17
はぁ。
私は寮の自室でため息をついた。夜着に身を包み、あとは寝るばかりという状態でベッドに腰かける。
先日シルファスから帰ってきて以来、帰りの馬車での出来事を何度も思い返しては赤面するのを繰り返している。おかげでここ数日は訓練にも身が入らず、何度も叱られてしまった。
婚約者なのだからキスくらいしても普通だし、むしろこの程度で動揺していては結婚など到底無理だ。だけど恋愛経験のない私にとって、あれは間違いなく大事件だった。
ベッドに身を投げ出し、枕に顔をうずめて身悶える。あんなことに慣れる日が来るのだろうか、世の恋人たちはどうして平然としていられるのだろうと私は真剣に考えていた。今ばかりは結婚に対する不安もどこかに飛んで行ってしまっている。もしかしてそれが狙いであんなことをしたんだろうか。もしそうなら相当な策士である。
明日は申請書類を提出する予定だ。どんな顔をしてユリウス様に会いに行けばいいのだろうと、もう一度ため息をついた。
翌日、私は緊張の面持ちで経理課を訪れた。他の申請書類は既に各部署に提出し終えて、残すは経理課のみだ。
ノックして入室すると、さっとユリウス様の席に視線をやるが、肝心のユリウス様は見当たらなかった。
「申請書の提出ですか?」
補佐官のミーティアさんに話しかけられる。
「はい…あの、ユリウス様は?」
「少し席を外しています。戻るまでお待ちになりますか?」
「いえ、こちらをどなたかに確認していただきたいのですが」
そう言ってミーティアさんに書類を渡すと、彼女が確認してくれた。別にユリウス様に確認してもらわなければならないわけではないのだ。
不備を2点指摘され、その2枚を手に経理課を後にする。
不備が減らないのは相変わらずだ。チェック方法を変えた方が良いのかもしれない。
そんなことを考えながら第3騎士団の事務所に向かって歩いていると、曲がり角の向こうから聞きなれた声が聞こえた。ユリウス様だ。
「…から、無理だと…」
「でも! 私なら…」
誰かと話しているようだ。相手は女性らしい。
私はどうしようかと逡巡した。ユリウス様と顔を合わせるのは気まずいし、でもここを通らなければ事務所に戻れない。曲がり角の手前で足を止めて、私はそっと様子を窺った。
「騎士の真似事なんてしている女のどこが良いんです? 聞けば社交もろくにせず、女らしさのかけらもないというではありませんか」
「…何を言われても、あなたを愛人にするつもりはありません」
愛人!?
何の話をしてるの!?
立ち聞きは行儀が悪いと思いつつ、私はその場を動けなかった。どうやら女性の方はユリウス様の愛人に立候補しているらしい。私をお飾りの妻と考え、ユリウス様の愛人の座に付けば甘い汁を吸えるとでも思っているのだろうか。それとも純粋にユリウス様のことを慕って…?
「私ならきっとご期待に添えますわ。すぐに私の方が良いと分かっていただけるはず」
「…今なら聞かなかったことにして差し上げますから、どうかお帰り下さい」
「弱みでも握られているんですの? そうでなければあんな女と結婚なんてありえませんわ」
弱みって。私がユリウス様の弱みなんて握れるわけないじゃない。
しかも「あんな女」呼ばわりとか。
私は乾いた笑いが出そうになった。
その時、はー、とユリウスが大きなため息をついた。
「勘違いなさっているようですが、私がレティシアに愛を乞うているのです。それなのに愛人を持つわけがないではありませんか。これ以上つきまとうおつもりなら、不法侵入で騎士を呼びますよ」
「…! 後で後悔しても知りませんわよ!」
カツカツとハイヒールの音を鳴らし、女性は足早に立ち去った。
私はあっちに行ってくれて良かったと思いつつ、一人熱くなった顔を手に持っている書類で扇いだ。
あ、愛を乞うているだって…!
「レティシア」
「!?」
突然角からユリウス様が現れた。
私は書類で顔を隠しながら一歩後ずさる。
まずい。立ち聞きしてたのバレてる…?
「立ち聞きとは良い趣味ですね」
あああああ、やっぱりバレてたーー!!
「ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃなくて、通りにくくてどうしようかと思っていたら結果的に立ち聞きのように…!」
私が焦って言い訳すると、ユリウス様はふっと表情を緩め、一気に距離を詰めると私を抱きしめた。
「ユリウス様!?」
「はぁ。変な勘違い女の相手で疲れました。癒してください」
「なっ…どっ…こ、こんなところで!」
「少しくらい皆見て見ぬふりをしてくれますよ」
そりゃこんな場面を見たら見て見ぬふりするしかないでしょうよ!
ってそうじゃない、誰かに見られたら死ねるから! やめてください!
私はじたばたと暴れるが、より拘束が強くなるだけだった。
「レティシアには聞かせたくありませんでした…」
「………その、はっきり断ってくれて、う、嬉しかったですよ…?」
ユリウス様の腕の中で、そっと呟く。
腕の拘束が緩み、顔を覗き込まれるのを感じたので、私は俯いて手に持つ書類で顔を隠した。今は駄目だ、真っ赤になっている自信がある。
「っ! …可愛すぎます…これ以上レティシアを好きにさせて、私を一体どうするつもりなんですか」
「な、なな何を…!」
「今すぐ攫ってしまいたいくらいです」
少し掠れた声で耳元で囁かれ、背中をぞわぞわっと何かが駆け抜けていった。
「っ!?」
私はバッとユリウスから離れると、そのまま横をすり抜けて走った。そして勢いのままに事務所の前を通り過ぎ、トイレに駆け込んだ。ドアを背にずるずるとうずくまる。
何あれ、何あれ…!? 大人の色気ってやつ!? 仕事中なのに!
バクバクとうるさい心臓を押さえ、深呼吸するがなかなか落ち着かない。
しばらくそうしてトイレに立てこもってから、ようやく私は立ち上がって事務所に戻った。