Ⅴー7
二人の口づけは長かった。
離れると同時に、彼女は崩れて床にへたり込む。両手で胸のあたりを押さえていた。
「理央様……うれしい」
桐原さんはそう言って、今度は両手で顔を覆った。
「一人で帰れますか?」
理央さんの言葉に、彼女はそのまま……こくりと頷く。そしてしばらく放心していたけれど、突然思い出したかのようにわたしを見つめた。
彼女は、もうわたしの知らない彼女ではなかった。
「……茅野さん、すみませんでした。でも、理央様を不幸にしたら絶対に絶対に許しません……。それだけは……覚えておいてください」
いつものおっとりとした口調だった。
理央さんは、スマホから電話を掛けた。
「すぐマンションの下に、タクシーが来ます。支払いをする必要はありませんから」
「すみません。……ありがとうございます。今日のこと、一生忘れません」
彼女は理央さんに一礼すると、よろよろと部屋を出て行く。
すべての動作は決められていたかのように滑らかで、映画のワンシーンを見ている錯覚に陥る。わたしはただの傍観者。玄関へ向かう彼女に、返事をすることさえできない。
取り残されてしまったのだと思った。
出て行ったのは桐原さん……。わたしの側には理央さんが居たけれど、その距離はとても遠い。
「……大丈夫か? 嫌なものを見せたな」
彼にそう言われ、急に現実に引き戻される。
わたしの目の前に居た理央さんは消えた。
口調が変わっただけで、先生はもう理央さんには見えない。
何気に、手のひらで自分の頬に触ると冷たかった。何の感覚もなかったのに……いつの間に泣いていたのだろう? わけがわからない。
「……すみません。先生の方こそ、大丈夫ですか?」
わたしは、慌てて涙を拭いながらそう聞いた。
先生は答えず、そっとわたしの頭を撫でた。
「先生?」
「……理央の代わりだ」
その声は優しく、何だか理由のわからない涙がまた流れそうになった。
「何か作るから食べていけ」
わたしが落ち着くのを見計らって、先生はそう言った。
「いえ……。もう、帰ります」
「……送っていく」
「大丈夫です。一人で帰れます」
「そんな状態の君を一人で返せない。理央に怒られる」
先生は困った顔でわたしを見ていた。
「……わかりました。すみません。でも、これで終わったんですよね? やっと先生を解放してあげられます。迷惑をかけてしまって、本当に……すみませんでした」
彼は軽く左右に頸を振った。
「君が謝ることではないだろう。今は彼女を許せないかもしれないが、いつかは……許してやってほしい」
「どうしてそんなことを言うんですか? 先生の方が被害者なのに……。許すも許さないも、元はと言えばわたしが理央さんのコンサートに行ったせいじゃないですか? 悪いのはわたしです」
「そんな言い方をするな。君は、理央に会わなければ良かったとでもいうのか?」
「いえ……」
無意識に、そう返事をしている自分に驚く。
理央さんに会わなければ良かった……はずだ。こんな事態になったのも、理央さんがわたしを運命の相手だなんて勘違いすることになってしまったのも、全てはコンサートに行ったせい。
彼に相応しくないわたしは、ずっと彼に会わなければ良かったと、思い続けているべきなのに……。
先生の部屋を出て、通路から隣の部屋に目を向ける。
「理央さんはお隣に居るんですか?」
「いや、撮影が押しているからまだ帰ってないはずだ。理央には悪いが、ここのところずっと仕事をわざと多く入れている」
「そうですか……」
「会いたいか?」
わたしは、マスクをかけた先生を見つめた。
「何を迷っているのか分からないが、自分の気持ちに正直になったらどうだ?」
そう言われ、胸が苦しくなる。何か返そうと思い口を開いたけれど、それは言葉に出来ない。
アパートまで送って貰い、先生と別れた。
自分の部屋に入った途端に力が抜ける。
終わった……。先生が終わらせてくれた。理央さんに嫌な思いをさせることなく……。
これで、ようやく先生も執筆活動とマネージャー業に専念できるだろう。
明日から、桐原さんや古杉さんとどう向き合ったらいいのか不安はある。でも、もうそれはわたしが一人で解決しなければいけない問題だ。
翌日は雨だった。出勤すると、待ち構えていたように、古杉さんが小走りに近づき話しかけてきた。
「すみませんでした」
開口一番、彼はそう言った。
「ずっと休んでいたので心配しました」
わたしは思っていたことを伝えた。勿論、彼を責める気持ちなんてない。
「姫に心配してもらえるなんて嬉しいです。休んでいる間、僕なりに考えて……僕は、姫が選んだ人を信じることにしました。姫が幸せならそれでいい。姫と彼のこと、誰にも言いふらしたりしません。本当です。姫には、心から幸せになって欲しいと思っています」
彼は、桐原さんと同じことを言った。
「姫なんて……やめてください。同じ職場の仲間じゃないですか。仕事、一緒に頑張りましょう?」
わたしは言った。
「……はい」
彼は、恥ずかしそうに俯きながら返事をする。
やっぱり悪い人には見えない。古杉さんは思い込みが激しいけれど、その分繊細で、とても純粋な人なのではないかと思った。
古杉さんと話し終えて、桐原さんを探す。出社していないのか、彼女の姿はどこにも見えない。
近くを通った清水さんに尋ねてみる。
「桐原さんですか? 来てないですね。体調が悪いのかもしれないですけど、今日は何も聞いてないです。そうそう、先輩、私、新発売のお菓子いっぱい買ってきたので、休憩時間に食べましょう? どうせなら桐原さんも居ればよかったですね」
彼女は、呑気に微笑んでそう言った。
上司に聞きに行くと、彼女から会社に体調不良のため欠勤したいと連絡があったことが分かった。
ただ、本当に体調を崩したのか、単にわたしに会いたくないせいなのか、本当の理由を確かめるすべはない。
夕方になり、ますます雨脚は強まっていた。
終業時間が来ても、わたしは桐原さんのことが気になり、決して明るい気持ちにはなれなかった。
正面玄関を出ると、いつもの場所に傘を差した先生が立っていた。
街灯の下、先生は軽く手を上げる。
わたしは彼に近づいて言った。
「……どうしたんですか? こんな雨の中……。あの、心配しないでください。もうわたしは大丈夫です」
先生は返事をせず、眼鏡越しにこちらをじっと見つめている。
「先生……?」
わたしは首を傾げ、彼の返事を待った。
「先……生……?」
彼は、驚いた声で聞いた。
瞬時に気付く。
「理央……さん」
暗い雨が、彼が纏う柔らかいオレンジ色の光を打ち消していた。




