17話 オックスフォード大学
ほほに真紅でとろりとした液体がたらりと流れてくる。
床にぺったりと頭をつけたまま、必死にななめ上を見上げていた。
「もう遅い」
「!」
拘式に首元を咥えられた未来妃だった。首は不自然に折れ曲がり、目は見開かれ、そのうつろな白目は命がもはや無いことを意味していた。
ごめんなさい ごめんなさい
そう思っても声が出ない。
わたしは 間に合わなかった
未来妃は完全に血を吸われて、白い肌がどんどんくすんだ色になり、皺皺とどんどんひからびた遺骸のように醜くなっていく。
やめて やめて やめて
もうやめて!!
心の中でそう叫んだ時、
「え……?」
口の中が鉄のような生臭い味になった。
見上げると、未来妃の首を加えている拘式の頭が、自分に変わっている。
「なん……」
血を啜りながら笑っているいるのは、鈴凛だった。
「ひ……」
「いやーーーーー!!」
講堂に叫び声が響き渡る。
授業中の生徒たちが鈴凛の叫びをきいてぎょっとしてこちらを見た。
鈴凛は思わず立ち上がって目を覚したのだった。
「……!」
「大丈夫かい?」
ブラウン教授が苦笑いでこちらを見た。
茶色の優しい目とぶしょうひげが少しだけローガンに似ている。
「すみません……」
前列の少女が一際睨んでいる。
−−あー……ヴァレンタインくん、続きを
−−はい教授
小さな少女がすらすらと英語で何かを説明している。
何度かみかえた金髪の髪の美しい少女だった。
氷のように美しい澄んだブルーの目が鈴凛を一瞥する。
「……」
鈴凛はじっとりと汗をぬぐい席についた。
オックスフォードの学生たちは一瞬鈴凛をみたが、すぐに好奇の目を少女に戻した。
金色のツインテールがよく手入れされた馬のようにしゅるりと伸びている。
背筋がぴんとしていつも自信に溢れた表情だった。
「ギフテッドお嬢におこられてやんの」
哀が横でくすくす笑う。
哀は机の上にあしをあげており、非常に態度が悪い。
また目立つ妙なブーツを履いていた。
「あいつ浮きまくってるよな……うちの狗々莉といい、ガキらしくないのはどうもいただけねえ」
すらすらと答弁のように語り続ける少女を哀がしらけた目で眺めている。
「おれたちのほうが、たぶん浮いてますけどね」
シャオランが悪びれる様子もなくにやにやして言った。
「ひとりはどうどうと足を机の上に置き、もうひとりはずっとリップを塗り替えてる。もうひとりはヘッドホンして、夢中でパソコン」
シャオランが自分を指差した。
「最後のひとりは〜このくそ暑いのに革ジャンをきて爆睡し、うなされて授業中に飛び起きる」
シャオランが鈴凛を指差した。
「ごめん……」
鈴凛はうまく睡眠周期をコントロールできなくなっており、たまにやってくる猛烈な睡魔に逆らえなかった。
「もっと真面目にやらなきゃ、そろそろやばいっすよね……」
頬杖をついてシャオランが言った。
「雨狼様に怒られますよ」
間狸衣が呆れた目でこちらを見る。
「いや、それよりソルア様に殺されるんじゃない?」
ベスがはははと笑った。
−−であるからして、シュメール文明は……
学生に扮して参加した鈴凛たちをローワン教授がちらりと見た。
ブラウン教授はどの教授よりもゆるい。
古代史は出席していますよ感を出すにはもってこいの授業だった。
「今更授業とかだりいんだよ……何言ってるかぜっんぜんわかんねえし。てゆうか本当に授業を受ける必要はあるのか?」
ここは天才たちの集まる場所だ。
普通の学校ですら四苦八苦していた鈴凛たちには、小難しい外国語での授業はさっぱりわからない。
「こんなにオックスフォード大学の中をうろうろしているのに、授業に全く参加しないのは不自然です」
「聞き込みしてもぜーんぜん、誰からも情報えられないし、意味ないんじゃないの?」
「でも他に手がかりないし……」
「俺たち、あいつらにけむたがられてますよね? あいつらがまともに俺たちと会話しねえの、東洋人だからじゃないすか? 人種差別だ」
シャオランが白人たちを流し見て悪態をついた。
「学問を馬鹿にしている態度があからさまだからでは……」
間狸衣が呆れて言った。
「やっぱり棘姫様を説得するべきでした」
「しかたないよ……」
鈴凛は棘姫の正体がマリーアントワネットだと知り、その人物像や出来事をネットでひとおとり調べた。その人生はまさに貴族時代の贅沢をつくした極めつけの華やかさと、革命でギロチンで首を切られるという波乱万丈な人生だった。
「あいつが人間だった時不幸だったとか知るかよ。もう何百年も前のことだろ。それに自分が贅沢してたからだろ?」
鈴凛は気になっていたことがあった。
「……子どもが死んだことはきっと何百年たっても忘れない。子どもに罪はないよ」
鈴凛はマリーアントワネットの子どもたちの最後を読んだ時、彼女が隠している悲しみを知った気がした。
「……!」
鈴凛はジャックがいなくなると思うと考えたくもなかった。
自分で産んだ四人の子どもの死を見たら?
何もできず自分だけが生き延びてしまったら?
その最後を棘姫はどうやって受け止めたのだろう。
「……」
戦姫になりたくてなったわけではない。
それは優雅なティーパーティーを楽しみながら、生きたくて生きているわけではないといった風に聞こえた。
誰もが苦しみを抱えたまま生きている。
「マリーアントワネットがあの貴族時代を作ったわけじゃないよね。自分も子どもも、寵臣たちも……みんな革命の激動の時代に巻き込まれて、きっとなすすべは……なかったんじゃないかな……」
鈴凛は自分だって、あの時代にいれば、その時代のやり方や立場に流されただろうなと思った。
「しかしよお、首をギロチンで切られたのに生きてるってどういうことだ?」
「あの四肢を分割できる能力で生き残ったのでしょう? その時に才能が確認されたってききましたよ」
「死んで生き返ったとも考えられるよね?」
ベスがそう言うと、間狸衣は少しだけぴくりとした。
哀が閃いた顔をして鈴凛を見た。
「おまえが特殊な例ってわけじゃないんじゃねえのか……?そういえばあたしも自分の炎で燃えて、そこから二人とも戻ってこれたが、あれも本当は一回死んでたんじゃ……」
哀がはっとしたような顔をした。
「だとしたら本当はもうみんな死んでて、あたしら全員ゾンビガールが」
哀が呆然として言った。
「……嫌じゃ無いの?」
鈴凛は哀に聞いた。
「今更どうでもいい」
「戦姫ってどうやっていつ戦姫になったかとか、そのへんの詳しいことお互い知らないのね。そういうことも話し合えばわかりそうなもんだけど。血の姉妹とか言ってるけど本当は全然仲良くないんでしょ?」
ベスがクスクス笑う。
「まあな」
「そのへんは高天原がちゃんと説明するべきじゃないんすか?」
シャオランがだるそうに言った。
「高天原では戦姫様がたが、人間だった頃、何者だったかなどいうことは重要ではないからです」
間狸衣が首を横に振る。
「はあ?誰が誰かは、重要でしょ?」
ベスはしらけた顔をした。
「棘姫様がマリーアントワネットだとしてもその期間は37年です。高天原ではもはや人間の時何者だったかなんて問われません。棘姫様はあくまで、神の血を受けた棘姫様なのです」
「……」
鈴凛はそれを聞いて何かが逆撫でされる気がした。
自分ももう源鈴凛ではないのだろうか。二十年が過ぎてあの時と少女と違うのだろうか。
「そうなのかな……」
何百年たっても棘姫にとってフランスがトラウマなように。
鈴凛にとってあの街での出来事は心の一番深いところに勝手に聖堂のようになって立っている。それは自分ではどうしようもできないし、あの頃弱かった自分を振り切りたい気持ちと、あの頃を失ってしまったらもはや自分では無い気もする。
「あの人も、ティーパーティーばっかして本当は気を紛らわせてるのかもね」
ベスが呆れて言った。
「……」
子どもが不幸になったり、その最後をみるなんて辛いに決まっている。
ジャックが死んだら?
鈴凛は考えるのも怖かった。
「!」
私語をしている鈴凛たちをあの少女がふりかえってまた睨んだ。
青い目が綺麗で、顔が整いすぎている。
鈴凛はもう一度睨まれた時、どこかで一度会ったことがあるような気がした。