Ⅵー1
今日から二月。
あまり寝られず、仕事に行くのが辛い。
出勤すると桐原さんは当然のように休んでいた。わたしの気持ちは宙ぶらりんのままだ。
なんとか業務を終えて帰宅する。
できれば、今月はふんわりと甘い恋愛小説が読みたいと思った。
違う世界へ少し……逃避したい気分でもあった。
わたしは、ストックしてある本の山から恋愛小説を何冊か持ってきた。
とりあえず、短編集。
禁断症状かというくらいに、勢いよく文字を追っていく。眠気もどこかへ消えた。
短編集はなかなか糖度が高めだった。素敵な話ばかりだったけれど、不意にあの時の先生と桐原さんのキスシーンが思い出された。どうしてあんなにショックを受けてしまったのか未だにわからない。
一時でも忘れたくて小説を読んでいたのに、桐原さんのことが、より頭から離れなくなった。
土日を挟み、翌週も社内に桐原さんの姿はなかった。
彼女はもう、五日連続で欠勤している。普段休みがちと言っても、さすがにこんなに長期で休むことはない。
それに、気になっていることがあった。上司に一度連絡があっただけで、普段連絡を取り合っている清水さんでさえ連絡が取れないということだ。
そしてとうとう金曜の朝、一番恐れていたことが起きた。
桐原さんの退職……。体調が思わしくないから、東京を離れて田舎で静養するという理由だった。このままもう会社に来ることはないという。
淡々とした業務連絡のような上司の話を、わたしはどこか現実味のない話だと思いながら聞いていた。
どうしても桐原さんと話がしたいと思った。
わたしは彼女の電話番号を清水さんに聞き、思い切って自宅から電話をかけることにした。実際、清水さんの電話にすら出ないのだから期待はできない。
でも予想に反して、二回のコールで桐原さんはあっさりと電話を受けた。
「あの、茅野です……」
「……茅野さん……良かった。やっぱり茅野さんでしたか」
緊張しているわたしと対照的に、彼女の声は落ち着いていた。
「わたし、どうしても桐原さんと話したくて……」
「本当は、私の方から連絡するべきだと思っていました。でも、勇気がでなくて」
桐原さんは言った。
「ごめんなさい」
わたしは謝る。
「え?」
「今日、課長から聞きました。あの時のことが原因で……会社、辞めることにしたんですよね?」
「どうして謝ったりするんですか? 変ですよ? 例えそうだとしても、悪いのは私じゃないですか……」
桐原さんは、語尾を伸ばしたりはしなかったけど、普段のおっとりした口調でゆっくりとそう言った。
「もう、わたしと一緒に仕事をするのが嫌になったんですか?」
再びわたしは聞いた。辛い言葉を聞くことになろうと、事実を確かめたかった。
「だから……それを言うのは私の方じゃないですか? それに、全然違います。茅野さん、ずっと見当違いなことばかり言ってます」
桐原さんは、困ったような声で返事をする。
「どういうことですか?」
「もう今は、感謝しかないんです。茅野さんにも、勿論理央様にも……」
一拍置いて、彼女は続ける。
「手術を受けようと思ってるんです。私、小さいころからずっと心臓が悪くて……。でも手術を受けたところで、上手くいく確率も低くて……怖くて……今まで逃げて……。もう自棄みたいに、いつ死んでもいいって思ってました」
全く、思ってもいない話だった。朝の上司の言葉すら信じてはいなかった。これまで、桐原さんは他の人より少し体が弱いだけだと思っていたから。
「……理央様、何故かそのことを知っていました。こんな私に生きて欲しいって、力を分けてくれたんです。茅野さんには本当に嫌な思いをさせてしまったけど、あの瞬間、本当に本当に幸せでした。嫉妬する嫌な気持ちも一瞬で吹っ飛びました。私、本当に勝手で、多分茅野さんが健康体だってことにすら嫉妬してたんです。今なら分かります。茅野さんこそ、理央様に相応しいって」
わたしは無意識に、首を左右に振っていた。相応しくなんてない。でもここで否定してしまったら、これまでの先生の努力が全て無駄になってしまう。
先生は……。
先生は、多分……全て知った上で彼女の望みを叶えてあげたのだ。
彼女のことを勝手に調べあげて、慈善事業のつもりだろうか……。理央さんを守るためだけじゃなかった。
「田舎で静養しながら体力をつけて、万全の態勢で手術に臨みます。……もし許されるなら、いつか茅野さんと清水さんと三人で、美味しいケーキを食べに行きたいです。あの日行けなかったから……」
「あの日……?」
「理央様の舞台を見に行った日です。……楽しかったですね」
まだ三か月くらいしか経っていないのに、あの日がとても懐かしい。
「……行きましょう」
わたしは言った。事実を知った今、彼女に励ましや応援の言葉を掛けてあげるべきなんだろうけど、それは口先だけの軽い言葉になってしまいそうで言葉にできない。
「ずっと、連絡……待っています。絶対に、絶対に行きましょう」
代わりにわたしは、もう一度そう言った。
「……はい」
彼女の返事は涙声だった。
それでも、決して暗いものではなく希望に満ちていた。
翌日、休みだと言うのに何故だか早く目が覚めた。
昨日の桐原さんから聞いた話を思い出すと、本を読む気にはなれない。だからといってどうすることもできず、部屋着のまま掃除を始めた。
考えるより動いていた方が、まだいくらか楽だった。
掃除機の電源を切った途端、スマホが鳴る。
「君、暇か?」
先生の声だ。
凄いタイミングだと思った。
「先生……」
わたしは掃除機を放り投げて、そのまま崩れた。
「どうした? 何かあったのか?」
「桐原さんから全部……聞きました。酷いじゃないですか? どうしてそんな大事なこと、教えてくれなかったんですか? 一人で抱えて……ずっと一緒に居たのに、わたしってそんなに頼りなかったですか?」
自然と責めるような口調になっていた。今なら理央さんの気持ちが分かる。全て終わった後に聞かされても、どうしていいのか分からない。
「……俺が勝手に調べたことだ。彼女も、君には知られたくないかもしれないと思ってな。それに知ったところで……君も辛いだけだろう」
「先生は、知っていたから彼女に優しくしていたんですね?」
「優しくしたつもりはない。穏便に収めるための対応をしただけだ」
「……嘘です。分かります。先生は、本当に小説のイメージ通りの人ですね」
わたしはそう言った。
表面には表さないけれど、心はとても温かい……。先生の小説の世界には、そういう人が沢山居る。
「……彼女は大丈夫そうか?」
「はい。……きっと、また会えるって信じています」
「そうだな」
先生は言った。




