第十一話 黄昏時の声 前編
それは俺が小学四年生の夏休み。
「仁、お願いだからいい子にしててちょうだいよ? 絶対にテレビ壊したりしちゃダメだからね!」
「分かってるよ。俺だってさすがに他んとこのテレビ分解しねぇっつーの!!」
生意気に拍車が掛かった年頃だったと思う。
いつも、俺や弟の直樹の面倒を見ている姉が旅行へ行ってしまい、直樹は保育園へ、俺は母親と一緒にとある場所へ二週間ほど平日に通うこととなった。
俺は家に独りで留守番も許されず、母親がパートで来ている工場の休憩室に押し込められたのだ。
この当時、母親はとある金属部品や金属什器の製造工場で工員のパートをしていた。
ここは三十人くらいの人が働いていたが、社長が従業員のことを大事にしてくれる人らしく、今回の俺の件も「じゃあ、働いている時間に連れて来なさい」と、嫌な顔をせずに提案してくれたそうだ。
だが、そんなホワイトな社長のことなど、たかだか十歳の子供には理解できる訳がない。
――――ったく、宿題しかやることねぇし!!
初日は慣れない環境で彷徨くこともできず、大人しく休憩用の和室で夏休みのドリルに取り組んでいた。
もしも、姉が旅行にいかなかったのなら、昼間は一緒に塾の夏期講習に行かされていただろう。ついでに夜は通常の授業があるので、長期休みは一日中勉強しなければいけなくなる。
宿題にプラスアルファで勉強漬けになるよりは、ここでのんびり宿題だけしている方が楽だろう。
だが、それも一時間も経てば集中力など皆無になり、ダラダラと畳に寝そべるしか無くなってしまった。
「……テレビくらいつけてもいいかな?」
部屋にあった小さなテレビをつけようと手を伸ばした時、コンコンコン! と休憩室の鉄の扉を元気にノックする音が聞こえた。
「はい?」
「こんにちは〜。君、佐知さんの息子さんっスよね?」
『佐知』というのはうちの母親の名だ。
突然、部屋に入ってきたのは若い女性。だいたい二十歳くらいだろうか。
金髪に近い脱色した髪の毛と、派手な化粧にゴテゴテしたネイルが目に留まる。それなのに、着ている服が一般で多く見掛ける地味な事務員の制服なので吹き出しそうになった。
「アタシぃ、『早坂 美咲』ってぇの。よろしくー!!」
「城門 仁……です。よろしく…………」
早坂さんはこの工場で事務員をしている。
しゃべり方はベタっとしていて、気難しいオッサンとかに「話し方はちゃんとしろ!」と怒られそうな印象だ。はっきり言うと、初見では俺もちょっと苦手なタイプ。
「社長がね〜、暇な時はたまに様子見てあげろ……って。大丈夫? なんか、困ったことない?」
「…………別に、特には……」
暇で困る……とは、初対面でさすがに言い難い。
しかし、テーブルに投げ出された宿題ドリルをチラリと見ると、早坂さんは鍵付きの自分のロッカーから大きな紙袋を取り出した。その中にはぎっしりと漫画本が入っている。
「はい、これ。読んでていいっスよ。今日、友達から返されたものだから!」
「え? これって『反撃の小人』じゃん! しかも最新巻まである!!」
「あ、知ってた?」
「知ってるけど、うちじゃ単行本ないんだ!」
「漫画、好き?」
「うん、好き!!」
読みたかった漫画本を積まれ、俺はすっかり早坂さんに心を開いてしまった。
この日から、早坂さんは俺に色々と気を遣ってくれた。
ある日はお客さん用のお菓子が余ったからと持ってきてくれたり、別の日は俺が工場の敷地内を探索してもいいという許可ももらってくれた。
どうやら、母から俺が機械や部品が好きだと聞いたので、外に落ちている商品にならない金属部品を、ゴミ拾い代わりに持っていって良いかと社長に聞いてくれたみたいだ。
「この辺、引き取った什器を運ぶ時とか、けっこうポロポロ落ちてるんよ。全部は拾いきれないし、ほっとくと錆びたりゴミにしかならないから、持っていってくれると助かるって言ってたし」
「うわ、キレイなのも落ちてる! ほんとにいいの?」
「社長が良いってんだからオッケー」
「お姉ちゃん、ありがとうー!」
「ふふ、ひとしは素直っスねー。あ、作業の邪魔にならないように拾ってなよ!」
「うん!!」
俺は夢中で部品集めを始めた。
「あれ? お姉ちゃん、この建物何?」
「あぁ、これは工場のおっちゃんたちの休憩所っスね」
工場の二階にも休憩室はあるのだが、敷地の中にもプレハブでできた休憩所があった。
プレハブは工員の男性たちが昼休みに一斉に休憩するための場所で、二階の休憩室は事務員や少ない女性工たちのための場所だった。
「だから、お母さんたちは二階にくるんだね」
「そうそう、おっちゃんたちはゴロゴロと昼寝したがったりすんだよ。二階じゃ全員入れないし、こっちの方が男たちにはちょうどいいんだとさ」
早坂さんから説明を受けていると、工場からたくさんの湯のみの入ったカゴをもった女性がプレハブ小屋へ入っていった。
たぶん三十歳手前くらいで、早坂さんと同じ事務員の制服を着ている。
早坂さんとは対照的に、黒髪のボブで見た目にとても真面目そうな人。美人だけど、何となく子供の俺は近寄り難い雰囲気だった。
すぐにその女性はプレハブ小屋から出てきたが、早坂さんと俺を見ると険しい顔つきになった。
「ちょっと、早坂さん。遊んでないでさっさと書類片付けてね。お盆前は暇なわけじゃないんだから!」
「あ、はーい。すぐ行きます」
ふんっ! と、あからさまにそっぽを向いてその女性はスタスタと工場へ戻っていく。
「お局、今日もイライラしてんなぁ。早めの更年期か?」
「こーねんき?」
「機嫌悪いってことっス。アタシ、あんまり気に入られてねっから。同じ事務員なんだけどね」
「……感じ悪ぃなぁ。ん? でもあの人、お昼の時間に休憩室来ないぞ?」
「あぁ、あの人はこっちのプレハブでおっちゃんたちと過ごしてっから………………男好きなんだよ」
「ふ〜ん?」
どうやら俺には分からない女の行動のようだ。
そこから、朝に工場に来て午前中は宿題をし、午後は部品を拾ったり工場の見学をしたりして過ごすというのが一日の流れになった。
そして、早くも十日が過ぎた頃。
その日もたくさん部品を拾い、ホクホクと三時の休憩をしていると、そこに早坂さんがやって来た。
「早坂のお姉ちゃん、お疲れ様ー」
「お、おぅ…………おつかれー…………」
顔色も悪く、ハンカチで口を押さえて具合いが悪そうに下を向いていた。
「お姉ちゃんどうしたの? 夏バテ?」
「ん? あはは……まぁ、似たようなもんかな。ちょっとここで休ませて………………ふぅぅ……」
畳に座り、壁に寄り掛かる姿は本当に辛そうだった。
「ほんと大丈夫? お水もらってこようか?」
「いや大丈夫、ひとしは優しいっスね〜……」
それからしばらくは黙っていたのだが、おもむろに早坂さんが口を開く。
「なぁ、子供に言うのもなんだけど…………アタシが弱音吐いたら聞いてくれる?」
「え? 悩み相談?」
「そうそう。あのさぁ、ひとしって口はかたい…………内緒にできっかな?」
「おぅ! 大丈夫、心配すんな!」
「ははは、頼もしいなぁ」
ひとしきり笑うと、早坂さんはフゥッと息をついて真顔になった。
「アタシ、まともに高校出てなくてね。十代の半ばそりゃあ荒れてたんだよ」
早坂さんは家庭環境も悪く、高校を中退したあとも家出ばかりをする不良だったそうだ。
悪い友達とフラフラと夜遊びをしていた時、有志で見回りをしていたここの社長さんに出会い、そこから親身に話を聞いてもらったという。
「あの時、拾ってもらって、今はちゃんと働いてるってスゲェだろ?」
「うん、すごいね」
「あのさ、アタシって幸せになれっと思う?」
「幸せ? 今は幸せじゃないの?」
「いや、不幸ってわけじゃねぇんだけど、こう…………ふわふわ〜っというか、結婚して家庭持って、可愛い赤ちゃんがいるような幸せ…………わっかんないよねぇ?」
「……赤ちゃんがいる幸せ…………う〜ん?」
赤ちゃんという言葉で、俺は弟が産まれたばかりの頃を思い出した。
産まれたての弟はびっくりするくらい小さくて、しょっちゅう泣いては母親は寝不足でグロッキーになっていた。
しかし、御祝いに訪れた祖父母や親戚が弟の誕生に、みんな喜んでいたものだ。
「う〜ん…………たぶん、幸せなんだよ。うん、早坂のお姉ちゃんもそうなったら良いんじゃない?」
「え? アタシ、お母さんとかできっと思う?」
「できるできる! いっつも怒ってるうちのお母さんより、お姉ちゃんなら面白いもん!」
「ほ、ほんと?」
一瞬驚いたような顔をしたあと、早坂さんは満面の笑みで俺に抱きついてきた。
「ありがとな〜! アタシもあんたみたいな息子が欲しい〜!」
「うわっ! やめろって!」
「あはははっ」
早坂さんがこんな話をしてきたのはこれが最初で最後だ。
次の日には特に何もなく、いつも通り俺に良くしてくれた。
………………そう、俺が工場に通う最後の日。
あの金曜日の朝まで、彼女は笑っていたんだ。




