Ⅶー2
天気が悪いせいか、昼間だというのに理央さんの家のリビングは薄暗い。
まるであの日に戻ったみたいに。
理央さんはソファーに座っていた。
けれどあまりにも静かで、近づくまで全く気配を感じなかった。
わたしは目を凝らす。
俯いているため、長めの髪が彼の視界を塞いでいる。というより、勝手に部屋に人が入ってきているのに気づかないのだろうか?
わたしは言葉を掛けられずに、ただ人形のような彼を見つめていた。
「理央さん……」
決心して、ようやく声を掛ける。
わたしを見上げる理央さんの顔色は青白い。
「……ふみ……さん? 夢……でしょうか?」
どうしていいのかわからず、彼の問いにわたしは首を横に振った。
こんな状態の理央さんを見たことがない。憔悴しきって、彼の持つ温かいオレンジの光が消えかかっていた。
理央さんは、美しくも虚ろな瞳でこちらを見つめている。わたしは、金縛りにでもあったかのように動けない。
それから彼は、ふらふらとゆっくり立ち上がり、わたしに近づいた。
「夢でも……いいです。逢いたかった……」
そう言って、理央さんは優しくわたしを抱きしめた。
「ふみさんの匂いです。夢でもいい。このままずっと、覚めないで……ほしい」
理央さんの体温……。温かく優しい声……。
会いたかった……。わたしだって会いたくて、何度も何度も彼の夢を見た。
涙が溢れる。
泣きたくなんてない。
ずっと治らないものもらいだって、悪化してしまう。
わたしではダメだと、この瞬間も思う。
離れなければならない……。
でも、離したくない。この温かくて優しい腕の中を独占したい。
もうこれ以上、どうしても自分の心に嘘をつけない……。
「……好きです。わたし、理央さんのことが大好きです。あの日、自信が無くて嘘を吐きました。わざと傷つけるようなことを言いました。……ごめんなさい」
理央さんはわたしから離れ、驚いた瞳でわたしを見つめる。
「本当に……ごめんなさい」
掠れた声で、もう一度謝る。
「ふみさん……?」
理央さんはわたしの頬に触れ、ゆっくりと涙の跡を指で辿った。
「……夢……ではないんですね?」
理央さんの言葉に頷く。
「……どうしよう。幸せです。今、死んでもいいくらい……」
理央さんはそう言って、真っ直ぐにわたしを見つめた。
それから泣きそうな顔で、ふわりと笑う。それは今までに見たことのない、本当に綺麗な笑顔だった。
再び彼はわたしを抱きしめて、離そうとはしなかった。
「本当に……夢を見ているみたいです。僕は、貴方以外は何も要らない……」
理央さんが耳元で囁く。
……くらくらする。
わたしのほうが夢をみているのではないか……そう思った。
気付くと、ソファーに横になっていた。彼が側で心配そうに見ている。
いつの間にか、わたしは意識を失っていたらしい。
「すみません……。緊張させてしまいましたね……」
理央さんが言った。
確かに緊張もしていたけれど、ずっとよく眠れていなかったせいだと思いたい……。
「いえ、返ってすみません」
わたしは体を起こしながら言った。
「心配しなくても、大丈夫です。……えっと、その……ふみさんがいいと思えるまで……何も……しないので」
そう言う、理央さんの頬が赤い。
わたしは恥ずかしくなり、急に彼を直視できなくなった。
「お茶でも淹れますね」
理央さんはキッチンへ向かった。
温かい紅茶を一口飲む。理央さんは、どういうわけだかずっとわたしから目を離そうとしない。
「あの、理央さん……お仕事休んでいるんですよね?」
「……上手く笑えなくなってしまって。自分では、もう少し強い人間だと思っていたんですけど。失望させてしまいましたね」
わたしは、目一杯左右に首を振る。
ほっとした表情で、彼は微笑んだ。
「ふみさん……大好きです。絶対に幸せにします」
彼から温かいオレンジの光が射していた。
なんて綺麗……。
瞬きをするのも忘れて、わたしはそんな彼をただ見つめていた。
三月二十日。
仕事を終えると、理央さんがいつもの場所で待っていた。
彼はあれからすぐに仕事に復帰した。止まっていた映画の撮影も再開したらしい。
暖かくはなってきたけど、会社前の歩道はウルトラミラクルスーパースターとの待ち合わせに相応しい場所とはいえない。でも慣れというのは恐いもので、ここに彼が居るのがすっかり当たり前になっていた。
もう会社の同僚たちも何も気にしない。理央さんの変装が完璧なのか、芸能人だと気づかれることもなかった。
古杉さんは理央さんを見かけると頭を下げ、清水さんは軽く手を振って去っていく。
そろそろ清水さんには、理央さんとのことを打ち明けたいと思っている。
「ネックレス、してくれているんですね」
理央さんは言った。
よく見ている。
「仕事なんですけど、つけてきてしまいました」
「とてもよく似合っています」
「……ありがとうございます」
お礼を言いながら、ふと思い出す。
そういえば、わたしがあげたあの緑色のマフラーはどうしただろう。
マフラーをしなくてもそんなに寒くない時季にはなったけど、クリスマスから彼がしているのを一度も見たことがなかった。
「理央さん、もしかしてマフラー……気に入らなかったですか」
「え?」
理央さんは驚いた声を出した。そんなに吃驚することを聞いたつもりはない。
「……えっと、大事に……してますよ?」
彼は明らかに動揺していた。
意味がわからない……。
でも大事にしてくれているならそれでいい。
「来年は使ってくださいね」
わたしがそう言うと、理央さんは困った様子で、曖昧に頷いた。
わたしたちは、いつものラーメン屋さんに向かった。寒い夜はラーメンに限る。
どういうわけか、今日は店内にお客さんが一人も居なかった。貸し切り状態だ。
ラーメンを食べ終えると、テーブルにマーブルのおしゃれなアイスクリームが二つ置かれる。
注文していないし、そもそもアイスなんてメニューにはなかったはずだ。
「理央ちゃん、いつも来てくれてありがとうね」
おばあさんが、遠慮がちな声でそう言った。
吃驚してしまった。
理央さんも驚いた顔をしている。
「ばあさんは理央ちゃんの大ファンなんだよ。騒がれるのは嫌だろうから黙ってたんだけど、初めて来たときから、理央ちゃんに握手してもらいたくてしょうがなかったのさ。悪いねぇ、逢瀬の邪魔しちまって」
今度は申し訳なさそうに、店主のお爺さんが言った。
わたしと理央さんは顔を見合わせた。
なんて、温かくて優しい人たちなのだろう……。
「失礼……でしたね……。理央さんのこと知らないだろうなんて、最初から決めつけたりして」
わたしは小声で理央さんに言った。
それから今まで気づかれていないと勝手に思いこんでいた自分が可笑しくて、つい笑ってしまった。
「ふふっ。……失礼な上、本当に鈍すぎ……ですよ……ね」
「今ですか!?」
理央さんが言った。
わたしは笑いながら、理央さんを見つめる。
「ずっと、ふみさんの笑った顔が見たかったんです」
「え? わたし、今まで笑っていませんでしたか?」
理央さんは頷き、
「……困りましたね。想像以上に可愛いです」
と伊達眼鏡を押さえながら、照れたようにそう言った。
「若いってのはいいねぇ」
しばらくしてから、お爺さんがしみじみと言った。
おばあさんは、微笑みながら理央さんを見ている。
「……お騒がせしてすみません。いつも美味しいラーメン、ありがとうございます」
理央さんは、笑っておばあさんに手を差し出す。
「やだねえ。本当に王子様だよ。もうあたしは一生手を洗いたくないよ。お嬢ちゃん、あんた理央ちゃんのこと、ずっと大切にするんだよ」
おばあさんは理央さんと握手した後、諭すようにわたしにそう言った。
「そりゃいいけど、ばあさんが手を洗わないんなら、このどんぶりは一体誰が洗うんだよ」
お爺さんが慌てた声を出す。
それで、わたしたちは、また顔を見合わせて笑ってしまった。




