Ⅱー7
盲点……だった。
彼が言った『手を打ってある』というのは、どうやらこのことだったらしい。彼女にコンタクトを取らせるとは……。さすがにそんなことは予想できない。
それにしても会社にグッズを送ってもらうって、割と緩い会社だから許されるけど、公私混同もいいところだ。
ただ、わたしは『理央様』にも柚木さんにも嘘の情報なんて教えていない。だから柚木さんのこの用意周到な裏工作は、無駄な行為だったといえる。
『理央様』どころか、柚木さんも実際何を考えているのか分からない。マネージャーだったら、普通所属アイドルが一般人と接触することなんて止めるべきだろう。なんとなく彼は私的な感情で『理央様』のために動いているような気がする。本当にそこまでして、一体わたしに何を求めているのだろう? わたしが『理央様』の友人に相応しいはずがない。柚木さんだって、相応しいと考えるなんて思えない。
清水さんは、思わぬプレゼントを心から喜んでいるようだ。
「あの、清水さん。今日は持ってきませんでしたが、コンサートの時のうちわ、お返ししますね」
わたしはグッズと聞いて、彼女お手製のうちわのことを思い出した。
「え? あれはいいんです。良かったら記念に貰ってください。先輩と一緒に応援したくておそろいで作ったものですから」
「……あ、ありがとうございます」
気持ちは嬉しい。
でもとても申し訳ないけれど、今はあのうちわがこの異常事態を招いた原因にすら思える。本当はうちわを返してすっきりしたかった。
「あ、そうだ。茅野先輩、桐原さんは体調が戻らず今日もお休みです」
「はい……」
心配ではあるが素っ気ない返事をしてしまう。
とりあえず席に座り、エナジードリンクを飲むことにした。
長い一日だった。
仕事は捗らず、明らかに『理央様』と柚木さんの影響が残っていた。
お昼休憩に、ミステリーの続きを読んで心を落ち着かせようと努力をしたが、それも無駄に終わった。
退社時間を待って、速攻で着替える。残業がほとんどないのがうちの部署のいいところだ。早く帰って、今度こそ家でゆっくりミステリーの続きを読みたい。何もかも忘れて早くいつもの日常に。好きな本を無心で読める日常に。
あのキラキラな非日常の記憶は、無理にでも葬り去ろう……。
正面玄関を出て、わたしは一目散に駅の方向へ歩き出す。
「ふみさん!!」
突然、後ろから聞き覚えのある声がした。
名前を呼ばれて不快に感じない男の人は、今、世界中でたった一人だけだ。
戻りかけていた日常が、一瞬にして崩壊する。
わたしは、覚悟を決めて振り返った。
目の前の彼は、大きいマスクに黒縁の眼鏡、ざっくりとした編み目のニット帽を被っていた。カジュアルな服装にシンプルなベージュのコートがよく似合っている。
一見すると学生と思われるその顔は、隠されてほとんど見えない。でも、柔らかな声だけで分かる。秋の寒空の中、そこだけ眩しく暖かな日差しが降り注いでいるような……。
「ふみさん、お仕事お疲れさまでした。急に来て待ち伏せなんてしてすみません。でも、どうしても会って話したくて」
どうして? 何で? と突っ込みたかった。でも、わたしの口は固まってしまったかのように半開きのままだ。
「えっと、分かりませんか? 僕、理央……です」
勿論分かっている。分からないはずがない。
「……はい」
震えながら辛うじて出せた声は、ただもうその返事のみだった。
「ふみさん、具合でも悪いんですか?」
「いえ。あまりに吃驚してしまって。あの、『理央様』……芸能記者とかに見つかったらまずいんじゃないですか?」
少し気持ちが落ち着いたわたしは、小声で彼にそう聞いた。
「それは、多分……大丈夫です」
「今日は、柚木さんは居ないんですか?」
「柚木が一緒の方がいいですか?」
そういうわけではないが、二人きりというのは余計に緊張してしまう。そもそもわたしは芸能人とか関係なく、人というものが苦手なのだが。
「そうだ、すみません。ふみさんの会社、柚木に聞きました。いろいろ柚木と話したんですね」
わたしは曖昧に頷いた。
柚木さんとは楽しく雑談したというわけではない。勤め先や自宅の住所だって、あの状況で不本意ながら教えてしまっただけだ。
「あと、言おうと思っていたんですけど、僕のこと理央様なんて呼ばないでください」
「あ、そうですよね。すみません。そんな呼び方したら、すぐにばれちゃいますね……」
「そうじゃなくて。様なんて止めてほしいんです」
彼は言った。
「じゃあ、叶さん?」
「急に硬すぎます」
「……理央さん?」
わたしが恐る恐る聞くと、理央さんは嬉しそうに「はい」と答えた。