27話 モンマルトル
正直なところ、熊野が追って来れるはずがないことはわかりきっていた。
動揺で顔を見られまいと飛び出したが、
しょせんは人間の四十代の一般男性。熊野は男子バスケットボール部の頃だってそこまで体力がある方ではなかった。
鈴凛は街を軽く人々をすりぬけながら走った。
−−待てよ
予想通り熊野の声がよわよわしく遠くなっていく。
鈴凛はパリの街を行き交う人をするするとかわし、車の間をぬって、軽く走り続ける。
「……」
ひとつめの角をまがったところで、すぐに追ってくる気配が消えた。
熊野が痩せたとはいえ、熊野をまくのは簡単すぎた。
「ごめんね」
鈴凛はため息をついて毛利就一郎に電話をかけようとポケットに手をつっこむ。するとむこうからかかってきた。
−−今、どこにいるんです?
その声は意外にも落ち着いていた。緊急性を帯びていない。
「……」
鈴凛は最終決戦が、ムーリスで勃発することは無かったのだろうと思った。
「熊野くんとはちあわせて逃げてる……というかまいた」
鈴凛は完了系で言い直した。
−−熊野くん? ああ、作品が有名になって、今、オペラ・ガルニエで個展してたんですっけ?
「信じられないかもだけど……」
鈴凛が全てを話そうとすると毛利就一郎がまた先に話を被せてきた。
−−それより、アラン・デュカスであなた何かしでかしました? ソルア様は一体壊れているし、シェフもソムリエもバトラーもみんなぶっ倒れてましたし」
「だからそれ…… 熊野くんがあそこでリガードリングと……食事してたの」
−−……は?
毛利就一郎は理解できずしばらく静かになった後、そう言った。
「信じられないと思うけど本当だよ」
−−え、いや、じゃあ宇多の熊野健吾も陰族だったのですか? でも……いやいや、まさか
「いやたぶんそうじゃないと思うけど—たまたまリガードリングの一人がKUMANO
を気に入っていて」
鈴凛は歩きながら説明した。
−−……信じられません となるとリガードリングのエメラルドはシアカデル・ミカエリスということですか
「何も起こらなかったところを見ると、リガードリングはあっさり姿をくらましたんだね」
さすが最強というべきか、彼らは何の痕跡も残さずに消えたらしかった。
鈴凛が考えていると、毛利就一郎が信じられないことを言った。
−−それ夢じゃないですか?
「は?!夢なわけないじゃん」
鈴凛は声が裏返る。
−−……いやいや、最近、かなり明を増やしてますし
「違う!」
鈴凛は叫んだ。
「だいたい、いつも明の注射をよく考えもせず安易にしてくるのは、あなたでしょ!!」
−−いやでも屋上に我々がいて、階下にリガードリングなんて、しかも田心姫様や素戔嗚様が気配に気が付かないなんて
毛利就一郎は鈴凛の感情を無視してそう答えた。
「それは……たぶんソルアの力のせい……」
鈴凛は何を言ってもだめなこと思い出して疲れてくる。
−−ソルア様が?
気配を完全に殺すの範囲には彼らも含んでいたのだろう。
鈴凛に恐ろしい決断をさせるために。
「とにかく……嘘でもないし、夢でもないし、薬物の幻覚でもない。市杵島姫の顔もアメジストの顔も見たから」
−−今どこです?
「あー……」
−−はやく明を摂取したほうがよさそうです
「んもう!!」
鈴凛は通話を切った。
「……はあ……」
戻りたくない。体を動かしてないとどうにかなりそうだ。
どうせ戻っても慌ててまた明を追加させられるだけだ。
それにリガードリングがもういないのなら、焦って戻ってもやることはない。
ソルアはまったく心配する必要はないだろうし……
「……?」
鈴凛が考えながら早足で歩いていると、気がつけば、観光客の群れに紛れていた。
楽しそうにさまざま人種の外国人が上を見上げている。
「……?」
美しい初夏の緑の芝の丘にたたずむ白亜の教会−−サクレ・クール寺院が見えた。
「ここ……モンマルトルか……随分離れちゃったんだな」
熊野ひとりをまくのにいったいどれだけ遠くまできたんだと自嘲する。
「はあ……でも帰りたくないしちょうどいいか……」
帰りたくもないし、階段をめきめき登る気分でもなく、鈴凛はちょうどきたケーブルカーに吸い込まれるように乗った。
「ついでにムーラン・ルージュでもみて……時間を潰そうかな。シテ島のジェラートが美味しいってカーターが言ってたような」
鈴凛は観光客に混じって立ったままケーブルカーの窓にのさばると、大きな窓ガラスから丘の上を見た。
「!」
ドアが閉まろうとした時、ばっと扉を掴んで入ってきた人物たちが見えた。
「く……」
細身の四十代の男性とアジア人の小柄なワンピースを着た女性。
「もう逃さねえぞ」
「熊野くん」
鈴凛は驚いた。絶対にまけたと思っていたのに—いったいどうやって
「本当に生きてたのね」
ワンピースの女性が冷たい声で言った。
「?!」
「四十代夫婦、なめんなよ」
そうだ、熊野は結婚していた。ムーリスの外に妻を待たせた車かバイクがあったのか−−
KUMANOのアクセサリーをたくさんつけたおしゃれなアジア人の女性は小柄な体でじりじりと迫ってきた――
その顔をみて鈴凛はもっと驚いた。
「野奈−−」
鈴凛の口から信じられない言葉が溢れた。
*
正直なところ、熊野をなめていた。
「……えっと」
なめきっていた。
肌がすこし歳をとって乾いた野奈が鈴凛を見て今度はとても驚いている。
「鈴凛ちゃん、あの頃のままじゃない……どうなってるの」
「え? そうか……? かなり髪は切ったような気が……」
熊野は年齢の違和感に全く気がついていなかったらしい。
「いやそこじゃないでしょ! どう見ても老けてないのがおかしいでしょ!」
四十代夫婦は夫婦漫才を繰り広げている。
「……」
正直なところ、熊野が追いつけるとも思っていなかったし、熊野があの学園のアイドルだった野奈のハートを射止めるとも思っていなかった。
確かに学校を留年と退学したつながりはあったが……野奈は面食いだ。自分と同じ、あの圧倒的な美しさを持つ如月周馬が大好きだった。
熊野と結婚するなんて。
しかもこんなに仲良く夫婦共闘で、二十年後、自分をこのパリで捕まえることになるとは。
「鈴凛ちゃん」
「ホ、ホワッツ?」
鈴凛はすっとぼけて言語が違うようにみせてみた。
「……」
ケーブルカーは密室状態だ。破壊して出て行っては余計に騒ぎが大きくなる。
「いや源だろ」
だめだ。やはりあとでこの二人に玉手匣するしかない……鈴凛は脳裏にそう考えつつも逃げる算段を考える。
「!!」
野奈が手首を掴んで何かを凝視している。それは棘姫からもらったKUMANOの青いガラスを埋め込んだバングルだった。
「この石、周馬くんのプレゼントじゃない」
「……俺が作ったやつか」
熊野は意外そうに言った。
「あの時のグラスポニーのガラスかと思ったのに」
「……!」
鈴凛は胸に一気に動揺が広がったのを感じる。
「その顔だと、今は周馬君と一緒じゃないのね?」
野奈が歳をとってもどこか可愛らしい顔を歪めた。
「二人とも……わたしに話しかけないで。忘れて。今ならまだ間に合う。何も見なかったことにしてケーブルカーを降りてそしたら」
「何言ってんの? 一緒にお茶でもしようよ、わたしたち友達でしょ?聞きたいことがたくさんあるの」
昔の可愛らしい顔になって野奈が邪悪に笑って手をとった。
「え……」
「ちょ……」
野奈が鈴凛をひっぱって大股で歩いて行く。
通りで画家たちがキャンバスを広げていた。
「モンマルトルはお気に入りの店があるの」
「……」
前は鈴凛が心の病んだ野奈の手を引いていたのを思い出して不思議な気持ちになる。
野奈はひとつの店をみつけると、店先にだされたアイアンのテーブルと椅子について、鈴凛も座らせた。
手を繋いでいるのをウエイターがみて、不思議そうな顔をしたので野奈がようやく手を離す。
「コーヒー三つね」
「……」
「さあ全て話してもらうわ」
「まずあなたたちが何なのか、あの学校での火災はどういうことなのか、今周馬くんはどこにいるのか−−」
「今、二人は幸せでしょ?」
鈴凛は遮ってそう言った。
二人のお金をいかにも持ってそうな身なりを見る。
「は?」
「熊野くんの活躍みたよ。結婚してて、子どももいて。仲が良くて。熊野君は世界の熊野だし、野奈もすごい幸せでしょ?すごい大成功じゃない」
「……」
野奈が目を細める。
「詳しいことは言えないけど、わたしは悲惨な状態なの。話しかけたらそれに巻き込んでしまう。そのかけがえのない幸せを壊したくないし」
「鈴凛ちゃん。わたしから大好きだった周馬君をとっておいて、よくそんなことが言えるよね」
野奈が急に学生時代の頃のような表情に見えた。
「相変わらず人を無意識に怒らせる」
野奈はくりっとした目元で鈴凛をじとっとみる。
「ご……ごめん……」
鈴凛も昔のような気分になってついそう言ってしまった。
「いや周馬が大好きとか、俺にも配慮しろ」
「過去形で言ったでしょ、大好きだった、よ、大好きだった。今はあんたのことが世界一大好きなんだからいいでしょ」
「お……おう……」
熊野が照れている。
思わず鈴凛は眉間に皺がよった。
二人の仲がよすぎて、鈴凛はほっこりするやら、自分と比べて非常に悲しいやらわけのわからない気持ちになる。
「……とにかくわたしにかまわないで。熊野君、あの食事をした妙な連中のことも忘れて、もう関わらないほうがいい。二人とも全部忘れて。ここでこのコーヒーを飲んだことも」
そこまで言いながら、野奈のこの身のの乗り出しようは、やはり玉手匣しかなさそうだと脳裏に浮かんでいた。
「でも、ここでおまえと俺が再会したのは、たぶん運命だろ」
熊野がひょうひょうと、なんだか深そうなことを言ってきて鈴凛はびくりとする。
「……」
「黒井さんも夏川さんも生きているの?」
鈴凛は黙って首を横に振った。
「……」
「鈴凛ちゃんたちは何なの? あの学校の火災で何があったの?」
鈴凛は目をぎゅっと閉じた。あの日のことは思い出したくもない。
「あの街のこともあの街んお人たちも、どうでもよくて鈴凛ちゃんはすっかり忘れちゃったってわけ?」
「……」
「三枝との約束も果たした。こんなこと鈴凛ちゃんに伝えてもしかたないけど、なんかずっと言いたかった」
「……!」
「わたしもけっこうスタイリストとして頑張ってるのよ、自分で化粧品も作った。いまやハリウッド大女優であなたの妹の性格極悪のミサキのメイクにもはいることもある」
「へえ……」
野奈は知りたくもない事実を教えてくれた。
正確には母親が違うし、父親も判然としてはいないので本当の妹とは言えない。
お互いに姉妹だなんて思ってもいない。
咲は姉を殺してやったと思ってぬか喜びしてるだろう。
「あの子も周馬くんを探してる」
野奈は鈴凛のリアクションをよく見ようとしていた。
「……!」
「……勇吾は今県知事よ」
「わたしにはもう関係ない」
「おまえたちが何やってるのかは知らん」
熊野が久しぶりに口を開いた。
「!
「周馬もあんなに才能があったのに、バスケの情報に何も流れてこない。あいつもバスケをやってないんだろ」
「……知らない」
「あいつは今どこにいるんだ。おまえは知ってるんだろう」
「知らない」
「俺の大事な大事な友達だ」
熊野の優しい目が思い出に誘おうとしてくる。
「おまえも、周馬も」
でもその友達の友情や愛は全て嘘だった。
「……もうやめたほうがいい」
鈴凛はやっとのことでそう言った。
まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
あの街でわたしは周馬にずっと騙されていた。だから未来妃を奪われてしまった。
熊野と野奈にそう言いたくなくて悲しくなる。
くしゃくしゃにした黄金の羽の感触を思い出す。
あの七色に輝く思い出は、真実じゃなかった。
「あの時は最高だっただろ」
「……」
「今、俺はガラスが作れて最高だ。でもあの時のたわいのない楽しさに叶わない。おまえたちがいなけりゃ今の俺はねえ」
「……」
「おまえたちのおかげなんだよ」
「周馬とおまえは特別で、あのグラスポニーを見た時」
「もうやめて」
やめて。
鈴凛は泣きそうになってしまう。
全部全部、もう失われてしまった。
あの頃の可愛らしい何も知らない源鈴凛も
清々しい透明な美しさを持った青年も
もういない。
男女の真実の愛など存在しない。
二人だってきっと妥協で一緒にいるんでしょ?
「……!」
野奈が鈴凛の意図を読んだように、少しだけ同情した顔をした。
「ねえ鈴凛ちゃん」
「ききたくない」
「おまえらが辛いなら何か力になりたいんだよ俺は。俺にはなんとなくわかる周馬もきっと……苦しんでる」
鈴凛は胸が締め付けられる思いがした。
「違う……あの人は嘘を楽しんでるんだ」
「違う、あいつは−−……」
熊野がそう言った時、ばたりと野奈がテーブルにつっぷした。
熊野は続きを言わないまま、虚空を妙ににやけて見えていた。
「……!!?」
「いやはや、あなたはどうしていつもこうタイミングが悪いのです? いや……タイミングが良すぎるのか?」
ガスマスクをつけた毛利就一郎が現れて、熊野の頭をぽんぽんとなでた。
「……!?」
カフェの人たちも、通りのひとたちも、ぽけーっとした顔になったり、眠りこけている。あたり一体の人が気を失っていた。
「玉手匣」
「気配に全然気がつかなかったでしょう? マリオさんの新商品です。透明タイプで意識を混濁させ、突然倒れたりしない安全なタイプのガスです。名付けて玉手ガス!」
毛利就一郎は消化器のようなものを構えてびしっとポーズを決めていた。
「……」
「こんなところで熊野くんと来田さんと真面目に話なんかしてどうするつもりです?」
鈴凛は口を魚みたいに開いただけで言葉がでてこなかった。
「それは……」
鈴凛にも何がしたいのかわらなかった。
二人に何も話さないほうがいいに決まっている。
「……」
ただ自分があの頃のことを話していたかっただけかもしれない。
熊野夫妻がテーブルの上で仲良くすやすやと眠っていた。おそろいの結婚指輪が左手のくすり指に収まっていた。
「……」
鈴凛はローガンとベスのことを思い出して嫌な気分になる。
「だ……」
寝ぼけながらも熊野が野奈のシワと血管がういた手をたぐりよせて握った。
「大丈夫だあ……俺がいる……」
熊野は寝ぼけながらもそう言った。
「!」
「やれやれ……寝ぼけてますよ」