Ⅱー2
コンサート当日。
会場グッズ売り場で、わたしはもうすでに死にそうになっていた。
どうやら考えが足りなかったようだ。何等なく来ていい場所ではない……と身をもって実感する。
比べること自体間違っているが、書店で行う厳かな作家のサイン会とは全く持って違っていた。
わたしは今更ながら少し……ではなく、激しく後悔していた。
『理央様』ファンの大群は鬼気迫るものがあり、結局その熱気に耐えられず、そっとグッズ売り場から離れる。
離れた場所で、わたしは清水さんを待つことにした。
もはや平静を保つのすら難しい。
ため息をつく。
清水さんから受け取ったチケットは、二階席の最前列だった。
これでは彼の姿は見えても表情までは分からない。
そのことを清水さんに訊ねると、「ステージの後ろに巨大スクリーンがあるから大丈夫です!!」と元気いっぱいに返してきた。
彼のことが見えなくてもわたしは一向に構わない。
ただ彼女にがっかりしてほしくなくて、それだけが心配で聞いたのだ。
席に座ると、清水さんが自分のトートバッグから手作りのうちわを二枚取り出した。
そして、その一枚をわたしに差し出す。
うちわには『理央様LOVE』の派手な文字。それに細かく丁寧に星とハートが貼り付けてある。
ぞっとした。そんな派手で可愛らしいもの、わたしには全く似合わない。
咄嗟に首を振り断ったけれど、「持つのが礼儀です」と言われれば、もうそれ以上は拒めなかった。
わたしは「すみません」と言い、うちわを受け取る。
当然彼女の手に(彼女には似合っている)色違いのうちわが一枚残った。
うちわを握りしめる清水さんは、とても可愛らしい格好をしている。
職場に着てくる服もいつもお洒落だけれど(まあ、すぐに地味な制服に着替えてしまうのだが)、今日はアクセサリー、髪のアレンジ、メイクまで全てが完璧だった。
ふわふわの毛糸の帽子から覗く彼女のセミロングの髪は、複雑でどうなっているのかわからない。編み込み方を聞いたところで、わたしには到底真似できないと思った。
椅子に座った状態のまま何気に周りを見回すと、わたしの目には彼女だけではなく、会場に来ている女の子達全員が輝いて見えた。
それに引き換えわたしはなんだかみすぼらしい。
長いウェーブの髪をただ横で緩く一つに結び、服装も地味な色合いのニットにジャケット。ギャザーの入ったロングスカート。アクセサリーは実用的な腕時計だけ。メイクも出勤時と同じで、薄く最低限にしかしていなかった。
多分、誰よりもこの場に相応しくないだろう。
気付かれないよう、わたしは小さく本日何度目かのため息をついた。
バックに入っているミステリー小説の続きを読みたいと思った。気持ちを落ち着かせるために……。
勿論こんなところで本を読むなんて、無理だということは分かっていたけど……。
しばらくすると照明が落ちて、会場が一気に暗くなった。でも完全な闇ではなく、なんとか人の顔を認識できるくらいの薄闇。
気付くといつの間にか、黄色のジャンパーを着たスタッフが数名、通路を忙しなく回っている。
突然、どういうわけか一人のスタッフがわたしの前にゆっくり止まった。
「コンサートが終わっても、ここを動かないで下さい」
彼はわたしに近づき、しゃがみ込むと小声でそう言った。
「え?」
吃驚して聞き返したが返事はない。
「うちわ……」
彼は呟く。
「うちわ?」
「えっと……ここに居て欲しいんです。迎えに来ますから」
何故スタッフからそんなことを言われるのか分からなかった。
うちわ……? ファンじゃないくせに応援のうちわを持っている罪で、説教でもされるのだろうか?
目の前のスタッフは俯いている。
暗いということもあるけれど、長い髪にキャップを目深にかぶっていて、顔が全く見えない。
ただ、口調はとても優しく、柔らかい声だった。
「お願いします」
今度は小声ではなくはっきりとそう言い、ゆっくりと去って行った。
「先輩、スタッフから何か言われたんですか?」
清水さんに彼の言葉は聞こえなかったようだ。
「……こういうアイドルのスタッフは、偽物のファンを捕まえようとしている……のでしょうか?」
わたしは混乱していたせいか、思ったことをそのまま口に出してしまった。
「え? なんですか、それ?」
彼女が怪訝な顔で聞いてくる。
「わたしにもわかりません。それにどうやったら、ファンの本物と偽物を見分けられるのか……謎ですし……」
無意識に、頬に手を当て考える。
グッズ売り場での様子を観察していたとか? はたまた、わたしがうちわを要らないと拒んだのを聞いていたとか?
わたしが無知なだけで、アイドルのファンを名乗るには厳しい掟があるのかもしれない。
でも、あの不審なスタッフに対して、何故か恐怖心や嫌悪感というものは一切湧かなかった。
どうやら彼の雰囲気や柔らかい声が、マイナスの要素を打ち消しているようだ。