Ⅲー5
本来この時間、外は真っ暗だ。でも、会社の周辺はお店が立ち並んでいて明かりが煌々としている。
この場所では、理央さんの姿がはっきりと見えた。
「ちょっと、邪魔しちゃ悪いですよ~。どう見ても彼氏さんですし」
桐原さんが小声でそう言って、清水さんの腕を引っ張る。
「え? あ、先輩すみません。私、何も考えないで声かけてしまって……」
清水さんは慌てて謝る。
「ふみさんと同じ会社の方ですか?」
理央さんが言った。
わたしは吃驚して、隣に居る彼を思いっきり見てしまう。
「はい、そうです。先輩にはいつもお世話になっています」
「こちらこそ。ああ、後輩の……もしかしてコンサートに一緒に行かれた方ですか?」
そう聞いた理央さんは、このまま普通に自己紹介をしそうな勢いだ。
清水さんはマスク姿の理央さんをじっと見ている。
「えっと、ごめんなさい。映画に……。これから、わたしたち映画に行くんです。急いでいるので」
わたしは言うと同時に、理央さんの手を引いた。
彼の手はとても冷たかった。
不自然にならないように映画館の方向に走って、彼女たちが見えない距離まで来たところで手を離した。
「……理央さん……ごめんなさい。……手、痛くなかった……ですか?」
わたしは、走ったせいで息が上がってしまい、途切れ途切れに訊ねる。
「平気です。……寧ろ、嬉しかったです」
彼は言った。体力のないわたしと違い、理央さんは至って普通に返す。
でも、走ったせいで眼鏡が曇ってしまうようでマスクを外した。
「理央さん、今、普通に名乗ろうとしてませんでしたか?」
「さすがにそんなことはしないです。騒ぎになれば、ふみさんと会えなくなってしまいますから」
「でも、名乗らなくてもばれそうでしたよ? あの、知ってると思いますけど、彼女たち理央さんの大ファンなんです。……気づいてないと……いいですけど」
「ふみさんの後輩なら、いい子たちなんじゃないですか? でも、万が一気づかれていたら口止めでもしましょうか?」
「どうやって?」
理央さんは答えず、悪戯っぽく笑った。
「まあ、気付かれてないと思いますよ。それより映画……見ますか?」
わたしは首を横に振った。
「……お腹がすきました。ラーメンが食べたいです」
わたしがそう言うと、理央さんは更に笑った。
絶対に理央さんの正体がばれないであろう例のラーメン屋さんで食事をした後、彼は言った。
「今日は誘いに来たんです。プラネタリウムに行きませんか?」
「え? 突然ですね。今からですか?」
「いえ、仕事帰りはさすがに疲れているでしょうし、良かったら別の日に。今月までアンドロメダ銀河を上映しているんですよ」
「理央さん、星が好きなんですか?」
彼は頷いて、それから少し遠慮がちに聞いた。
「今度のお休みは……どうですか?」
「……大丈夫です」
わたしはそう返した。
理央さんは嬉しそうに「よかった」と言った。
それから彼は、アンドロメダ銀河について話した。
話の内容はあまりよく分からなかったけれど、話をする理央さんの瞳がキラキラ輝いている。
星を見る彼の瞳は、今以上にきっと星より綺麗だろう。
やっぱり拒むことなんてできない。
彼の笑顔を壊したくはない。
でも、きっとそれは特別なことではなく、普通の人間なら誰だって思う感情だ。
今日も車で送ってもらい(もう揉めたくないので素直に従うことにした)、アパートの前で別れた。
土曜の午後、理央さんが迎えに来てくれた。
そしてわたしを見るなり、
「ふみさん、とっても可愛いです」と言った。
理央さんは年上のわたしに、いつも躊躇いもなく可愛いと言う。今日はきっとふわふわのベレー帽のおかげだと思う。
でも、わたしの格好なんてどうでもいい。
驚くべきは、本日の理央さんのビジュアルだ。
彼の髪はセピア色ではなく、長いアッシュグレーのストレート。一見全く理央さんだと分からない。あの舞台のときとも印象が違っている。
なんだかコスプレっぽいけど、格好いいのは間違いない。元が綺麗な人はなんでも似合っていいなと思う。
服装はネクタイを締めているせいか、クールでスタイリッシュな印象。そして例によって、淵の厚い眼鏡にマスクという顔が見えない鉄壁の守りだった。
「髪型、変えたんですか?」とわたしは聞いた。
「え?」
理央さんは驚いた声を出した後、吹き出した。変なことを言ったつもりはない。
「あはは……急にこんなに……伸びるわけがないですよ。これは、ウィッグです。衣装さんから借りてきました。目立ちそうですけど、返って目立たないと思うんですよね」と楽しそうに言った。
まあ、普通に考えたら地毛のわけがない。ウィッグは肩に付きそうな長さで、普段の髪をいくらストレートに伸ばしてもここまで長くはならないはずだ。……馬鹿みたいな質問をしてしまった。
理央さんは、当然のようにわたしを助手席までエスコートしてから運転席に座った。
そういえば先生も寄るなと言っている割に、何気にいつも理央さんと同じようにエスコートしてくれる。そこは兄弟だからかよく似ている。
「……今日はますます、王子様……みたいですね」
わたしは小声で呟いた。
「王子様?」
「えっと、なんでもないです」
理央さんは覗き込むように、俯くわたしを見る。
だからホントに、運転中は危ないから運転に集中してほしい。
「じゃあ、ふみさんは僕のお姫様ですね」
彼は言った。
わたしはどう考えても、お姫様という柄ではない。わたしの中のお姫様のイメージは、甘くてふんわりとしている。
身近なところでいえば、桐原さん。彼女なら合格だろう。
女性はみんなお姫様だなんて幻想だ。
彼の基準はおかしい。しかも、冗談ではなく本心から言っていそうなところが怖い……。
やっぱりおかしな遺伝子のせいで、通常の感覚ではないのだろう。
暗闇で機械的なアナウンスが流れる。学生時代の視聴覚室を思い出し、懐かしくも心地良い。十数年前に戻ったような不思議な感覚だった。
美しいプラネタリウムを見ながら、すっかりノスタルジックな気持ちになったわたしは、故郷の星空を思い出していた。
元々俯き加減で生きていたけれど、最近、より一層空を見上げることは少なくなったように思う。
本物ではないって分かっているのに、本当に綺麗……。
上映が終わり、照明が点くと理央さんはわたしを見て「綺麗でしたね」と微笑んだ。
いつの間に外したのか、眼鏡もマスクもしていない。
綺麗なのは理央さんだ。
今の理央さんは思っていた通り、プラネタリウムの星の輝きにも負けてはいない。
「理央さんが星みたいです」
わたしは言った。
「え?」
「すみません。なんでも、ないです」
「……なんか今日のふみさん、変ですよ?」
眩しすぎて、彼から目を反らす。
変ではない。きっと、今のわたしは正常……。チカチカする。
平気で理央さんを見ていたこれまでが、正常ではなかった。
「ご飯食べて帰りましょう?」
彼が言った。
理央さんから早く離れたいと思う。それでも、彼の輝く瞳を曇らせたくはない。
わたしは黙って頷いた。
理央さんが予約してくれていたイタリアンのお店は、トラットリアだけれど個室もあり、魚介を使ったパスタが絶品だった。
お店の店員さんは、コスプレ風の理央さんと釣り合いのとれないわたしを不思議に見ることもなく、自然体で接客してくれた。
彼の馴染みの店のようだ。
美味しいパスタを食べ終え、お店を出る。
ふと見上げた空はただの闇だった。
「今日は曇り空で本物の星は見えませんね」
わたしは言った。
「プラネタリウムではなく、いつか本物の星が沢山見えるところに行きましょう」
理央さんが優しく笑った。
「そうですね」
わたしは、ただの相槌ともとれる口調で答える。
「また連絡します」
別れ際、理央さんは当然のようにそう言った。
今日も理央さんは、わたしに嫌な顔一つしなかった。
いつになったら、わたしに愛想を尽かすのだろう。彼の哀しい顔を見たくはないと言っても、このままではかなりの長期戦になりそうだ。
どちらにしたって最終的には離れる。ただただ、それまで苦しい。一刻も早く分かって欲しい。彼の運命の女性はわたしではないと。
わたしなんかで、あるはずがない……。




