10話 新幹線
食べすぎたせいかぐっすりと新幹線内で眠ってしまった。
座席と体の感覚が突然蘇る。
「!」
深く眠ったのだろう。口元から涎がたれて時間が一瞬で消えたように感じた。慌ててそれを袖口で拭う。
「ん……」
隣に父がいない。
「お父−−」
足を動かすと、ちゃぷりと音がする。
下をみると足元に色のついた水が広がっている。赤い絵の具を水でとても薄めたような色だ。
「え? 何か、こぼれて−−」
通路も前の座席も新幹線の床が水浸しだった。
「お父さん?」
まどの外が変だ。遠くの方で踏切がずっと鳴り響いている。
妙に照明も暗い。
乗客は少なくなっており、ちらほらと眠っている。
「……?」
トンネルの中なのか窓の外は真っ暗で景色が見えない。
はっとして流れる赤い電光表示をみつめる。
「今はどこ−−」
オセワニナリマス ゴカクニンノホド ワカリマシタ シメキリマデニハ ゴサシュウクダサイ ケイヒシンセイ マニアワナイ マニアワナイ
「なに……?これ……」
−−トウリャンセ トウリャンセ
囁くような、重なるような声がどこかから聞こえる。
トウリャンセ トウリャンセ
不安な声が響き渡る。
音が近くなってくる。
「!」
父親が後ろの扉から入ってきた。
声を張り上げる。
「リリ!前へ逃げるぞ!」
ぐいと腕を引っ張られる。
「え?」
後ろを見ると、後ろの車両で座席と人がけちらされるのが見えた。
「え、何?」
リリは体が硬直した。
電車が急停車するようなキー!という不快な音が響く。
「いくんだ!」
−−にげろ!
鈴凛の脚は何故か硬直していた。
きゃあああああ!
悲鳴とともに後ろの車両から通路に人がなだれ込み、リリたちは座席から出ることができない。
パニックが押し寄せた。
ぎゅうぎゅうに押し合いながら客たちは反対側へ逃げようとする。
「え……なにこれ」
そうかと思えば、視界がぐにゃりと歪み、うねうねと再形成されていく。
「なにこれ夢?幻覚?」
壁も扉も座席も次々と形を変えていく。
そして、みなが逃れてきたモノが現れた。
「な……」
鬼だった。皺皺の顔には目がなく鋭い牙が生えている。頭には角の生えた武者のような甲冑を被っている。
背中には壁と一体化した機械仕掛けの輪のようなものがグルグルと渦巻いていた。仏像の後光のようだったが、その光輪は歯車や、電車の車両台車のような構造が雷太鼓のように回転して、うるさく音をたてている。ガシャンガシャンという不穏な音と蒸気のような音をあげながら動いていた。
「え……あ!」
レールや車輪が鬼の光輪から飛び出して飛んでくる、それは幾人かの手や足を切った。血飛沫が飛んでくる。
「ひい!」
「逃げろ!」
鬼は足をすすめる、鬼が進むと壁と一体化した光輪に座席が引きちぎられ飲み込まれていく。
−−足が……!足がうごな!
−−こっちに来るぞ!
−−どけ!
乗客たちがパニックになりながら、鬼の車輪とレールに血飛沫をあげて巻き込まれていく。
遅れたものは容赦なく巻き込まれていった。
−−ぎゃああああああ!
新幹線の通路は狭い。混乱した人たちはうまく逃げることができなかった。
座席で逃げ遅れた乗客や飛び出した攻撃で足をやられた乗客が逃げ切れぬまま、次々に巻き込まれていく。
ごきごきと肉と骨が粉砕される音がした。
「ひ……」
鈴凛はあまりの恐怖に硬直していた。
不気味な鬼だった。
「!」
目がないが鬼は獲物が見えている気がした。踏切が背中からにょきっとでてくる。赤いけたたましい光を発しながら、不快な音をたてはじめた。
身体中についた車輪からはあいかわらず蒸気と駆動音が鳴り響いている。
トウリャンセ トウリャンセ
コウリツカシテクダサイ セイサンセイヲアゲテクダサイ
耳鳴りなのか幻聴が聞こえた。
「どうしてまたこんなことになるの」
鈴凛は父ともみくちゃになりながら、となりの車両にうつる。
「もう嫌だ……」
「!」
人々が飲み込まれ、自分たちも無我夢中で後ろに逃げた。
それでもどんどん車輪に轢き潰される。
−−どけ!
−−俺が先だ!
スーツを着た人たちも、綺麗なワンピースの女性も無我夢中で他人を押し退けて我先に後ろに行こうとする。
「痛い! やめてください!」
鈴凛はぎゅうぎゅうに押し退けてくる男の人を突き返す。
一番後ろまで行ったら逃げる場所は無い。
「突き当たりまでいったらどうするの?」
イソガナイト マニアワナイ
線路が蔦のように壁中に生えてくる。
「なんでなんでなんでわたしばっかり」
巻き込まれたら死ぬ。逃げる隙間はどこにもない。
焦りだけが満ちていく。
トウリャンセ……トウリャンセ
ココハドコノ ホソミチジャ……
「!」
テンジンサマノ ホソミチジャ
チョットトオシテクダサンセ
ゴヨウノナイモノトウシャセヌ
イソイデクダサイ マニアワナイ
マニアワナイ マニアワナイ
何十にも響いているような声だった。
この世のものとは思えない鬼が歌っている。
頭の中で生まれてくるように、すぐそばに感じた。
まるで自分の考えと同じようにダイレクトに響いてくる。
心がぐわんぐわんと揺さぶられた。
視界の映像がぐらぐらと蜃気楼のように歪んだ。
「こんなのおかしい」
電車の中で人々が電車に巻き込まれて轢かれている。
「どいてください!!」
「進みが悪くなってる!」
逃げ惑う人たちの動きが悪い。
「来る……」
コノコノナナツノオイワイニ
オフダヲオサメニマイリマス
「来た……」
「あ……あ……」
恐怖で足がすくみ、息ができない。
「走れリリ!」
ゴーという音をたてて、レールがすぐそばに敷かれる。
「危ない!」
飛び出た巨大な車輪が虚空を切り、父の腕が巻き込まれる。
「え?」
「ぐあ!」
父は体を捩ったが、遅かった。
ぎちぎちと右腕飲み込まれていく。
「ああああああ!」
「だめ!お父さん……!」
鈴凛は必死に反対の左腕を掴んで引いた。
腕時計に指をからませて、鈴凛は必死に力をいれる。
「うあああああ!」
父は余計に痛みを感じて叫び声をあげる。
鬼は楽しむように機械の回転を遅くする。
「痛い、痛いよね! でもこのままじゃ、逃げなきゃ」
鈴凛は必死に巻き込もうとする力に争った。
どうしよう。
父の手が無くなっても、あれに巻き込まれたら父の命は終わりだ。
「ふ……ふ……逃げるんだリリ!」
父親は鈴凛から手を振り解くと、リリを思い切り強く押した。
ギチギチと音がして歯車が父の上半身に達しようとしていた。
「だめ!」
「ああ……ああ……」
鬼がぎろりとこちらを見る。
「お父さんを返して!」
肩から血がどんどん流れて通路に血の川をつくる。
「お父さん!お父さん!」
リリはもう泣き叫んでいた。どうしたらいいかわからない。
引っ張ると父は叫び声をあげた。
がしゃんとしてふたたび駆動するパワーが上がり始めるのがわかる。
「ひ」
鈴凛は必死に手を伸ばしたが、自分が巻き込まれる恐怖の方が優って、手を離してしまった。
「あ」
「ふ……ふ……」
父は息を整えた。
「いきなさい……大丈夫だから」
「そんなわけない」
「だめだよお父さん」
「離れろ!」
突き飛ばされる。
「いやだ」
「すまない……れ……い」
「ああ……」
「え」
父の体は一気に巻き込まれていった。
肉片と血が顔に飛び散った。
「……」
ビリビリと鳥肌がたった。
「いやああああああああ!」
そう叫んだと同時に、鈴凛は必死にへたりこんだまま通路で後ずさる。血と水でつるつる滑って下がれない。
「こないで!こないで!」
車輪がフリスビーのように飛ぶ準備をして横に飛び出してきた。
「!」
「う……」
レールが鈴凛の両脇に打ち込まれる。
体をよじってそれを避けた。
イキハヨイヨイ カエリハコワイ
「ああ!」
腹から紫の血がぼたぼたと溢れていた。
避けきれず左の脇腹が裂けている。
「ふ……ふ……」
何かはみ出たものを押し戻して、後ずさる。自分も巻き込まれてこれから粉々にされる。その恐怖だけが支配していた。
コワイナガラモ
トウリャンセ トウリャンセ
「死にたく無い」
やられる−−そう思った瞬間に誰か方飛び出してリリを突き飛ばした。
「……!」
犬の面をつけた男が鬼を押し返していた。
手には大きな盾を持っている。
「あの時の……」
ヘリコプターで見た軍人だった。
「僕は羽犬です!戦姫様に使える八咫烏!」
ダメージを負った所を痛がっているのか、鬼の動きが止まる。
小さな悲鳴が風のように重なって流れていた。
男は鈴凛のそばまで戻ると、妙なお札を取り出して、鈴凛に貼り付ける。文字が光輝いていた。
「忌の声をきかないで、神の力を信じるのです」
「……!」
「あなたは神の戦姫」
その光を見ていると心が落ち着いて声も映像も気にならなくなった。
心が安定してくる。
「抜刀してください」
「これは夢じゃないの?」
「現実に異界が展開されているのです」
「死ねば死にます」
「戦ってください」
「戦う?わたしが?」
鈴凛は信じられない言葉をきいた。
「あれとわたしが?」
「我々人間が鱗を飛ばし、肉を削ぎ、脳を破壊するには時間がかかります。犠牲者が増えます。百姫様の神刀ならあの鱗を貫通し、肉の再生を防ぐことができます!」
「わたしに……そんなことできるわけ……わたしもお腹に」
「もう血は止まっている。傷も塞がりかけています!」
「え……?」
リリが腹を見ると本当に傷口の肉が盛り上がって塞がっていた。
紫の血の中に輝く赤い糸のようなものがみえた。それは出てきたそうに線虫のようなものが動き回っている。
湯気のように空気に触れると立ち上って消えた。
「なにこれ……気持ち悪い!」
「百姫様の体はもう変わっているのです」
「身は羽のように軽く、傷はすぐに塞がり、人知を超えた力、黄泉が使える」
化け物が攻撃をもう一度しかけると、包帯だらけの男が刀でそれを受け止める。
「く」
ボロボロの男は刀で化け物の攻撃を払っていた。
じりじりと追い詰められる。
「誓の指輪を結んでください!」
トウリャンセ トウリャンセ……
恐ろしい車輪の駆動音がどんどん大きくなっていく。
「なんあのあれ……あんなの夢に決まってる……じゃなきゃおかしいよ」
「忌が異界を展開しているのです」
「あれは忌が奪った現実」
「巻き込まれれば、肉を取られます」
「意味わかんない!」
「抜刀してください!」
「……!」
「両手をかざし指輪を重ね、引きかざせば、神刀を抜刀できます!」
「わ」
化け物がもうひとつの触手を伸ばす。その瞬間、銀色の影が光った。
大鎌が飛んできて化け物の首をはねた。
「無駄だ。この女は餌に成り下がっていたようなクソ餌だ」
あの泉にリリを落とそうとした大鎌の烏天狗だった。
「!」
ドドドドドと音がしてものすごい数の銃弾が打ち込まれる。
「羽犬、まだ式の日取りも決めてない。死ぬんじゃないわよ」
軍服の大きなあの女が巨大なガトリングを抱えて立っていた。
「あれは……死んだの?」
化け物はジタバタと動いていたが、すぐに新しい首をぬっと再生させた。
「正確には最初から死んでいる。だが、あんなものでは止められない」
佳鹿が散弾銃を放つと強烈な破裂音が響き渡る。
「前列からあと二体来ちゃってるわよお」
佳鹿はニヤリとして言った。
「挟まれるってことですか?」
「こほほほほ! 最初の修祓から派手よねえ」
「複数体の発生なんて」
「そんな」
その時、新幹線が悲鳴をあげた。脱線しているのがわかった。
「時間との勝負だな。あれを見られるわけにはいかない」
鴉天狗の男が低い声で言った。
「どうか指輪を」
山田が懇願する。
手が震えた。
「これを……?」
指輪を擦りかけて、躊躇する。体が変わったからといって何だ。刀の振り方も、あの車輪の避け方もわからない。できるわけない。
あれを自分が倒せることが全く想像できなかった。
「戦って」
怖い。その言葉が怖かった。
「……できるわけない……」
できるわけがなかった。体育の成績だって3だし、戦う訓練を受けたことさえない。刀なんて持ったこともない。生きていく意気地もない。相手はあんなに素早い。逃げるだけで精一杯だ。
自分のどこにも勇気なんてありはしない。
「できないよ……わたしは最低だ……」
涙が溢れてきた。
「自殺しようとしたくせに、怖くて父の手を離した……あの谷でも結局怖くて、怖くて……」
鈴凛は流れてくる涙をかきむしるしかなかった。
「ただ怖がって……」
「とんだグズね」
後ろから声がした。
「ヤマタノオロチを倒したとか言うから、どんな子かと思えば」
紫色の髪の美しい女が蔑んだ目でこちらに仁王立ちしていた。
「……?」
不機嫌そうな美人がこちらを睨んでいた。
「ただのブスでノロマの腰抜けのグズじゃないの」
スリムな体に丈の短いワンピースを着ていた。スラリと長い足が伸びてスタイルがいい。淡い光を纏っていた。それはあの花魁や天女たちと同じ光だった。
「佳鹿、わたしがやるわ」
「影姫様、どうしてこちらに」
「前方の三体は影姫様がすでに祓われました」
「技蛇」
「ご乗車されていたのですか」
「ええそうよ。花添えが近かったから、日本に来ていたの」
へたりこんだリリの前に影が落ちる。
「不死身ってきいたからどれだけすごいのかと思えば」
「どきなさいよ、グズ」
冷たい目で鈴凛を見下ろした。
アンクルを細い紐で止めた黒いハイヒールを履いた綺麗な白い足がすり抜ける。
「祓いたまえ、穢レの荒魂」
女の光がメラメラと昂り、揺らいでいるのが見えた。
「清めたまえ、穢レの荒魂」
「アマテラスオオミカミ、我を守りたまえ、さらえたまえ その明において 穢レし者を 黄泉へ帰えすと かしこみかしこみ、ま申す」
「神威抜刀!」
女が指輪をかざし、引き離すとと、火花が散った。
一体が眩くなる。
光が女の美しさを一掃引き立てた。
指輪がさやと刀に変わる。何も無い空間から刀が現れる。魔法のようだった。光の衣が体を覆うと、チマチョゴリのような衣装に変わる。
女は刀を斜め下げで構えた。
「来い!」
女は恐れず真っ直ぐに走り出すと、化け物の腕や車輪を軽々と避けていく。
「あ」
影姫は空中で体をよじると、鬼の額に見事に突き刺した。
アアアアアアアアアアア!
鬼から悲鳴があがると世界が震える。
「黄泉へ帰るがいい」
鬼も抵抗しているように腕を絡めていく。
「!」
ハタライテ イキタクナイ ハタライテ!
「!」
イキハヨイヨイ カエリハコワイ
コワイナガラモ—
「え……」
シャボン玉のようにあたりをたくさんの灯りが包み込んでいる。
「……?」
空から赤い提灯が落ちてきて、地面にすっと音もなく吸い込まれていく。
しくしくと泣く声が遠のいていった。
「幻覚……」
景色が戻っていった。窓の外に夜空と街が見える。新幹線は止まっていた。煙が消えていく。水が引いていった。
不思議な雨が降って、たくさんの叫び声が遠のいていく。
「あ……」
しかし血みどろの光景は変わらない。
「夢じゃなかったの?」
「異界が閉じただけ」
「鬼と人々たちの精神世界と現実の結びが解けたのです」
影姫がリリの前にしゃがみ込む。
「!」
ガンッと音がして、刀が横に突き立てられる。
「ひ」
刀が頬を切った。
「何を」
「触りなさい」
無理矢理腕を持ち上げられ、頬に触れさせられる。傷口は塞がっていた。
「あんたはもう人間じゃない!」
「月読姫にきいたはずよ」
「そんなこと……」
「でもここにいた人たちはそうじゃない」
化粧の乗った美しい目が睨みつける。
「わたしはあなたみたいなヒーローじゃない……」
「あんたが戦えば、死ぬ人は半分で済んだ」
胸ぐらを掴んで、鈴凛を無理矢理立ち上がらせる。
「立て!このグズ!」
「きゃ!」
肉と血の海に鈴凛は放り投げられた。
「おやめください!」
軍人の青年が傷つきながらもすがりつく。
「どけ!」
女が鬼の形相で羽犬を蹴飛ばす。
「なぜ抜刀しなかった!」
「だって……わたしは……わたしはあんな怖いものと戦えない……」
影姫は眉間に三重の皺をつくる。
「ただのいじめられっ子の高校生だもの……」
影姫の顔にイライラとしたものが充満するのが見てとれる。
それでも鈴凛は情けないことを言うことしかできなかった。
「そうやっていれば、嫌なものから、全部逃げられるとでも思ってるの?」
「だって車輪とレールが空中を走って……お父さんの首を……お父さんが死ぬなんて……」
「あんたみたいなのが、一番ムカつくのよ」
冷たい視線を向ける。
「!」
「そうやっていつまでも、ひとりで悲劇のヒロインぶってればいい」
「お父さんが……」
「誰もあんたを助けはしない」
「!」
「お父さんが死んじゃったんだよ!」
影姫が冷徹に目を細めた。
「あんたがグズだからよ!」
「!」
綺麗な女は恐ろしい迫力を持っていた。あの花魁が乗りうつったかのようだった。
「あんたがグズだから大勢鬼に喰われた!」
鈴凛の体は怒りと同様と絶望で震えていた。
「わたしのせいじゃない」
影姫はもう一度しゃがむと鈴凛の目を真っ直ぐ見た。
「もう一度はっきり言うわよ。あんたが、グズだからみんな死んだの」
「そんな……どうしてわたしがこんなめに……」
鈴凛はがくがくと震えることしかできなかった。
「忌の発生原因はこいつの黄泉が強すぎるからか?新幹線は本来強い結界の要石のはずだ」
「どうでしょうねえ……」
「ひどいよ……」
「……」
「う……うう……」
鴉天狗の頭もやってきて鈴凛を見おろした。
「これもしとこうかしら」
大女が耳元に何かを持ってくると、耳たぶに痛みがあった。
「痛い……」
「ピアスよピアス。ヒヒイロカネの純度が高いからこれならさすがに大丈夫でしょ」
「……」
「クソエサ、現実を見て泣き言はやめろ、ヘドがでる」
その手には、腕時計をした手首があった。
「父親の手だろう」
「おとう……さん……?」
鈴凛は呆然とした。
それは確かにパビカフェで見た腕時計の父の手だった。
「それしか残っていなかった」
「あ……あ」
「お父さん……」
「影姫様、あとはわたくしが」
「まったく優しいんだか、ひどいんだか」
佳鹿が呆れてため息をつく。
「……」
「佳鹿、おまえは甘いのだ。そんなことだから」
技蛇が睨んだ。
「神嶺……おまえがなぜこんな貧乏クジを。おまえはもっと優秀な戦姫につくべきであって」
「やめなさい、技蛇」
影姫がたしなめる。
「申し訳ありません……」
「お父さん……お父さん」
鈴凛はただ首を抱いて泣いていた。
大きな影が鈴凛の後ろからかかる。
「いずれわかるわ……あなたがなぜ選ばれたのかね」
佳鹿が優しくささやくと、大きな腕で信じられないくらいそっと頭を撫でた。
「今は辛くてもね」
ゲジゲジ眉毛の中で黒い瞳が輝いていた。
「あなたはいつか勇ましい戦姫になるわ。わたしにはわかるの」
「無理だよ、なりたくないよ、そんなもの」
リリはただ泣いた。
「お父さんはもう死んじゃったし、もう守るものなんてない」
「いい、鈴凛」
「……!」
大女が急に母親のように名前を呼んだ。
「この世界はそう簡単にはできていないのよ」
「むう」
頬にごつごつした両手が頬に添えられた。力が強すぎて口がタコのようになる。
「生きていれば、必ず守りたいものが現れる。守らなければならないものが現れるの」
「……!」
「それが人間の運命。戦姫の運命」
「……そんな」
「大丈夫、一人じゃないのよ」
「!」
鈴凛は妙な温もりの中で、懐柔されることに抵抗を感じていた。
「わたしたちが全力でサポートするから」
「でもなんでわたしが……お父さんが……どうして……」
面をつけた黒服の男たちが新幹線の高架橋を登ってきた。
「?」
みな木製の動物の面をつけている。
「あなたたちは」
橋で鈴凛を拉致した猿の男たちと鳥の仮面をつけた男たちがいる。
全員が黒いスーツを着ていた。
「これは、これは。とんでもないことになりましたねえ」
「遅い」
「車をご用意しました」
「すみません」
「百姫様のほうの手配は済ませてあります。佳鹿様たちは我々と」
「せいぜい生き延びることね、グズ」
技蛇と影姫は行ってしまった。
「百姫様はお母様に新幹線に乗っていることを知られています」
「ではこのまま葦原の者たちに引き渡すのだな」
「我々の存在を口外はするな」
「八咫烏の目と耳がおまえを見ているぞ」
神嶺がすごんだ声を低くだした。
「もー、やめなさいってば!」
佳鹿が神嶺に肩を組んでウインクした。
「とにかく今は帰って眠りなさい。疲れ果てたままに」
彼らは行ってしまった。
鈴凛は呆然と首を抱えたまま立ち尽くしていた。




