雪山
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
雪が降っている。それも、大量に降っている。
「雪、降らせませ。舞わせませ。」
一人の少女が、雪山で舞っている。彼女は年の頃、十になる。
「ゆき。早う。家さ、入れ。」
「はあい。」
少女の名はゆきと言った。彼女は、ここ大雪山の中腹に一人で住んでいる。
「爺や。今年は、いやに降るねえ。」
「大精霊様が怒っておいでなさるのだ。」
ゆきの傍らには、目に見えない透明な爺様がいた。それは、ゆきの亡き爺様の御霊である。四年前に、息子、つまり、ゆきの父親を、徴兵でなくした爺様は、御霊を残したまま、体は大雪山の雪に還り、精霊となり、ゆきを見守っている。
「雪は、怒り、泣き、叫ぶ。それは大精霊様の言霊に他ならぬ。」
「なのか。」
「なのだ。」
ゆきの住む小屋の外は、吹雪が唸り声を上げている。
「御免。」
小屋の戸を開ける音がした。
「来訪神か。」
「卜部に御座る。」
「参れ。」
応接の声を上げて、客人を招き寄せたのは、ゆきである。
「流石に、この家の中は温こう御座る。」
「世辞は程ほどにせい。早う、用件を申せ。」
「承知。」
卜部を名乗る客人は、蓑笠を着けたまま立っていた。
「シャングリラは兵を挙げ申した。」
「まことか。何故、奴らは兵を挙げた。」
「斯様なことは存じませぬ。なれど、最早、皆、待つことはできませぬ故。」
「犬死になるぞ。」
「ただでは死にませぬ。」
「それだけを言いに来たのか。」
「ゆき殿も来られませ。」
「ならぬ。」
「是非に。皆、精霊神様の御霊を待ち望んで御座る。」
「己は、精霊神様を戦の道具にするか!!」
小屋がガタガタと音を立てた。ゆきの感情に吹雪が同調していた。
「下がれ、下郎。土地神風情が驕るでないわ。」
「下がりませぬ。」
「下がれ!!」
小屋の戸が開き、吹雪が舞い込んで来た。そして、荒れ狂う吹雪は、卜部の姿形を取り上げると、そのまま、大雪山の彼方へと連れていった。
「ゆき。泣くでない。」
「爺様。俺は悲しい。」
大雪山には精霊神が住んでいる。精霊神は、土地神と繋がり、この大地を守って来た。ただ、ゆきの祖父の代から、周囲を巡る争いが激しくなり始めていた。そして、ついに、ゆきの父の代に戦が起こった。そのような中で、土地神はその地を護るべく戦っていた。
大雪山には春が訪れていた。
百数十年前に帝政が復活した後、百年を経たずして外戦が始まった。その敗戦により、先帝が退位し共和政が始まってから、もう半世紀以上の時が流れている。
とうの精霊神や土地神たちは、帝政復活の折に起きた内戦の時よりも前から、大地に存在していた。というよりも、彼等は、帝政以前の長く続いた平和な時代に、その御霊を育まれたといってもよかった。
「あの頃は、皆が穏やかで、安らいでいた。」
爺様はその時代に生きていた訳ではない。しかし、それは、彼が先祖たちの御霊を通して感じていたことだった。
「爺や、シャングリラは、何を求めているのだ……。」
「考えても詮無いこと、ゆきよ。お前はお前の為すことを為せばよい。」
「そうか……。」
「そうだ。よいか。決して、戦などに巻き込まれてはならぬ。」
「分かった。」
それから数か月の間、大雪山は静かだった。あれ以来、卜部が来ることもなかったし、他の客人が来ることもなかった。ただ、小屋の外では、しんしんと雪が舞っていた。
「お頼み申す……。」
静かな声が聞こえた。それは、澄んだ透明な音色であった。
「開けるな。」
「分かっている。」
ゆきは爺様の言い付けを守ろうとした。しかし、何故か、それが突然、不安なことのように思われた。ゆきを守ってくれているのは、爺様である。爺様は、今では、その体は御霊となり、大雪山の精霊の一柱になっている。
「もし、どうかお頼み申します……。」
それでも、ゆきは、この雪山に響く、か細い声に心を奪われずにはいられなかった。外は雪が降っているが、その雪がかえって、山全体の音を吸い、不気味な程、静かだった。その中に、ただ独りでいるゆきの心細さに付けいったかのように、戸の外から洩れる声が泣いているように聞こえた。
「ゆき、開けるな!」
気が付くと、ゆきは掌を戸板に掛けていた。爺様の声に、びくついたゆきの動揺が、ほんのわずかな隙間を戸板に生じさせた。
「アバターだ!!」
ゆきは叫んでいた。わずかに開いた戸の隙間から、シャングリラのアバターが侵入して来た。
「逃げろ、ゆき!!」
「いやだ。」
アバターは無言である。アバターは、御霊ではないが、共通点もある。それは、実態がないということだった。
「この家は、俺が守る。」
「止めよ!!」
ゆきの怒りが大雪山の精霊と共に成り、その意思を具現化させた。大雪山に風がうなり、吹雪が舞った。
「アバターには触れるな!!」
「触れはしない。」
戸板の建て付けを揺らし、実態のないアバターを大雪山の吹雪が襲った。舞い散る雪がゆきの視界を遮った。
「行った。」
「無駄だ。」
「何がだ?俺はやつには触れてはいないぞ。」
既にアバターは消失していた。
「無駄だよ。ゆき。おまえの感情はアバターに触れてしまった。おそらく、土地神共も、今や、失せ果てたであろう。」
「爺や、何を言っている?」
「わしは、最期の最後まで、おまえと、この大雪山と精霊神様を守ろうとした。それが大雪山に住まう御霊の一柱の役目だと思っていた。しかし、やはり、それは叶わなかった。」
「何故だ、何故、叶わない。」
ゆきは怒っていた。しかし、小屋の外は静かだった。
「おまえの感情はアバターに触れた。そのことはシャングリラにも知れたであろう。穢れた御霊は精霊になることはできぬ。ただ、何もなくなってしまうだけだ。」
「なくなる…?」
「なくなる。何も残さず、何もなかったこととして終わる。大雪山の雪のように、純白の御霊に、ゆき、おまえをしたかった。しかし、それは、時の流れか、業か知らぬが、やはり、無理なことだった。ああ、すまぬ、ゆきや。おまえを父や母のもとに往かせられなかった。」
爺様の姿は消えかかっていた。透明なフィルムのように、薄っぺらいものになっていた。
「いやだ。爺や、俺は、どうすればよいのだ。」
雪が融けて水になるようなこともなく、ゆきの問いに応えることもなく、爺様は消えた。その瞬間、大雪山中の御霊と精霊が全て消えていた。
「何もなくなってしまった。」
今まで蓄積されていた怒りや悲しみ、喜びといった感情も、ゆきの体から消えていた。それは、積年の肩の荷が降りたような解放感ではあったが、それと同時に、将来や未来に対する夢や希望といったものも、全てが何もない空っぽの虚しさを含んでいた。
「おい。ゆき。まだ遊んでいたのか。」
「お父ちゃん。」
大雪山は太陽に照らされていた。
「墓参りも済んだから、家に帰るぞ。」
「うん。」
大雪山の麓の道路に面した住宅の軒下から、ゆきの父親が出て来た。先ほどまで、ゆきがいた所には道路があり、その近くの地面で、ゆきは遊んでいた。そこには、融けた雪が泥となり、辺りを汚していた。
「何かあったのか?」
「ううん。何もなかった。」
ゆきの祖父の墓参りに帰省した両親に、ゆきは付いて来ていた。
「父さんの実家、楽しかったか?」
「ううん。」
「ゆきは正直だな。」
父親の運転する車に揺られながらの帰り道、母親の眠るその傍らで、ゆきは『Shangri-la』というタイトルのゲームをしながら、家へ着くのを心待ちにしていた。
ゆきたちの乗る車を、大雪山の雪景色と、ゆきに連なる先祖代々の墓石たちが、その行く末を興味深く、注視しながら見つめていた。しかし、とうとう、ゆき本人は、車の中で母親の肩にもたれて眠りに就くまで、その眼差しに気付くことはなかったのだった。