを掴み、天にかかげる。雷鳴がした。
「草薙の剣、天照大御神に献上す」
素戔嗚がそう叫んだと同時に、それを落とす。
「く……」
じゅうじゅうと音がして、素戔嗚の手が焼けていく。素戔嗚は驚いたことに、その腕を反対ての手で引きちぎる。
「く」
「素戔嗚……」
落ちた剣を別の男が拾った。
「あなたは何度、彼女を葬るのです……?」
白銀の光が満ちる。
「!」
音が無くなり、時間が止まったように感じる。
「なぜ?」
「八雲が……なぜここに」
「愚かな……」
背の高い黒人の戦姫だけがゆっくりと歩いて行った。
「市杵島姫?」
「まさか……」
「あたらしい世界はあの方が創る」
「……!」
「母様、あなたならわかるはずだ」
月読姫はそう言われて恐れた。
「あの方が全てを変える」
「いけません! あなたは何もわかっていないのです……!」
月読声は震えていた。
「違う。何もかも知ってしまったのです」
「……!」
「月読……」
光に名を呼ばれて、月読姫の体が跳ねる。
姿が形作られ、見えてきた。
額にもうひとつの銀色の目が輝いていた。月読と同じ三つ目である。
影になっているが、整った美しい顔だった。
「!」
月読姫と白銀の男の視線が結ばれる。
バチバチと黒い光がぶつかり合って、弾け飛んだ。
男の手には草薙の剣が、月読姫の手には、どこかで見た剣があった。
鈴凛はそれがいつも、照日ノ君が腰に下げていたものだと気が付く。
「あなたは罪深い」
黒いローブのようなものを纏った男の長い真っ直ぐの銀髪が溢れていた。
その男だけが動いており、誰も動けない。
「く……」
「!」
ローブの男の口元が笑っていた。
「!」
照日ノ君と同じくらい綺麗な顔だった。
月読が息を飲む。
「弱りきって」
白く冷たい手が頬に添えられる。
「いや……愛しすぎて」
「……」
「わたしを殺せないのですか?」
「……!」
「あなたは罪深い」
鈴凛は心臓がびくりと跳ねた。それが自分のものなか、月読姫のものかわからない。
「愛しい月読」
ただ確かな心の響きが鈴凛には聞こえたきがした。
白銀の男が月読姫に口づけする。
驚いたことに、それはびりびりと体が痺れるように、何もかもがが奪われる快感だった。
体の力が流れていき、時の永遠を感じる。この人さえいれば何もいらないと願う。
「!」
衝撃に世界が揺れていた。
鈴凛の頭も混乱する。
バチんとまた弾かれた音がした。
それが秘密。それが真実。それが罪。
「!!」
急に現実に引き戻される。月読姫の遅れた顔があった。
「……八雲……八十神の王」
鈴凛は呆然とつぶやいた。
縁血の繋がりがそうさせたのか恐ろしいことに気がついてしまう。
「あなたは八雲を……」
血の母の知ってはいけないことが流れ混んでくる。
深く辛い悲しみ。閉じ込めた本心。仄暗く、深い深い一番深い場所に沈めて埋めた秘密。
本当は、殺してほしい—
「!!」
猿田彦の船でみた絵が蘇る−−。
黄昏時に引き裂かれた銀髪の長い髪の男神と白色の髪の女神。
あれは、月読姫と八雲—
月読姫と八雲は愛し合っている−−
「!」
じゃあ、戦姫たちは何のために戦って……
急に鈴凛は怒りと嫌悪が湧いてきて、月読姫の心を突き放した。
拒否する心が広がっていく。
何のために血の滲むような訓練をしているのか
何のために父や上田三枝は死んだのか、多くの人たちはどうして犠牲になっているのか−−
「!」
鈴凛が現実でも押し退けたのか、ふたりは磁石の対極のごとく、ぐわんと力が働いて突き放された。
「は……は……」
鈴凛は息が上がる。月読姫は気を失っていた。
「何事じゃ!」
鯨山と白麗衆がどかどかと入ってくる。
「月読姫様!!」
「八雲が……」
鈴凛は思わずつぶやく。
鯨山の恐怖に支配された顔があった。
「鯨山さん……わたし……」
「月読姫に何をしたのですか!」
「違うこれは……」
「わたし……月読姫の心を見て……」
鯨山が見たことのないほど怒っていた。
「おひきとりください」
その声は震えていた。
「え……でも」
「おひきとりください!!」
「えでも」
皺皺の手が鈴凛を推してくる。
「白麗衆!」
鯨山が恐ろしい殺気を放っていた。
白麗衆が押し寄せてきて、鈴凛を抱えて外に出した。
暴れてもものすごい力だった。
「まだ話が」
白麗衆が拘式や佳鹿にも劣らない手捌きで鈴凛をはがいじめにする。
「待って……まだ話は−−」
鈴凛は追い出されてしまった。
夜の冷たさが降りてくる。
静かな神楽殿の入り口まで渡廊下を歩く。
「どうしよう……」
突然に世界が真っ暗になったような気がした。
「!」
末兎と羊杏がむこうからやってくるのが見えた。
「どうなさいました!」
「え……いったい中で何が」
鈴凛は泣いていた。
「……う」
真実が悲しくて悲しくて涙がでる。
やっとみつけた母親が去っていく。
やっとできた大切な鈴凛の家族も置いて去っていく。
「いかないで……置いていかないで」
鈴凛はそうつぶやいていた。
「え?」
末兎が驚く。
「お母さん、行かないで……」
とても恐ろしくて、悲しくて、とても正面から考えられないこと。
全てを破壊する秘密。全てを無に帰してしまう秘密。
月読姫がいつか高天原を去る気がした。
「うう……ひっく……うああああああ」
鈴凛は堰を切ったように大声で泣き出してしまう。
「わたし……月読姫を……」
羊杏が心配そうにしているが、鈴凛の涙は止まらなかった。
「とにかく宮まで戻りましょう」
末兎と羊杏が慌てて、肩車で動かして鈴凛を船に乗せた。
「とにかく戻りましょう」
「どうされたのでしょうか……」
羊杏が心配して背中をなでてくれる。
「月読姫を……月読姫が……」
鈴凛はずっと子どもみたいにえんえん泣いていた。泣き止みたくなかった。
「なんなの。うるさいわね!」
姫宮に戻ってきて船をつけようとした時、渡り廊下からこちらを見ているふたつの影があった。
「うるさいわよ!」
影姫と技蛇だった。
「!」
鈴凛は影姫からほのかに月読姫と同じ香りがした気がして、鈴凛は船を蹴り飛ばして飛び上がった。
「わ」
影姫に衝動的に抱きついていた。
「ちょ!」
「おねいさまああああ!」
「は、はあ?!」
きつい表情が驚いて崩れる。
「わたし月読姫を……」
「月読姫は……本当は……本当は…………」
「影姫様ああああああああ!!」
「うわなに!」
「……ううあああああひっく……」
影姫の大きな胸で鈴凛は泣いていた。
「何なの、これ……」
影姫ははじめは押しのけようとしていたが、諦めて鈴凛の好きなようにさせていた。
「どういうことなの。バカでグズが、アホバカのクズになってる」
末兎が船をつけて、姫宮に降り立った。
「明雅顕証の儀だったのですが、明が強すぎたのだと思います。精神的に錯乱されておりまして……」
「どどどどうしましょう……」
羊杏はただただ焦っていた。
「はあ?あんた備え付けの黄泉香も持っていないの?」
影姫が呆れたように言った。
「あまりまた穢レをまたとりすぎるのも……今度はよくないかと思いまして」
末兎が言った。
「そんなこといったって、このグズ、このままじゃ気持ち悪いでしょ」
「それは……」
「宮に熟成された黄泉香茶がまだあるでしょう」
技蛇がこそこそと影姫に言った。
「はあ……まったく…… ちょっとこっちきなさい。面倒臭いわね……」
「硝子宮へ?!」
羊杏が驚いて目を丸くする。
「ありがたく思いなさいよ! 末兎あんたも来なさい」
「うう……影姫様のお、おうち?」
「おうち、じゃなくて姫宮よ。まったくイライラするわね」
影姫たちに連れられて歩くと、黄色い花の木々で覆われていた一角が見えてきた。所々に氷の柱のようなものもみえる。
「うわあステキですねえ……」
ガラスの紋が黄色の色を含んで、ぼうっと浮かび上がっていた。
黄色い花をつけた木々が美しく咲いている。
「ケナリ……レンギョウです」
「綺麗でございまする……」
羊杏もぽかんと口を開けてついてくる。末兎は来たことがあるのだろう、何も言わなかった。
「うわ」
生垣を抜けると、透明のガラスでできた宮殿が現れた。透明に透き通った城は氷の城のようでもある。中に入ると。ところどころが黄色とオレンジのステンドグラスで美しく装飾されていた。
「ほあ……」
鈴凛は間抜けな声を終始出しっぱなしだった。
ところせましと提灯がおかれ、それが建物全体をぼうっと光り輝かせていた。ガラスなので、中で動く人影が少し見えた。夜なのに昼かと思うほど明るい。
鈴凛が見惚れていると、影姫が自慢げに顎をくいっとあげた。
「わたしはもう遷宮したから建て替えたの。宮が古くなっても、お金があれば、好きなように建て替えられるのよ」
廊下に入ると、ガラスの柱に藤の木が絡みついて、そこらじゅうで花を咲かせていた。
透明の階段の下や、ガラスの廊下の下にも藤が咲いている。
「わたしは藤が大好きなの。藤の樹は管理するのはとても難しいのよ。桜みたいに植え替えればいいってもんじゃないんだから」
どういうわけか、ガラスの柱や廊下と、藤の樹たちが一体化していた。
「藤がそこらじゅうに……」
羊杏も興味深そうに見ていた。
「好きなように?」
あかりのそばで咲いている藤の花は一層はかなげだった。
「あんたはわたしへの借金があるから当分は無理ね」
「う……うあああああ。そうでしたあああああ」
「今は刺激しないほうがいいかと……」
「客間に通しますか」
「うわあ……」
両開きの大きな金細工のされたガラス扉を明と、紫の世界が広がっていた。
どこまでも藤棚が造られ、紫の美しい花が広間に垂れ下がってた。やわらかく紫色にぼうっと広間が光っている。その下にガラスのテーブルがちょこんと置かれていた。
「どう?すごいでしょ?」
影姫の華族らしき女人が手押し車にのせたお茶屋お菓子を持ってきてくれた。
「どうぞ」
お茶を入れてくれた。
「おいしいですう……なんだかまた涙が」
「油雲丹、香茶だけって言ったでしょ」
「影姫様、妹姫様には優しくしませんと。それに華子ちゃんも食べるものがあるほうがいよくないですか?」
「妹姫なんて認めないわよ、こんなグズは」
「う……う……ひどい……わたしたちは月読姫の血をわけた家族なのに……」
「今はあまり刺激しないほうがいいかと」
技蛇がまた言った。
落雁のようなお菓子だった。
お茶を飲んで美しい庭を眺めているとほっとする。
席についてしばらくすると佳鹿がやってきた。
「まあ〜ありがとうございますう。うちの子がすみませんねえ〜」
佳鹿はどっかりと鈴凛の横に座る。
「わたし、マッコリで」
佳鹿が油雲丹ににっこり顔を向けた。
「あんた何しにきたのよ!」
「黄泉香って、しばらくは安静にしたほうがいいでしょ〜」
「はあ?!連れて帰ってからでいい……」
「あと、トッポギと、チーズハットグと、ヤンニョムチキンとサムギョプサル……しめに参鶏湯で〜」
「は〜い」
「あんたどんだけ長いするつもりよ」
「中で月読姫と何があったのかしら〜この子は何をしちゃったのかしら〜、知って損はないと思うのよねえ〜」
影姫はうっとした。
「……」
「グズ……じゃあ、ちゃんと話すのよ。あんた月読姫に何したわけ?」
鈴凛は話し始める。
「ちょっと、ちょっと、月読姫の心を見たですって?」
影姫が話の途中で制する。
「なるほどね」
佳鹿が小さく最後に言った。
「それに……月読姫が死にたがっているのですか?」
技蛇は信用できないといった目をした。
「何が、知って損はないよ。こんな馬鹿話。まじめに聞いて損した」
影姫はイライラとして言った。
羊杏は怯えた顔をして、末兎は眉間に皺をよせた。佳鹿はずっと出された韓国料理を食べている。
「油雲丹!請求をちゃんとこの連中につけときなさいよ!」
−−は〜い
「おねい様……でも本当で」
「あんたのおねい様じゃないわよ。まだだいぶおかしいわ。黄泉香茶もっと持ってきなさい!」
影姫が叫んだ
「でもおねい様」
「あんたのおねい様じゃない」
鈴凛は廊下をひとりでいったり来たりした。
「おそらく、明が強すぎてみせた幻覚幻聴です。落ち着いてください」
技蛇が静かに言う。
「嘘じゃないです! 心がつながったのを確かに感じたんです!お母様の心が流れ込んできて……」
「馬鹿馬鹿しい。あんたなんかが、神々の神籬に触れられるわけないでしょ」
「……」
末兎は何も言わなかった。
それをみた佳鹿はすぐに末兎の表情を読んだようにして、ニヤリと笑った。
「……あんたは、知ってたのねい」
「!」
「月読姫が死にたがってることよ」
佳鹿はナムルをつまみながら言った。
「マッコリおかわり!」
「……!」
末兎は何も答えることができない。
「たぶん鯨山のばばあも知っているのね」
「わたしなどが……月読姫様の御心を知る由もない」
「あらそお?でも?」
「……ただ……我々はいつも……月読姫がひどく悲しんでおられることだけは感じていただけだ」
末兎は厳しい顔をして答えた。
「末兎。このグズが調子に乗るでしょ。本当なわけないんだから、変なこと言わないで」
影姫が睨む。
「……申し訳……ありません」
「本当です!絶対に見ました!もう二人の戦姫も見ましたよ!」
「はっ。じゃあどんなんだったか言ってみなさいよ」
「湍津姫様の髪がぶわーって逆立って、土砂降りみたいに手を振らせてた!」
「もうひとりは黒人のすごく大きな人だった。でもすごく綺麗な人で、去って行ってしまった……」
言うべきかどうか迷ったが鈴凛は思い出したままを言った。
末兎がぎょっとして固まる。
「!」
技蛇も目を見開いた。
「市杵島姫のことを」
末兎が信じられないといったふうにこぼれるように言った。
「あれは本当だったのか……」
「技蛇……?」
羊杏が目を丸くする。
「随分前にあっさり死んだことが隠蔽されたのだろうってのが、花将やIUでは通説だったけど、本当はそういうことだったのねい」
佳鹿があっけらかんとして言う。
「裏切りの戦姫だったわけ……なるほどねい……」
佳鹿が納得したように言った。
「ほら有益情報だったじゃない?裏切りの戦姫があっち側にいるなんてね」
佳鹿がにっこりした。
「市杵島姫様が……まさか……」
羊杏がショックを受けた顔をして驚いた顔をした。
「2000年も高天原に帰ってないのよ?辺津宮だってからっぽの箱だし」
「……」
「末兎、隠しても無駄よ。神宮は知っていたんでしょう」
「市杵島姫様の離反については、神宮の神職でも一部のものしか知りません……」
「!」
「よくも2000年も隠しておけたわね」
「おそらく百姫様が見たのは……2000年前の真実……かもしれません……」
「……」
一同が押し黙る。
「じゃあ死にたいってのも、俄然、信用性が……」
一同が鈴凛に向き直った。
「だから本当だって言ったじゃん」
鈴凛はふんっと鼻を鳴らす。
「おったまげね。なんて恐ろしい力なの」
佳鹿が鈴凛を神妙に見た。
「死ぬだけじゃなくて、過去や心を知る力もあったとは。なんて恐ろしい子……」
「あんたは……あんたは……」
一同がごくりと生唾を飲む。
「あたしがこっそり羽犬の手袋を編んでいることも、セクシーなレースのTバックをつけていることも、いつ鼻くそほじったかも、わかるのねい」
「そこなの」
「羊杏がこっそり水飴を舐めたことも、たまにおねしょしてしまうこともですか?!」
羊杏が鼻息を荒くして話に加わる。
一同がぎょっとして一歩退いた。
「お、恐ろしい……」
「そこなの?」
「怖いですね」
全員が気まづそうな顔でじりじりとそっと退いていく。
「その糸にくっついたら、何もかも、知られるなんて……」
「みんなの恥ずかしい秘密なんてみえてないです!」
鈴凛は慌てて言った。
「では月読姫は本当に死にたがっているんですね」
末兎が話を戻すように言った。
「これは……」
佳鹿がうーんと長い時間考える。
「大問題だわよね、普通は」
「人間が死なないように頑張って戦姫を生み出している張本人が死にたがっているなんて、おかしいわよね、そういう意味では大問題よ」
「でも、神だから?」
「神は死なない」
技蛇も言った。
「体はインカーネションした仮初の身」
「生と死には縛られない」
「そうそう嫌なことが急にあって、思い詰めて、あの豪華な御帳台で首を吊ったって、死なないわよね」
「不敬な」
影姫が目を細める。
「死んでしまうとかしまわないとか関係ない……死にたいと思うほど苦しんでいるなら、助けてあげなきゃ……それなのにわたしは……」
鈴凛は嫌悪を感じたことを恥じた。月読姫を突き放してしまった。
「死にたいって心の闇なんでしょう?」
「どうして死にたいのでしょうか」
妾は罪深い—
「……!」
鈴凛は最も重要なことは言っていなかった。
もし、八雲のことを知られたら月読姫はどうなってしまうのだろうか。
鈴凛は恐ろしかった。
月読姫はただ死にたがっているのではなく、八雲に殺されたがっているのだ。
月読姫は八雲を愛している。
それはこの高天原の全てを破壊しうる恐ろしい秘密な気がした。
戦姫たちが戦ってきたことを全て否定するような気がした。
「なにかでもひっかかるわねえ……」
佳鹿はキムチの唐辛子が歯にひっついていた。
「え」
佳鹿は鋭い。
「あんたがみたことは、それが全てなの?」
佳鹿が鈴凛を見る。
「……う……うん」
鈴凛は言えなかった。
月読姫がどうなってしまうのか怖かった。
「しかし……百姫様はどうして月読姫の過去が見えたのでしょうか」
「湯津爪櫛を持つ者の素質なのかも。黄泉を介して、素戔嗚様もある種の遡及する力があるときいたことがある」
「遡及?」
「遡るってことよ。相手の心に侵入し垣間見る。だから素戔嗚様は少し先の未来が見ることができ、意志のある攻撃は全てあたらないとか、相手を操ることもできるとか……」
「なにそれ……すごい……」
「あんたも似たようなそういう素質があるのかもね」
佳鹿がこほほと笑う。
「過去をみたり、心をみたり……操ることが?わたしに?だったらわたしも戦いでもっと役に立てるかも……」
「はっ。馬鹿馬鹿しい。あんたが素戔嗚様みたいになれるわけないでしょ!」
影姫が怒って睨みつける。
「佳鹿、まさかあんたこのぺーぺーに黄泉の力から先に教えてないでしょうね」
「もちろん、あたしには黄泉は使えませんしね〜教えるも何も教えられないですよ〜」
「いい? 黄泉は穢レよ。穢レは嫌悪すべきもの」
影姫が恐ろしい形相でずいっと顔を近づける。
「それだけは忘れないことね」
「その力を乱用するんじゃない」
「は、はあ……」
影姫は目を背けた。
「もう帰ってよね!」
影姫は急に怒ったようになって、三人を追い出した。
廊下に戻ると、夜中でも影姫の宮だけは爛々と光を放っていた。
「綺麗なお宮でございましたねえ」
羊杏がぽつりと言う。
「となりにあんなステキな韓国料理店があるなんて知らなかったでしょう?」
佳鹿がふふっと笑う。
「うやめてよ。影姫にまた嫌われちゃうじゃない」
「まともに戻ってきたわね」
明るい宮が遠のいていく。確かにまた行きたいと思った。
「影姫の能力は影に潜る事」
「へえ……でもそれなら影になる部分が多いほうがいいんじゃないの?暗くしてたほうが……」
「一番、影を恐れているのは影姫なのよ」
「え?」
「だからあんなにバカみたいに宮を眩しくして闇を恐れてる」
「どうして?」
「気がつかないうちに影に沈んで、戻ってこれなくなったことがあるとか」
「!」
「穢レ……黄泉能力にはそういう恐ろしい一面がある」
「コントロールは難しいのよ。あんたの糸が勝手に月読姫のデコにくっついたみたいにね」
「……」
「それがひどくなると、自分で自分の力に喰われる時がある」
赤い糸を鈴凛は見つめた。あの拘式谷で鈴凛の体だけが暴走した時のようなことだろうかと鈴凛は思った。
「黄泉については、わかっていないことも多い。まあ黄泉のことや穢レを研究すること事態が高天原では禁忌ってこともあるけど」
「あの子が、黄泉香を熟成させたりなんかしてるのも、明と黄泉のバランスに神経質になっているからでしょ」
影姫にも悩みがあるらしかった。




