Ⅲー3
わたしは本の表紙に印刷された作者名をじっと見つめた。
柚木さんは近くにあった紙に、『叶佑月』と書いてわたしに見せた。
「つまり、『ゆずき』って名字じゃなかったんですね?」
しかも正確には『ゆずき』ではなく『ゆづき』だ。勘違いしたわたしは、勝手に頭の中で『柚木』と変換し、親しくもないのにずっと彼の下の名を呼んでいたということになる。
でも彼だって悪い。最初に会ったときに自分の名字を名乗らなかったのだから。
読みは一緒だけど、ペンネームは漢字だけを変えているらしい。
叶なんて珍しいし、もしかしたら理央さんとは血縁関係にあるのかもしれない。それを隠したくて最初に名字を名乗らなかったという可能性もある……。
もし、理央さんの家系の男性なら彼も例の特殊な遺伝子を持っているはずだ。
もう急に入ってきた情報量が多すぎて、何に対して驚いていいのか分からない。
だけど、これだけは言える。
とにかく目の前に居るのは、あの尊敬する加納弓槻先生なのだ。
「先生……本にサインして貰えますか? 大ファンです」
わたしは緊張しながら、おずおずと本を先生に差し出す。
「……サインなんていくらでもする。理央には俺のファンだと言わないでほしい」
「……どうしてですか?」
「必要なら後で説明する。それから、今まで通り佑月と呼べ。この状況で理央がいつ戻るか分からない。今すぐその本をしまって、小説の話題には一切触れるな」
先生が言い終わると同時に、タイミングよく控室の扉が開いた。
わたしは慌てて本をバックにしまう。
理央さんが入ってくる。
「ふみさん、来てくれたんですね。お待たせしてしまいすみません」
舞台上で見た格好そのままの理央さんは、わたしに近づきそう言った。
長めの髪は、シルバーのストレート。瞳はブルーサファイア。
わたしは、咄嗟に立ち上がる。
「席に居た時から思っていましたが、今日はいつにも増してすごく可愛いですね」
彼が言った。
「あ……ありがとうございます」
どうやら独白の時、彼がこちらを見ているように感じられたのは、気のせいではなかったようだ。
わたしはいつもと違う彼を、じっと見てしまう。
「変ですか?」
理央さんは言った。
「いえ、とても似合っています。舞台、素敵でした。……セリフ飛びませんでしたね」
わたしは言った。
「みっともないところは、お見せできませんから」
理央さんは笑っている。
表情のない執事ロボットの姿で、不意打ち……。
設定上、絶対に無理なのだけど、一度でいいから舞台でその美しい笑顔を観られたなら、どんなに幸せだっただろうと思った。
清水さんと桐原さんなら、見た途端に卒倒してしまいそうだ。
「どこに行ってたんだ?」
加納先生が理央さんに言った。
「ああ、スタッフに呼ばれて舞台だよ。立ち位置の細かい修正」
「そうか……。なにか温かい飲み物でも買ってくる」
加納先生はそう言って、控室を出て行った。
多分、わざと二人きりにした。
配慮のつもりだろうけど、先生は理央さんに気を遣いすぎているような気がする。
本来、マネージャーなら所属タレントの恋愛を止める立場にあるはずだ。それなのに、最初に会った時から理央さんを応援しているとしか思えないような言動。
やっぱり理央さんの例の秘密を知っているからだろうか? 理央さんとは一体どういう関係で、なぜマネージャーと作家を掛け持ちしているのだろう? 芸能界の小説を書くための潜入調査……というのは、考え過ぎだろうか?
それにしても、次々とあり得ないことばかり起こる。
「ふみさん、どうかしたんですか?」
「え?」
わたしは、いつの間にか考えながら険しい表情になっていたらしい。
「心ここにあらずといった感じなので」
「すみません。そういうわけじゃないんです」
否定はしたけれど、わたしは目の前に居る理央さんより先生のことを気にしていた。
彼の舞台を見に来たのに、失礼にも程がある。
「あの……舞台のお話、ソーマさんがずっと無表情なのは驚きましたけど、無表情で流す涙ってより切なかったです。ラストは人魚姫を思い出してしまいました」
ソーマというのは、理央さんが演じたロボットの名前だ。
「そうですね。でもまだ人魚姫よりずっと幸せだと思います。消えてしまったけれど、二人の想いは通じ合っていましたから……。相手役の女優さんには申し訳ないですが、演じながら僕が心に思うのはただ一人だけです」
理央さんはそう言った。
美しい執事ロボットが、わたしをじっと見つめている。
鈍いわたしでもさすがに分かる。
それは現実ではなく、舞台の続きを見ているような感覚。
目を反らすこともできず、沈黙が流れる。
理央さんは微笑し、「すみません。困らせてしまいましたね」と言った。
「……また、連絡してもいいですか?」
彼が言った。
わたしは黙って頷く。
「最終なら良かったんですが、この後もう一公演あります。すみませんが今日も佑月に送って貰ってください」
「あの、大丈夫です。わたし一人で帰れます」
「本当は送って行きたいんです。だから、せめて僕の代わりに。佑月なら僕も安心ですから」
理央さんは言った。
いくらマネージャーの仕事とはいえ、加納先生の意思は完全に無視だ。
少しして、先生が戻ってきた。
外まで買いに行ったのか、某有名コーヒー店の袋を持っている。袋からドリンクを取り出し、わたしと理央さんに差し出した。
お礼を言って一口飲むと、コーヒーではなくキャラメルラテだった。
温かさとキャラメルの甘さは、緊張を溶かした。
理央さんが、わたしを送って行ってほしいと伝えると、先生は「分かった」と一言だけ返事をした。
やっぱり、サングラスの下の表情は読み取れない。
わたしは理央さんの控室を後にした。
「送ってもらわなくて、大丈夫ですので」
通路に出て、わたしは加納先生にそう言った。
「……いいから」と彼は言った。なんだか強い意志が感じられて、それ以上何も返せない。黙って付いて行く。
駐車場に白のワゴン車が停まっていた。先生はドアを開け、わたしを後部座席に乗せてから運転席に周った。




