Ⅵー3.さよなら
わたしは、理央さんのことが……。
本当はとっくに気づいていた。でも気づかないふりをして、深く考えることを避けてきた。
わたしでは駄目だと思いながら、彼に惹かれていた。
見つめられるたび、苦しかった。
額のタオルを交換しながら、彼の寝顔を見つめていた。目を覚ましてほしいようなほしくないような、不思議な感覚で……。
こんな綺麗で、温かくて優しい人、どこにもいない。いるはずがない。
惹かれない方がおかしかった……。
わたしはそっと彼の頬に触れた。
きっともう、こんなふうに彼を見ることができないとわかっていたから。
お昼少しすぎに着いたのに、外はもう暗かった。リビングのカーテンを閉める。
それから、キッチンでシンプルな卵粥を作って帰ることにした。
玄関を出て、先生が戻っているかもしれないと思った。
隣の部屋のインターフォンを押す。反応があり、すぐに扉を開けてくれた。
「理央は何か食べたか?」
先生は言った。
わたしは左右に頸を振り、理央さんの今の状況を説明した。
勿論、わたしとの間に起こったことは除いて(そんなこと言えるわけがない)。
「そうか……。また熱が上がったか」
先生はため息をついた。
彼は、わたしから必要以上に離れている。
桐原さんの事件からいつも近くにいたので、その距離は不自然だった。でも元の先生に戻った気がして、何故か少しほっとする。
「起きたら君の作った粥でも食べさせるよ」
「わたし、残りましょうか?」
「大丈夫だ。後は俺が看る。今日はありがとう」
先生は言った。
家に戻り、読みかけの恋愛小説を開いた。
恋愛小説といってもハッピーエンドばかりではない。悲恋だってあるし、曖昧な関係で終わるものだってある。
これまでそういう話をたくさん読んできた。
だからきっと平気……。
耐性があるはずだ。
わたしに、ハッピーエンドは似合わない。
理央さんには、絶対にわたしより相応しい女性が居る。彼に似つかわしい本物のお姫様が。
優しい彼は、決してわたしに愛想を尽かすことはないだろう。待っていたって離れていくこともない。それどころか、選択が間違いだとすら気づかない。
ずっと本さえあれば良い……はずだった。わたしには起こりえない現実。
あんな星の光みたいな人が、これまでずっとわたしを見つめてくれた。
それだけで、十分……。
理央さんには、もう会わない。
わたしはそう決めた。
翌日、翌々日も理央さんからの電話を無視した。
勿論心は痛んだ。それに、本当は体調が良くなったのかどうかだって知りたかった。
でも流されてはいけない。中途半端な優しさが同じことを繰り返す。もう二度とわたしとの無駄な逢瀬に、彼の貴重な時間を使わせるわけにはいかない。
奇しくも今日はバレンタインデー。職場の雰囲気がいつもと違っている。
例年通り、わたしには関係のないイベントになった。
彼に会う前の平穏な日々に戻った。
仕事をして、帰って本を読む。それの繰り返し……。
わたしは、あれからずっとハッピーエンドの恋愛小説ばかりを読んでいる。
せめて小説だけはと、自分の心の隙間を埋めようとしているのかもしれない。
来月には加納先生の新刊が出る。読みきり集らしいけれど、それだけを今から心待ちにしている。
先生にも、きっと二度と会うことはないのだろう。
雑踏の中、駅ビルの巨大パネルを見上げる。
気にせず通り過ぎたいけれど、どうしても足が止まってしまう。
パネルに映る彼は、ウルトラミラクルスーパースター。
肩を出したナチュラルな服で、変わらずこちらを見つめている。
最後の着信拒否から一週間が経った。もう二月も下旬。
定時に上がり正面玄関を出ると、いつもの場所に理央さんが立っていた。
何度も見た光景。
理央さんはいつもより淵の厚い黒縁眼鏡に帽子をかぶり、黒のロングコートを羽織っている。マスクで顔は見えない。
驚いたけれど足は止めなかった。
わたしは彼の前を通り過ぎる。
「待ってください!!」
腕を掴まれる。
「僕に会いたくないのは分かっています。でも、少しだけ話をしたいんです。お願いします」
柔らかい理央さんの声。伊達眼鏡から覗く綺麗な瞳は、真剣そのものだった。
少しも忘れてなんていない。目が合った瞬間、いや、もうその姿を見た瞬間、切なさが込み上げていた。
「離してください」
掴まれている腕から逃れて、遠くへ……。
早く遠くへ逃げたい。
「そんなに僕が嫌いですか? それとも佑月が好きなんですか?」
理央さんは周りを気にする様子もなく、はっきりとそう言った。
会社から出てきた何人かの同僚が立ち止ってこちらを見ている。
このままでは、ますます人が集まってきそうだった。逃げることは、きっとできない。
「別な場所に行きましょう。もう、逃げませんから……」
わたしは言った。
近くの公園に移動した。
小さい公園だが木が多く、ここなら目立つこともないだろう。
真冬の公園には、犬の散歩をしている人と学生のカップルが一組居るだけだった。
「すみません。寒くないですか?」
空いているベンチに座り、わたしは理央さんに聞いた。お店に入ることだってできたのに、勝手にこんな寒々しいところに連れてきてしまった。
理央さんはわたしの横に座り、黙って首を横に振った。
「あの日、ふみさんが作ってくれた、お粥を食べました。とても美味しかったです。だから、夢……ではないって分かりました。僕、謝っても許してもらえないようなことを貴方にしましたよね? 最低だって呆れていますか?」
理央さんは、自分が嫌われたのはあの行為のせいだと思っているようだ。
そうじゃないと否定したかったけれど、そんなことを言えば、結局また同じ……。情熱に負けて押し切られてしまう。わたしは何も返事をしなかった。
「当たり前ですよね。朦朧としていたとはいえ、一方的にあんなことして……。思いが通じていない状態で、そんなことすることはないって前に言ったと思います。言っていることとやっていることが違いますね。本当に……すみませんでした」
理央さんは俯いている。
「ふみさんは、佑月が好きなんですか?」
さっきと同じセリフ。
「……大丈夫なので、ちゃんと答えてください」
「先生のことは、心から尊敬しています。勿論好きですが、恋愛感情ではありません」
先生を好きだと言えば、理央さんは納得してくれるのかもしれない。だけど、そんな嘘はまた先生に迷惑をかけてしまう。
「ですが、理央さんにも恋愛感情はありません。……もう、関わらないでください。理央さんみたいな人……苦手です」
胸が痛かった。
側にいる資格がないと思いながら、ずっと流されてきた。彼を傷つけたくなくて……。
でも結局わたしは、今、彼を一番傷つける言葉を放っている。
理央さんの方を見ることができなかった。
泣きそうだったけれど、必死に耐えていた。わたしが泣くのは絶対に間違っている。
彼のために、悪女になるのだ。一世一代のお芝居。彼が本当の運命の女性を見つけてくれることがわたしの望み……。
そのために、わたしなんて完全に嫌われてしまえばいい。
理央さんの返事はなかった。
沈黙が流れる。
隣に居るのが本当に理央さんなのかすら疑わしく思えてきたころ、「分かりました」と彼は言った。
おそらく数分だったのだろうけれど、何十分にも数時間にも感じられた。
「送ります」
理央さんが言った。
こんなときでも、わたしの心配をする彼を、本当に愛おしく思う。
「結構です」
そう言って、わたしは立ち上がる。
「僕の方……見ないでください」
理央さんの声は震えていた。
「もう、送っていくことも許されないんですね……。気を付けて帰ってください。さよなら、ふみさん」
「さよなら、理央さん……」
わたしは理央さんを置いて、その場を去った。
歩きながら、ずっと堪え続けていた涙腺は決壊した。




