Ⅴー4
「古杉さん、無理やり付き合わされているなんて、そんなこと誰から聞いたんですか?」
彼はわたしの問いに答えず、首を横に振った。
「貴方と同じ会社の人間……ですか?」
今度は先生が聞いた。彼は沈黙したまま、答えたくないのか、頑なに首を振り続ける。
「……まあ、いいです。でもあなたの姫は返せません。もう、僕のものですから……」
え……?
驚きのあまり、叫びそうになった。
先生はわたしに熱っぽい視線を向ける。
何か言いたそうだ。
それで、わたしはようやく気付いた。
「古杉さん、わたしは先……理央さんのことが大好きです。だから、無理やりなんてことありません。……誤解です」
考えながら、必死でそう言った。
つまり、これは全てがお芝居なのだ。
「ひ、姫は……姫は……本当に、幸せなんですか?」
古杉さんは掠れた声でそう訊ねる。
わたしは、黙って頷いた。
彼は「わかりました」と言い、どういうわけだか泣いていた。
そのまま項垂れて泣き続ける。意味が分からない。
この場でただ一人、彼だけはお芝居ではなかった。これがお芝居だとしたら、あまりにも素晴らしい役者に他ならない。
古杉さんは、わたしより二年あとに入社してきた後輩で、毎日わたしの斜め前の席で仕事をしている。
けれど、あまり職場での接点はなく、今までほとんど話をしたことがない。
わたしが姫だなんて、古杉さんの妄想というか、ありえない幻想だ。彼のフィルターのかかった美しい世界についていけるはずがないし、今までずっとそんなふうに見られていたのかと思うと正直怖かった。すぐ近くで一緒に仕事をしているのに、まるで違う世界の人間のようで……。
でも例え幻想のわたしだとしても、これまで彼がわたしに好意を持ってくれていたということだけは、きっと真実なのだろう。
いまだ涙が止まらない彼を見ていたら、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「ごめんなさい」
わたしは、彼を悲しませていることに対して心から謝った。
今日はこれ以上彼から何かを聞き出すのは困難だと判断し、先生とわたしはこの場を離れることにした。
それから、そんな気分ではなかったけれど、なんとなくふらふらと予定通りラーメン屋さんに向かった。
ラーメンを食べ終えても、わたしたちの間に会話はなかった。
先生はずっと何かを考えているようだったし、わたしはこの件に同じ会社の人間が関わっていることにショックを受けていた。
理央さんではなく、多分原因はわたしなのだ。
きっと古杉さんに変なことを吹き込んだ人間が黒幕で、それはわたしの知っている人物に違いない。
一体誰が……。
この間の彼氏どうこうの騒ぎの時には、理央さんのことは、誰にもばれていなかったはずだ。
「……君には少し酷なことになると思う」
わたしをアパートまで送ってくれた先生は、静かにそう言った。彼は車に乗った時点で鬱陶しかったのか、マスクと眼鏡をさっさと外していた。
「どういう意味ですか?」
「また明日、会社の前で待ってる」
わたしの質問に答えず、振り向いて先生は言った。
「大丈夫だ。そんな顔をするな」
きっと暗い顔をしていたのだろう。彼は気遣ってくれたのだと思うが、優しく微笑む。
その表情は本当に理央さんによく似ていた。
わたしはお礼を言って、先生と別れた。
ここで落ち込んでいてもどうにもならない。
早く先生を解放してあげたい。多忙な彼を、いつまでも振り回していいはずがない。
翌日、定時少し過ぎにわたしが会社から出ると、昨日と同じ場所で先生は待っていた。
「お待たせしました」
わたしは言った。
「ああ、お疲れさま。……あの男は?」
先生は聞いた。
「それが……古杉さんは、今日は仕事に来ていなくて。無断欠勤みたいです」
先生は返事をせず、わたしの手を取り、優しく繋いだ。
昨日も同じことをされたのに、やっぱり吃驚してしまう。
今日の彼の手は、また一段と冷たい。空気が冷えていて、雪でも降ってきそうな気配だった。
「……寒いですよね。どこかお店の中とかで待っていてくれれば良かったのに……」
わたしは言った。
「それでは意味がないだろう」
マスクをしているため、口元は見えなかったが、先生は笑っているようだ。
今日も口調以外は理央さんそのもの……。
昨日の様子から分かっていたけれど、彼はこうして理央さんのふりをして、おとり捜査をしている。
「先輩!!」
背後から声がした。清水さんだった。
桐原さんも一緒で、彼女は少し離れたところに立っている。
「ちょっと先輩、余計なことだと思いますけど、彼氏さんとこんなところに居たら、折角落ち着いた職場の男性がまた騒ぎ出しますよ?」
清水さんがわたしの横に来て、小声で言った。
「仲がいいですね」
桐原さんはわたしたちの繋いだ手を見て微笑む。
偽物の彼氏の正体が理央さんだと(ややこしいことに、更に今は偽物の偽物なんだけど)彼女たちに気づかれてしまうと、また厄介なことになる。
「行きましょうか」
わたしの気持ちを察してくれたのか、先生はそう言うと、彼女たちに軽く会釈をして先に歩き出した。
「……大丈夫か?」
二人きりになった途端、先生はいつもの口調でそう言った。
「何がですか?」
返事がない。立ち止って、わたしをじっと見つめる。
先生らしくなかった。わたしはまた、そんなに暗い顔をしていたのだろうか?
「先生……?」
「……寿司でも食べて帰るか」
「え? 手紙の犯人を探さなくていいんですか?」
「ああ」
どうでもいいような返事をする。これでは、彼は何のために会社まで来たのかわからない。本日のおとり捜査は失敗……ということだろうか?
尤も、古杉さんに会うことが目的だったようだし、居ないものは動きようもないということかもしれない。
それから、先生は本当にわたしをお寿司屋さんに連れてきた。
わたしが普段利用できそうもない高そうなお店だ。
「嫌いなものはないか?」
カウンター席に座り、そう聞かれる。
「ないです」と答えると、彼は板前さんに「お任せで」と慣れた様子で伝えた。
「さて、どうするかな」
先生は言った。さて、という言い方がなんだかわざとらしい。
「何が……ですか?」
「さっきの女性たちは?」
「会社の後輩ですよ。横で話してきたのは清水さんで、少し離れて見ていたのは桐原さんです」
「ああ。彼女たちか……」
「先生も清水さんとはコンサート会場で一度会いましたし、電話でも話したことがありますよね?」
「グッズを送った彼女だな」
「はい」
「桐原さん……」
間を置く。
俯いた先生の表情は見えない。理央さんと同じセピアの髪が、美しい顔を隠している。
「明日、仕事が終わったら桐原さんを俺のマンションに連れてきてくれないか?」
彼はそう言った。




