18話 ボドリアン図書館
「なにやってるんだろう……」
授業が終わって、それぞれが聞き込みをすることになった。
こんなことに全く意味はない気がしてくる。
芝生の横の木陰のベンチに座って楽しそうな学生たちを眺めた。
時間だけが過ぎていく。
イギリスを離れてすぐにでもフランスに行くべきではないか。
「……」
鈴凛は久しぶりに手首の腐ったあざをみた。
そのあざが時間が刻々と過ぎていることを教えてくれるが、二十年経っても鈴凛を殺してはくれなかった。
「未来妃」
薬物の出所と陰族と何か繋がりがあると決まったわけでもないし、またそれが未来妃につながる情報である確証もなかった。
もしこの手がかりを失ってしまったら?
「もし」
未来妃がもう死んでいたら?
鈴凛は授業中に見たあの夢が気になっていた。
未来妃が生きている確証なんてない。
八岐大蛇にとって未来妃の血が唯一の快楽であったとしても、何かが間違って未来妃が殺されていてもおかしくない。
だとしたら自分は何をやっているのだろう。
鈴凛は明の錠剤をポケットから取り出して、五錠ほど飲み込んだ。
「みつかるわけない……」
鈴凛はまた絞り出したような声がでた。
小さな波打った金髪頭が気配なく間合いをつめてそばにふと座った。
鈴凛はため息をついた。
「ねえソルア……未来妃は」
「!」
振り返るとそれはソルアではなかった。
ツインテールのギフテッドお嬢だった。
鈴凛はびっくりして、少しだけ飛び跳ねてしまった。
名前はヴァレンタインと呼ばれていただろうか。
「みていられないわね」
呆れたような音を含んで少女が言った。
「え?」
「脳みそお花畑なの?」
自分からそばに座ったにもかかわらず、可愛らしい顔がこちらをうっとうしそうに見ている。
「え……あなた……」
たしかに彼女からみれば鈴凛は果てしない馬鹿だろう。
飛び級するギフテッドは海外にはたまに存在するという。
この子は賢過ぎる脳みそで、鈴凛たちがオックスフォードに全くふさわしくないことに気がついてしまったのだろうか。
「あの……」
もしかしたら、本当はこのキャンパスの人物でないことがばれたのだろうかと鈴凛は焦った。
「どうやったらそんなに馬鹿でいられるの?」
「え……えっと……」
「馬鹿なら馬鹿らしく先人を重んじなさいよ」
「せ……先人?……あなた」
それは彼女のことだろうか?と思った。
「ほんと救いようの無い馬鹿ね」
「!」
「馬鹿にこんなこと話すわたしまで馬鹿になりそうだわ」
「……」
鈴凛はこのような短時間に何度も馬鹿だと言われたことが無かった。
「わたしじゃなくて、先人たちのことよ」
「先人?」
「先人はたくさん文字を書き記し、同じように困らないように残してくれているのよ?バカのくせにどうして自分から知ろうとしないの?」
「これでもわからないの……やっぱりどうしようもない馬鹿ね」
「本よ」
「本?」
「行き詰まった時には、本を頼りなさい?」
少女はなぜそうしないのかといったふうに大人っぽい顔をして、可愛らしい声でえらそうにそう言った。
鈴凛はなんだ、と思い、少女が可愛らしく思えてくる。
あたりまえだ。一般の人間は陰族と陽族の戦いなど知らない。
鈴凛の直面している問題が、図書館だの本屋だのにある本に書いてあるわけがないこともわかるはずがない。
「そうだね……」
彼女は鈴凛が勉強か言語の壁に行き詰まっていると思ったのだろう。
「今、わたしのこと今馬鹿にしたわね?」
人のことを散々馬鹿馬鹿と言っていたくせに、少女は猛烈にこちらを睨んでいた。
「……いやそういうわけじゃ」
「馬鹿だけど、あなたもかわいそうだと思ったから、言ってあげてるのよ」
「……も……?」
鈴凛はその言い回しを考える。も、というのは、自分もという意味だろうか?
「じゃ、わたしは忙しいから」
少女はぱたんと本を閉じると行ってしまった。
「え……ちょっと……」
「本……図書館か……」
オックスフォードの図書館は一見する価値があるとカーターゴールドスミスが言っていたことを思い出す。
図書館は哀の担当になっていたはずだが−−。
「いってみようかな」
図書館は趣のある白い壁に黒い本棚が並んでいた。どこか薄暗い。
受付らしきカウンターを発見する。
白人の男性がにっこりとしていた。
とはいえ、忌になる薬物に関する資料があるわけでもないし、未来妃の資料があるわけでもない。
「本……資料……」
何の本を見ようか。
鈴凛は考えあぐねて、ふと思いついたことを言ってみた。
「あの……サーカスの、実在したサーカス団の資料はありますか……? フーシャサーカスっていう名前なんですけど」
「ああ、シルクドノエルの前身のサーカスの」
「え?そうなんですか?」
すぐさま返答が返ってきて面食らう。
「今日まったく同じことききにきた人いたから」
「……?」
鈴凛はその言葉に違和感を感じる。
「その人って……」
「一冊は貸し出されているけど、もう一冊はかえってきたから……」
司書は自分の作業に没頭していた。
シルクドノエルといえば世界中で公演を続けている団体だ。ラスベガスで鈴凛はそのショーを見たことがあった。
「ロンドン公演の時のやつの写真集」
司書が持ってきたのは古い写真集だった。
「あちらでどうぞ」
司書が手をむけた。
長い机が続いている。資料を見る部屋のようだった。
「ありがとうございます」
鈴凛はその写真集を机にもっていって、古びた椅子に座った。誰もが暗い部屋で何かを考えるように資料をみていた。
「……」
そばにあった緑の笠のランプの角度をかえる。
象や、火の輪、ピエロ、大きなテント。色褪せてはいるが、華やかなサーカスの写真が並んでいる。
「……これ?三十年前くらいか……」
鈴凛はページをめくっていてすぐに気になるものを発見した。
「!」
筋肉りゅうりゅうのおかっぱ黒髪女が目をカッと見開いて仁王立ちして客席にたっており、空中ブランコをみつめている。何かを感じ取ったのか、満員なのに、両枠の席は避けるように空いていた。
「佳鹿−−」
若かりし頃の佳鹿だった。
「これ……」
笑ってはいけないが、笑いが少しだけこぼれる。
まだ若いが、昔の方がより妙な感じが色濃くでていた。
「死んでも……笑わせくるなんて」
鈴凛は佳鹿の写真の頬にふれる。
懐かしくて愛しくて、あの分厚いたよりがいのある胸を思い出して、目頭が震えてくる。
「望姫の花将としてイギリスにいた時か−−」
「あ……」
空中ブランコの大きな写真が何枚も並んでいる。茶色の髪のジゼルが美しい妖精のような衣装に身をつつまれて飛んでいる。望姫、つまりジゼルが花形だったことを物語っていた。
「綺麗な人……」
次のページにいって驚いた。
「!」
手をのばし、ジゼルを受け止めようとしている金色の羽の生えた少年。その顔は見えない。
でも誰だかすぐにわかった。
胸が締め付けられる。
「周馬」
いろんなことが渦巻いた。
表情は映っていない。
どんな顔でジゼルをみていた?
このサーカスでどんなことを話して、どんな時間を過ごしたのだろう。
いろいろな感情と考えが押し寄せる。
「……バカみたい……何考えて……」
未来妃のことなどすっかり忘れて、それは明らかに嫉妬だった。
鈴凛は自分が嫌になって震えた。
佳鹿を殺されたことで、未来妃を連れて行かれて怒るべきななのに。
自分は何を考えているのだろう。
「……」
それでも何度も考えずにはいられなかった。
この時、あの人は、望姫にどうやって笑いかけたんだろう。
何をして過ごしたんだろう。
どうやって手を繋いで—心を繋いで−−
このイギリスで−−
くったくのないジゼルの笑顔が鈴凛の胸を痛める。
自分もこんなふうに笑っていたんだろう。
何も知らずに−−
写真をもっとよく見ようとしたとした時、後ろで気配がした。
「……ねえ、何してんの」
その声に凍りつく。
「!!」
鈴凛は振り返った。
後ろ髪に何かふれた気がした。
知った甘い声、かすかなすがすがしい匂い。
心臓が止まりそうになる。
「……」
誰もいない。
「ど」
気のせい、なはずはない。
「……!」
哀にあわてて電話をかける。
「今—周馬が……」
気のせいかもしれない、自分が周馬を求めすぎて何か妄想でも見たのかもしれない。
鈴凛は突然に地震がなくなってくる。
見たわけじゃない。
声がしたほうに身をよじろうとした時、その反対側でちらりと動くものが目に入った。
「……」
黒髪の影がさっと本棚に入っていくのが見えた。
静寂が鈴凛に囁きかける。
「……!!」
艶やかな黒髪は東洋人のものにみえた。
一瞬の迷いが生じる。
そして声をかけたのがあれに気がつかせないためではなかったか?という気がした。
「未来妃−−」
暗い図書館を走り出すと図書館の人々が驚いてこちらを見る。
「!!?」
その女が逃げていく。
鈴凛はとっさにむかいから歩いてきた人たちを突き飛ばして追いかけた。
「待って!!」
鈴凛は叫んだ。
長いテーブルの上に乗り上げて、上を走った。
「待って!」
彼女が走り出す。
「待て!!」
鈴凛は全速力で走った。
ここで逃したらもう次はないかもしれない。
絶対に見逃しては、だめだ。