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永遠(TOWA)  作者: 三雲
不死ノ鬣(現代編)
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2話 1年E組

「きったねえ!」

鈴凛に柊木勇吾の唾が飛んでくる。

食後のお昼休み中の一年E組の教室の後ろで、いつもの見せ物が開催されていた。

鈴凛の上靴の横に、ベージュ色の吐瀉物が広がっていた。

その横には麦茶の液だまりと、ゴキブリがバカみたいにひっくり返って浮いている。

「源が吐いたぞ!」

柊木雄吾の大声とともに教室がざわつく。鈴凛の目の前で紺色の制服からはみ出したペイズリー柄の派手なシャツとたるんだ白い腹が小躍りするみたいに揺れていた。

お笑いでも見ているような、馬鹿でかい不快な嗤い声とヒソヒソ声がそこら中で響いていた。

今日と、明日学校に来れば、冬休みに入る。

後少しの我慢。後少しの我慢—

鈴凛は祈るように自分に言い聞かせた。

口元をぬぐって、教室の後ろに走る。

膀胱のビリビリ感にまだ必死で堪えていた。

二人の女子生徒がドアの前で立ちはだかる。

「お願いだから、トイレにいかせて」

鈴凛は二人を交互に見て、間抜けな声を喉から漏らした。

「あれ綺麗にしてからいってよ。臭いじゃん」

二人の門番がもちろん鈴凛を通すはずがない。

山原泰花が扉の前で通せんぼして笑う。

ぶ厚いバナナみたいな唇が大きくにいっと釣り上がり、つけまつ毛が二重に乗った暑苦しい顔は興奮にらんらんと輝いている。

反対に上田三枝は長い腕を組んで、きつめの幸薄そうな顔立ちを無表情に保っている。「通れる者なら通れ」といった圧を加えているのだ。

「でも……」

鈴凛はちらりと窓際を見る。

後ろの窓際の一番後ろの席で来田野奈が頬杖をついて、つまらなそうに外を見ている。

助けて、野奈。お願いだからもうこれ以上は、耐えられない。

やめさせて。

鈴凛は馬鹿げていると思いながらも、心の中で叫ばずにはいられなかった。

「お願い……」

これは彼女が望んだことだ。助けてくれるわけがない。

なんで?どうしてこんなことするの?

どうしてこんな仕打ちを、『友達』から受けているのだろうか。鈴凛は朦朧としたまま野奈の小さくてかわいい横顔を見ていた。

「モジモジしてるよこの子!」

我慢の限界が近くて足が小さくステップを踏んでいる。

なぜか鈴凛はそのせいで、ふとここで踊ったことを思い出した。

彼女たちと鈴凛は、同じテニス部で、高校に入学したての4月頃には真新しいテニス部の白いスコートとお揃いの桜のヘアピンをつけて写真を撮った場所だった。あれは幻だったのだろうか。

あの春、彼女が鈴凛を気に入った。

来田野奈は正真正銘のプリンセス。『中学の頃から誰でも知っている有名な可愛い子』だった。いいところのお嬢様で洋館のような家に住んでいる。妖精のように可愛らしいやわらかな雰囲気に少し垂れた色っぽい目元、長いまつ毛。天然に茶色くて柔らかい髪。小柄で華奢で驚くほど色が白い。幼げな笑顔は誰にでもイエスと言わせることができた。

上田三枝はスポーツ万能。テニス部のエースで、運動神経抜群。何をやっても、たいていスポーツでは一番。しゅっとした吊り目の美人系の顔立ちで、まさにプリンセスを守る、女戦士といった感じだ。

山原安香は、学年で一番面白い子。くりっとした大きな目にぷっくりとした厚い唇。派手な顔立ち。格好もいつも派手だ。流行のメイク、新しい服、情報、遊び、いつも新鮮なものをクラスに持ってくる。一年E組では一番お調子者で人気者だった。

三人はもともと同じ中学から上がってきた。高校に入学したての頃、野奈が鈴凛を気に入り、四人グループとなった。

それから、鈴凛は束の間の女子高生ライフをエンジョイしていた。

平和は長くは続かない。誰かがそんなことを言っていた。

ゴールデンウィーク明けに野奈の幼馴染で、柊木建設の御曹司で、不良の柊木勇吾がなぜか、耐えられない猛暑とともにD組からE組へまさかのクラス替えされてきた。

クラスの雰囲気は一気に変わり、冬が近づく頃、鈴凛は気がついたら今のような扱いにもうなっていた。

前のドアへもう一度走る。

「き、汚いからこっち来ないでくれる?」

教室の前の出入り口は、他の生徒たちによって人のバリケードが築かれていた。

何人かは申し訳なさそうに目を背けながら物言わぬ壁になっていた。

「おねがい」

手を伸ばすと、クラスで一番太って小さな子豚塚君が泣きそうな顔になっていた。

「だめなんだ。ごめんよ……」

「おい! 小豚塚! 今なんつった!」

「ひぃ」

「やりたくないならいんだぜ?」

柊木勇吾の声が響く。

「ごめん。でもこうしないとウサギ小屋のウサギが全部殺されちゃうんだ」

鈴凛の精神的ダメージより、ウサギの命なのだ。

ウサギの命。それは仕方ない。命のほうが大切だから。大切。なんだろうけど、何か違うとぼんやり思う。

「!」

誰も柊木勇吾と彼女たちには逆らえない。

「う」

下腹が痛い。もう限界だった。

「う……うう」

「うわ」

きゃあああという小さな悲鳴があがる。

嫌な温もりが鈴凛のまたに広がる。

「こいつ漏らしてる!」

小豚塚君が目を逸らした。

「くせー!」

柊木勇吾が合図のように叫ぶと、生徒たちのさざめきが教室に広がった。

「きったねー! こいつ漏らしたぜ!」

鈴璃は座り込んで、スカートの中にあふれたものを隠そうとした。

でも隠しきれるはずもない。黄色の液体が広がって行く。

頭の先までカッっと暑くなる。恥ずかしさと怒りとでどうしようもなかった。

「うわ!」

笑い声とどよめきとが起こる。

「くっせー!」

大きな声が響き渡る。

「汚い汚い」

「ほんと汚い」

「こんな臭いものある?」

「存在も臭いし汚いよ」

「汚い、はやく死ねよ」

鈴凛は涙が溢れてうずくまることしかできなかった。

もちろん泣いたところで連中はひるまないことはわかっている。

女子たちはクスクス笑って写真や動画をとりはじめる。

鈴凛の生暖かいものが、我慢しようと思っても止まらない。

生きる力が身体中に空いた穴から染み出して抜けていくみたいだった。

「何してるの」

真っ黒な髪をシニョンにした、パンツスーツ姿の三十代の女がやってきた。

担任の住田道子が次の英語の授業のためやってきたのだ。現場を見て、化粧の薄い顔が歪む。

「……」

呆れた顔で彼女は鈴凛を一瞥して、さっとすぐに教卓に向かった。

「源さんが吐いて、漏らしました。教室がトイレみたいです」

柊木勇吾が面白おかしく報告する。

そこでまた一部で柊木勇吾の機嫌をとるような笑いが起こる。

「そう……」

住田は汚れた床を大きく避けて、いつものように表情も変えず教科書を開く。

「みんな席について、一番後ろの人、宿題回収して」

「……」

「源さんは掃除してね」

「はい……」

トイレで体操服とジャージに着替えて、ビニール袋の底に制服を押し込めた。教室に戻り雑巾でぶちまけた液体を全て拭き取る。水拭きをもう一度する。

「源さんまだこの辺くさいよ」

「まだ源さんくさいんだけど」

「きたねえから全部ふけよ!」

「授業中、くせえだろ!」

「みんな静かにして」

住田が小さな声で言ったが誰もきいていない。

「ほらはやくふけよ」

柊木勇吾の足元を吹いていると、臭い上靴で踏みつけられた。

ぎりぎりと力が入る。

「いたいいたい」

鈴凛の小さな叫びが響く。指が折れるほどの力だった。

「痛いよ痛い!」

住田は一瞬恐れた顔になったが、何も言わなかった。試すように柊木勇吾は住田を見て笑う。

「!」

「鈴凛ちゃんここもふいて」

別の子がよんだ。

クスクスと笑いが起こる。

その後も柊木勇吾は授業など無視で、何かを言ったり蹴ったり、鈴凛をいびり続けていた。住田はそこだけ異空間のように、取り扱わず、淡々と授業を進めていった。

誰も柊木勇吾には逆らえない。

教師も生徒も。それが暗黙のルールだった。

鈴凛は掃除を終えると席に戻り、ぼろぼろの英語の教科書を開く。

「……」

指が腫れあがっている。

もはや本の原型をとどめておらず、発展途上国の紙幣みたいに変色し、バラバラになった落書きだけの紙をテープでとめた束だった。

ブス、クサイ、ネズミ、ヤリマン、ビッチ、死ね……マッキーペンであらゆるワードが描き殴られ、ご丁寧に尻や女性器や男性器の絵、髑髏マーク、首吊りの絵などが添えられている。それを眺めながら住田のお経のような棒読みの英語を耳の中で右から左へ流す。

もう1ヶ月ほど同じような最悪の日が繰り返されていた。



放課後、学校の裏山の神社の石段に鈴凛はなんとか今日を乗り切って座っていた。

「疲れたな」

この世界は、自分には難しすぎる。

もはやそれ以外何も感じない。言うこともない。怒りと悲しみを百往復くらいして、ただ疲れていた。思考は澄み渡って「もともとこの世界は、最悪なのだ。とにかく疲れる場所だ」と鈴凛に悟らせてくれた。

神社に『この世界から助けてください』とお願いするのも随分前にやめた。

「もう十二月か」

高校に入学した四月、鈴凛は浮かれていた。今まで家でも学校でも居場所の無かった自分に、友達ができるかもしれない。野奈に気に入られて華やかなグループに誘われた時、人生が変わる気がした。

いい方向に。それが間違いだった、

臭い制服は、うなづくようにビニール袋の中で重たくなっている。

「きも!あいつまたあそこにいる。この変くせえと思ったわ」

「おいドブ鼠!どっかいけよ!」

「死ね!」

神社の下には、屋外コートがある。

ふざけて柊木勇吾の友達のバレー部の男子たちが罵声を投げてくる。

鈴凛には『ドブ鼠』のあだ名がついていた。毎日古びた灰色のダッフルコートを着ているからである。そして汚い。寒くて鼻水が出るが、ティッシュはトイレにしかない。カーディガンの袖口でぬぐうしかない。学校のいじめショーで吐物や排泄物や泥その他もろもろで制服が汚れる。それなのにほとんど洗濯できない。中学の時からずっと着ているので、みるからに黄ばんで毛羽だって、汚い。髪もボディーソープで洗うため、いつもスチールウールのように乾燥してボサボサである。

「イッテ!」

鈴凛を追い払おうとした男子の頭に、バスケットボールが横からあたる。

「わりー」

鈴凛の心臓がきゅっと高鳴った。

「なにすんだよ!」

「如月」

「どこみてんだよ、如月」

「時間まだあるからバレーまぜてよ」

悪びれる様子もなく青年はそう言った。柔らかそうな金髪。すらりとした美しいスタイル。泣きぼくろを従えた切長の目と白い鼻筋。形の良い唇が色っぽい笑顔を薄く浮かべていた。

鈴凛が唯一生き返る時間のはじまりである。

「いいよ」

ふざけあって男子たちが遊び始める。

「すげえ!」

「どんだけ飛ぶんだよ」

鈴凛は金髪の青年が手を掲げ、軽やかにバレーネットごしに舞い上がるのを見た。

「あ……」

思わず声が漏れる。

黄昏にそれはキラキラと輝いて見えた。

「なんてきれいなんだろう……」

この最悪の世界の異例中の異例。

この瞬間を見るために生きていた。

鈴凛はいまだに如月周馬の存在が信じられなかった。この醜い世界にある唯一の奇跡。自然の神秘と畏敬を抱かせる。神様が丁寧に作り上げた美しすぎる作品。

「如月、前から言ってるだろ、バレー部に入れよ!」

「俺にはバスケが必要なの」

遠くから眺めても、その美しさはいつも寸分の違いもない。そして一挙一動が周りの者を釘付けにした。

それは鈴凛が今まで生きてきて見た何よりも尊いものだった。

鈴凛はバレーのネット越しに舞い上がるその青年を見ていると、ふと自分の心臓も動いていたことを思い出せた。

「またやってる〜周馬」

スコートを履いた野奈たちだった。野奈がとびきり可愛らしい顔を向けている。

「野奈」

「あいかわらず人気者だね」

「ねーねー如月くん、部活終わったら、みんなでカラオケいこうよ〜」

「先輩たちも来るって」

山原安花と上田三枝は一歩後ろで保護者のようにアシストしていた。

「……」

少しだけ口の中に苦味が広がる。

鈴璃が決定的に嫌がらせを受け始めることになったのは、如月周馬と来田野奈の恋愛事情に巻き込まれたからだった。

「中庭にこれ忘れてたよ」

よく如月周馬が着ている白いパーカーを野奈が渡していた。

学校には聖地と呼ばれる中庭があった。

学校の中で特別に選ばれた美しく有能なスクールカースト上位の者だけの世界。

お昼休みに中庭で遊ぶ彼らを、たくさんの生徒たちが羨望の眼差しで廊下の窓から眺めていた。

そこで如月周馬は一年生でも学校内でも飛び抜けた人気者だった。

それで一番のお似合いになるのが、来田野奈だった。

美男美女である二人は、もうすぐ付き合う、といつも噂されていた。

野奈が遊び終わるのを二階の廊下の窓際で待つ。生徒たちがあまりにも釘付けになってしまうから、中庭に向かう窓は手垢だらけである。鈴凛はいつもそこで待つように言われた。

でもそれは同時に、適切な距離でじっくり如月周馬を観察できる幸せな時間だった。

ところがある日、ただの窓の手垢でいられなくなった。

のんびりとした午後の美術の時間、油絵に筆を押し付けながら、野奈はある日、急に爆弾を投下した。

「ねえ、鈴璃ちゃん、勇吾とつきあえば?」

野奈は突然、隣にいる鈴璃にそう言った。

まさかの窓の手垢にありがたい話が飛び込んだ。

鈴凛の筆を持った手は塗っていた林檎どころか、キャンバスを飛び越える。すぐ脇の棚の粘土細工が音をたてて倒れた。

「あ……」

鈴凛はチンタラとそれを拾う。顔があげられなかった。

「わたし幼馴染だし、勇吾のことよくわかるんだ。勇吾いいやつだよ」

可愛らしい顔が優しく鈴凛を見下していた。

いいやつ?鈴凛は耳を疑った。

何人も登校拒否にして、いつも先生を顎で使っているような人が?

「えーと」

しかし、鈴璃もその頃には、薄々感づいていた。柊勇吾の気持ちにではない。野奈が無理やり自分と柊勇吾をくっつけようとしていることに。

あの反社会的勢力の第一人者が、自分のことが好きだということに、鈴凛は全然ピンとこなかった。巨乳でもない。なぜそんな正気の沙汰とは思えないカップリングを野奈が思いついたのかは、もっとピンとこなかった。

だが野奈の言うことは絶対なのだ。

「鈴凛ちゃん誰とも付き合ったこと、まだ、ないでんしょ?」

山原安花がにやにやして言った。

まだあの映画見てないんでしょくらい軽い感じだ。

高校生にもなれば、彼氏彼女がいる方が、学校では体裁が良い。誰がキスをしたとか、エッチを経験したとか、そんなことが学校では最も好まれる話のネタだった。

「経験しとくタイミング失っちゃうよ?」

三人は面白そうに目くばせしあっている。

なんてことだ。いつの間にか退路がない。

鈴凛は焦った。

経験済みでないとダサいということか。このグループにいたい。

でも……それだけは……

いや、野奈も如月周馬のために、大切にとっておいてるはずである。経験していないはずである。

それはおかしい。

では柊木勇吾が、ただ手頃な性欲の吐口を探しているのか?

でもあいつに何もかも権力は集中しているし、顔もそこまで悪くなさそうだから彼女に困ってはいなさそうである。

頭がぐるぐるとした。

わからない!なんてことだ……どうやったら逃げられる?

そっと顔をあげる。

その時、鈴凛は作られたような野奈の笑顔を見た。

原因を究明しても無駄だと悟る。

「!」

ただ自分にどれだけ服従しているのか、確かめたいのだ。鈴凛は直感でそう思った。

「そう……かもね……」

それから、夏と秋にかけて、同じような会話が何回か続いた。

のらりくらりと逃げた。

このグループでの居場所を保つためには、もしかしたら、いつかは柊木勇吾とそうしなければならないのかもしれないとぼんやり思った。

でもそんなのは嫌だ……だって自分には大好きな人が……

のらりくらりそれをかわしていた頃、事件は起こった。

まさに雰囲気が九合目まで悪くなっている地合のその時に。

それは秋の体育祭も終わりにさしかかった頃だった。

鈴璃や野奈たちはD組でかたまって、トラックの中央あたりで最後のリレーが始まるのを待っていた。もうその頃には鈴璃は野奈たちのノリについていけず、もうギクシャクしていた頃だった。

ちょうど野奈と鈴璃は並んでスタートラインの横の人溜まりの中にいた。野奈はたぶん如月周馬を探して体育館のほうを見ていた。如月周馬がG組の第一走者だったからだ。

「ねえ、鈴凛ちゃん中途半端な態度だと、そろそろ勇吾がかわいそうなんだけど?」

山原泰花はいきなり直球を投げてきた。

「え……」

野奈が微笑を湛えていた。

確かなことは、野奈が「二人に今そうしてほしくて、絶対にその選択肢以外無い」と鈴璃に通告していることだけだった。

「いいでしょ?だって他に好きな人、いないんでしょ?」

「それは……」

「とりあえず付き合ってみれば。すごく好きになるかもしれないし」

「えっと」

「鈴凛ちゃんオクテだし、一生処女で終わっちゃうよ?」

一生処女で終わる。それはなんとなく惨めなことなのだろうと思った。だが、だとしても初めてを柊勇吾に捧げる気には到底なれなかった。そんなの、死んだほうがマシである。

窓の手垢だとしても。

いったいどうやって返事をしよう。そんな答えに窮した時だった。

途方に暮れていると、白い手が目に入る。

「ねえ」

「?」

「それちょうだい」

聞きなれないかすれた声がすぐ後ろからすると、鈴璃の手にあった洋梨微サイダーが消えた。

鈴璃の目と、見たこともない妖艶な目が信じられないくらい近い距離で合う。左目の下に誰かが筆で仕上げたような綺麗な泣きぼくろが見えた。

息が止まった。

「ね?」

「あ……」

その瞬間時間が細分割されたようだった。

すべてがゆっくり見えた。

ガラス細工のような瞳が瞬いて、わずかに緩む。白い滑らかな肌が通り過ぎる。なんの躊躇もなく、鈴璃が加えていたストローを、綺麗な薄い唇がくわえた。

鈴璃が少し噛んでしまって凹んだそのストローを、手垢である鈴凛のストローを何のためらいもなく。

「!」

周囲の人間の時が止まった瞬間だった。

「うまい」

如月周馬はぽんっと鈴璃にサイダーを返すと、スタートラインに何食わぬ顔で行ってしまった。

すぎ去り際、涼しくて甘い良い匂いがした。

人生で一番、体中の細胞がキラキラとざわめいた瞬間だった。

「……!」

全員が唖然としていた。ありえないことが起こってしまった。

学校一の美男子が、野奈のおまけ腰巾着と間接キスをしてしまった。

しかも来田野奈の目の前で。

これが「洋梨微サイダー・間接キス事件」だ。

たかだか間接キス。だがそれでも大問題だった。

少したってさわさわと生徒たちから声がした。

−え?まさか如月君が?

−えー、野奈ちゃんじゃないんだ

−まさかあの二人付き合ってないよね?

そんなわけはないと頭では判っていても、鈴璃は顔がにやけてしまった。

「鈴璃ちゃん」

はっとした。

気が付いた時には、野奈の強張った真顔があった。

鈴璃はその顔がどんなに恐ろしい意味を持っているか知っていた。

野奈はただこう言った。

「如月君と話したこと、あったんだね」

「まままさか。ないよ」

もうその洋梨サイダーをどうしていいか鈴璃にはわからなかった。頭が混乱する。これはまずい。それだけは判った。まずい。野奈は如月周馬と付き合いたいと思っている。そんなことはグループ内では常識で、生徒の常識で、世界の常識で……鈴凛も百も承知だったのに。

格下も格下の手垢の鈴璃が、間接キスしていいわけがない。話しかけられてもいけない。目を合わせてもいけない。

ジュースをとられるのも、間接キスをされるのも野奈でなければならない。

しかも今、柊勇吾とのありがたい話を断ったばかりである。

だから鈴璃は慌ててこう言った。

「あの、野奈ちゃん……、如月君、野奈ちゃんに、全然、気がついてなかったんだよ!だからジュース……」

鈴凛は必死に弁解しようとした。だが、これが逆にとんでもない間違いだった。

野奈が固まった。

「わたしのことは、目にも入らなかったってこと?」

野奈と口をきいたのはそれが最後だった。体育祭の次の日からグループの誰一人として口を聞かなくなった。

柊勇吾が音頭をとっていじめが始まった。

鈴璃は野奈のプライドを公の場で、顔面陥没級に傷つけたらしかった。

あの日から全てが変わってしまった。


野奈たちは鈴凛の一番の友達から、一番の敵になった。

鈴凛は手垢からドブ鼠に降格した。



コートのはしで如月周馬が綺麗な笑顔を野奈に向けている。

野奈は華奢な背をこちらに向けていた。

如月周馬は何も知らないのだ。

「……」

鈴凛はいまだに何度も思った。ここまでされるほど、自分は酷いことを野奈にしたのだろうか? 柊勇吾は、クラスのみんなは何の権利があって、何の関係があって、こんなひどい仕打ちを毎日自分にできるんだろうか?見てみぬふりができるんだろうか。

鈴凛は屋外コートの真ん中で、野奈と楽しそうに話す如月周馬を睨む。

あんな事件、如月周馬は覚えてもいないのに。

「お願いだから、野奈とは……つきあわないで」

聞こえない声で小さくつぶやく。いや誰のものにもならないで。

鈴凛はいつも無意識に目で追ってそう願った。

「如月周馬」

その名前を唱えるだけで胸がきゅっとした。

鈴凛には小さな妄想の願いがあった。

いつか如月周馬がこの学校から手を引いて自分を連れ去ってくれる。

如月周馬が教室の後ろのドアをバンと開けて、柊木勇吾をぶん殴って、鈴凛の手を引いて教室から連れ出してくれる−−そんな妄想だけが鈴凛の生きていくかすかな楽しみだった。

「そんなことあるわけないけど……」

鈴凛は自分のことをたまにキモいと思った。あの事件さえなければこうなっていなかったかもしれない。まだあの三人と友達でいられたかもしれない。如月周馬が気まぐれであんなことをしなければこうなっていなかったかもしれない。それなのにまだしつこく追いかけている。

「あの日が無ければ……」

彼にとって鈴凛は視界にも入らない存在だということは分かりきっている。

体育祭のことなんてもちろん如月周馬は覚えていない。

だからこうして見ていてもいい。窓の手垢のような存在で、虫以下の存在価値だから。どんなにそれがキモくても。

「鈴凛!」

腕時計を見ると、昨日と1分も違わない。階段の下から未来妃が大声で馴れ馴れしく鈴凛をよんだ。


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