新聞記事 Ⅱ
この日の遼太郎も、とても早く問題を解き終えた。
知識もさることながら、問題を的確に判断する読解力も身に付いたみたいだ。みのりがあまり解説する余地もないので、個別指導は随分早く終わってしまった。
さて、後の時間はどうしよう…と、みのりが思っていた時、
「そうだ……。」
と、遼太郎が何かを思い出した。
ポケットに手を突っ込み、差し出された手のひらには、みのりのハンカチが載っていた。
「これ、ありがとうございました。」
思いもよらない物が出てきて、みのりは目を丸くする。
「狩野くんが預かってくれてたの?」
「試合の帰り際、メディカルの先生が渡してくれて…。」
遼太郎が笑みを帯びた顔をする。その顔と、受け取ったハンカチを、みのりは交互に見て言った。
「これ、お母さんがしてくれたの?」
「何をですか?」
「洗濯とアイロンがけ。」
それを指摘されて、遼太郎の顔は、ほのかに赤くなった。
「…いや、俺がしました…。母さんに頼むと、いろいろ厄介なんで。」
女物のハンカチだから、詮索されてしまうということだろうか…。
遼太郎がアイロンをかけているところを想像して、みのりは今にも笑いだしそうな顔になった。
「そう、ありがとう。」
みのりが礼を言うと、遼太郎は首を横に振った。
「俺の血で汚したんですから……。」
あの時、みのりは自分の口に指を入れて、血にまみれたマウスガードを取り出してくれた。あんなことまでしてくれたことを、改めて遼太郎は思い出した。
あの時のことを口に出して言うと、いつもの自分でいられなくなる不安はあったが、言わずにはいられなかった。
「先生、あの時は本当にありがとうございました。先生がいなかったら、あの試合は勝ててなかったかもしれません。」
遼太郎はみのりの方へきちんと向き、丁寧に頭を下げた。
改まった態度をとられて、みのりは戸惑った。
「私がいなかったら…なんて、大袈裟ね。私が処置しなくても、直に血は止まったでしょうし、勝ったのだって、狩野くんたちの実力よ。」
みのりからそう言われても、遼太郎は首を横に振る。
「いや、あの場では、俺が一秒でも早く試合に戻る必要があったし、…それに、焦った気持ちのままピッチに立ってたら、あの最後のトライはできてなかったと思います…。」
話題が、みのりが変に意識していた核心に触れようとしたので、みのりは息を呑んでピクリと体を硬くした。
「先生に気持ちを落ち着けてもらってなかったら……。」
遼太郎はあの時の抱擁を思い出し、言葉を詰まらせた。
みのりに抱かれた感覚が、体中を駆け巡る。
太腿の上に載せた両手をぎゅっと握りしめて、感情の荒波が顕れないように歯を食いしばった。
言葉を詰まらせた代りに、みのりを見つめる遼太郎の視線が、言葉以上にその感情を物語った。
苦悩がにじんだようなその深い眼差しに、みのりは吸い込まれそうになり、全身に震えが走った。肌が粟立ち動悸がして、息が浅くなる。
これ以上、遼太郎を見つめ返すとどうにかなってしまいそうだけれど、みのりの瞳は囚われて動かせなかった。
…同じような眼差しで、かつて石原がみのりを見つめてくれた。だけど、遼太郎のこの眼差しは、石原のものよりももっと深く繊細なものだった。
お互いの想いを含んだ沈黙が漂った後、ようやく気を取り直すように、みのりが口を開いた。
「……最後のトライの前に、狩野くんは2回パスを出したけど、ああいうのもサインを決めてやってるの?」
遼太郎も虚を衝かれたように、眼差しの色に現実味が帯びた。恥ずかしそうに、口許をほころばせる。
「試合で、あんなに上手くいくことって、あんまりないんですけど…。あれは、ダブルクロスの後、ふっくんとはクロスのサインプレーです。…先生、よく覚えてますね。」
みのりは嬉しそうに、フッと笑う。
「あれは特別。胸が空くようなプレーだったから。思い出すだけで、ドキドキしちゃう。」
と言って、みのりは目を閉じたものの、本当はさっきの遼太郎の眼差しのせいで、まだ胸の鼓動が乱れていた。
遼太郎はみのりのその仕草を見て、何かに堪えるように唇を噛んだ。
「あのサインプレーの司令を出すのが、狩野くんなのね?だから、早く試合に戻らないといけなかったのよね。」
「司令って…まあ、そうです。ふっくんとのクロスは、ふっくんが言い出したんですけど…。」
遼太郎は照れ臭そうに、肩をすくめた。