新聞記事 Ⅷ
実は遼太郎は、みのりがこの第2グラウンドに姿を現した直後から気が付いていた。誘惑に負けて、一度だけみのりの方を見てしまったが、努めて練習に集中しようとした。
いつも通りの自分の姿を見てほしいという気持ちもあった。でもそれ以上に、仲間の前でみのりとやり取りをすると、みんなに自分の気持ちを知られてしまうんではないか…という気がかりもあった。
本当は、休憩になってすぐに、二俣のようにみのりの許へ駆け寄りたかったが、チームメイトに話しかけられたこともあって、それができなかった。
遼太郎は練習に戻っても、グラウンドの端を歩いて、職員室へと戻ろうとするみのりが気になってしょうがなかった。
サインプレーを確認しながらの、アタックとディフェンスの練習を始めると、みのりは足を止めてそれをしばらく眺めていた。
それを視線の端に留めながら、遼太郎はサインを指示しパスを出し走る。1・2年生にディフェンス役をさせて、本番さながらのタックルを食らう。何度かそれを繰り返した時、再びみのりが歩き始めた。
…と思ったら、みのりが積み重ねられたコンタクトバッグにつまずいて、ひっくり返った。
練習を見ることに気を取られていて、コンタクトバッグに気が付かなかったらしい。
遼太郎のところへ回ってきたパスは、すっぽ抜けてしまった。
「…悪い、宇津木。ちょっと代わりやっといて。」
と言った時には、すでに遼太郎は違う場所へ走り出していた。
宇津木は、遼太郎が引退した後、スタンドオフを任されると目されている2年生だ。
前回の試合で、遼太郎が出血退場した時同様、突然3年生に指示を出す役が回ってきて、宇津木はおっかなびっくりだ。
遼太郎がみのりの許へ走っていくと、みのりはまだコンタクトバッグの間に、うつぶせで倒れていた。
「大丈夫ですか?先生。」
遼太郎は足を踏ん張り、みのりの両脇に手を差し入れて、ヒョイッとみのりを抱え起こした。
運悪く倒れこんだところには水たまりがあり、みのりの洋服は泥水にまみれていた。顔にも泥水が跳ね飛んでいる。
遼太郎に立たせてもらったものの、みのりは呆然として、自分に何が起こったのか、まだ完全に把握できていない。
遼太郎は部室へ取って返して、自分のバッグからタオルを取り出し、それを持って戻ってきた。みのりはようやく状況に気づき、自分の姿を見下ろして情けない表情をしている。
そして、ハッとして手にあるファイルを確かめて、笑顔になった。
「よかった…。これは無事だった。」
遼太郎が腕を伸ばして、その笑顔を汚している泥水をタオルで拭うと、そのタオルの感触に気づいたみのりが遼太郎を見上げる。
「わわ!狩野くん。これ、タオルが汚れちゃうから!」
みのりは慌てて、遼太郎の行為を拒もうとした。
「大丈夫です。まだ予備がありますから。」
遼太郎は優しく微笑した。
みのりを見下ろしながらその肩に手を添え、濡れて前髪が張り付く額から、顎の下に付いた泥水までも拭き取った。
みのりはしょうがなく、おとなしくされるがままになっている。
「服の方は、もう浸み込んでしまってますね…。」
みのりの前面は泥だらけで、もうタオルで拭いても再起不能だった。
と言っても、拭いてあげている遼太郎の方がもっとひどく、ジャージのみならずパンツもストッキングも全身が泥だらけの状態だ。
「…狩野くん、あきれてるでしょう?こんなにドンくさいの、ありえないもの。」
みのりが情けない顔をして、再び遼太郎を見上げた。遼太郎の微笑が、笑い顔になる。
「予想してたんで、あきれてません。」
みのりは遼太郎のその言葉に絶句して、赤くなった。
〝予想していた〟ということは、いつも自分がドンくさいことをしているということだ。
恥ずかしくなって、下を向くと靴を履いていない。
「あれ?靴…。」
キョロキョロと靴を探すと、倒れる時に飛んで行ったらしく、少し離れたところに転がっていたパンプスを、遼太郎が拾って持って来てくれた。
片足立ちになってみのりがそれを履こうとすると、遼太郎はみのりの背中に手を添えて倒れないように支えた。
「ありがとう。…私、ここに来ちゃいけなかったわね。狩野くんに迷惑かけて、練習の邪魔して…。」
「……そんなことありません!」
遼太郎は即座にみのりの言葉を打ち消したが、みのりの表情を見て、その否定はみのりの心に届いていないと分かった。
「生徒のお世話をするはずの教師が、逆にお世話してもらうなんて…情けないわ。」
みのりの落ち込んだ顔を、遼太郎は見つめた。どうにかして、みのりの心を晴らしたかった。
「先生は、随分俺にお世話してくれたから、たまには俺にもお世話させてください。俺の流血に比べたら、泥水なんて大したことないし。」
遼太郎がそう言うと、みのりは少し沈黙した。
「…狩野くんの流血には、二度も遭遇したわね。」
と、みのりの声色が、少し明るくなる。
「俺、血の気が多いんです。」
と、珍しく遼太郎が冗談を言ったので、みのりはフッと息を漏らして口元をほころばせた。
遼太郎はみのりと寄り添うように傍を歩き、グラウンドの入口までみのりを送った。そして、アスファルトの道路にみのりの足が着いたのを、安心するように確認した。
「先生、ありがとうございました。新聞のコピーもそうだけど、練習、見に来てくれて、嬉しかったです。」
みのりはそう言った遼太郎を見上げて、息を呑んだ。
「狩野くんは、優しいね。そう言ってくれると、私も嬉しい。」
嬉しいとは言っているが、それだけではない複雑な微笑みを、みのりは湛えた。
「そのタオル、洗って返したいから、ちょっと貸しててくれる?」
「いや、どうせ俺が汚すものだったんだから、いいです。」
遼太郎が首を横に振ると、みのりは遼太郎を真剣な目でジッと見つめた。
「お願い…。」
予期していなかったこの懇願は、遼太郎の全身に電流を走らせた。意識と身体が硬直して、動けなくなる。すると、みのりは黙って、遼太郎のその手からタオルを抜き取った。
「今度こそ、それじゃ、また明日ね。」
みのりはサッと道路を渡り、校門の前で振り返るとそう言った。
遼太郎はぎこちなく会釈をし、踵を返して練習に戻る。みのりはその遼太郎の後ろ姿に、
「狩野くん。助けてくれて、ありがとう。」
と、もう一言声をかけた。
遼太郎の意識はまだ痺れていたが、みのりのその明るい声に振り返って、もう一度軽く頭を下げた。




