新聞記事 Ⅰ
全県模試が目前に迫り、3年1組の授業は模試の演習に専念していた。
徐々に推薦組の進路も決まりつつあり、授業にはあまり身が入らないかと思われたが、思いのほか生徒たちは真面目に取り組んでくれている。
みのりの熱意が伝わっているのか、やはり情けない結果になるのが嫌なのかどうかは分からないけれども…。
国立コースの生徒たちがこれからラストスパートをかけるこの時期、私立コースの生徒たちの大部分にとっては、最後の模試らしい模試だ。
模試が終わったら、点数に縛られない授業をしよう。歴史の面白さを発見できる内容にしようと、みのりは心に決めていた。
しかし、12月の上旬には後期の中間考査がある。だから、考査ができる内容で興味を持てるような授業……。難しいけれども、これこそみのりの腕の見せどころだった。
遼太郎との個別指導も日本史を指導するのは数日を残すところとなり、毎朝の渡り廊下もひんやりと冷え込んできた。
「試合で打ったところは痛くない?すごくたくさん出血してたよね?」
週明けの月曜日の朝、みのりはあいさつの後、いきなりこの話題を持ち出した。
その派手に出血していたのを、止めてくれたのがみのり本人だ。
手当てをしてくれた時のことを思い出して、遼太郎の胸が大きく一つ鼓動を打ち、チクンと疼いた。
意識すると平静ではいられず、日常生活もままならなくなるので、遼太郎はみのりへの深く激しい感情を、心の奥底に封じ込めることに努めていた。
だが、みのりのこの問いは、遼太郎の心の堰を危ういものにする。
そんな遼太郎の苦悩をよそに、目の前のみのりの表情には取り立てて他意はないようだ。サラッと言い出されたところを見ると、あの時のことはみのりにとって特別なことではないのだろう……。
「顔を洗う時とか、触るとちょっと痛いですけど。大丈夫です。」
遼太郎はいつものように恥ずかしそうに、首をすくめた。
「そう、顔に青タンができなくてよかったね。せっかくの男前が台無しだもの。」
みのりにそう言われ、遼太郎はグッと言葉を呑み込んだ。照れて、顔がみるみる赤くなっていく。
そんな遼太郎を見て、みのりは面白そうに唇を歪めた。
「……狩野くんって、自分が男前でカッコいいって自覚がないのね。」
「えっ…!?」
遼太郎はもっと赤面する。
「そういうことに頓着ないところも、狩野くんらしいけど。」
みのりはにっこり笑って、いとおしそうな目で遼太郎を見た。
焦りにも似た感覚が、遼太郎の喉元までせり上がってきたが、その時、みのりが目の前に演習プリントを広げてくれた。遼太郎は何とか心を落ち着けることができ、シャープペンシルを握った。
問題を解く真剣な目の遼太郎の横顔を見ながら、試合中の真剣な目とはまた違うことを、みのりは発見した。
身体中に鳥肌が立つような試合中の目が、普段はとても優しげになるのだ。それも、みのりを見つめるときは、特に。
そのギャップを意識した時、熱いものがみのりの胸の間を通り、鳩尾に落ちていくのが分かった。
遼太郎の容貌が端正で男らしいと思うようになったのは、いつの頃からだったのだろう。
優しい切れ長の目は美人の母親譲りなのに、男前なのだから、とても不思議だ。筋の通った形のよい鼻…。薄い唇は引き結ばれ軽く噛まれているのは、いつも問題を解く時の癖だ。
先日の試合中、この横顔を両腕で抱え、自分の胸元へと抱きしめた……。
頬にこの髪の感触が残っている。遼太郎の汗と土埃と太陽の匂いも、みのりの感覚の中に刻み込まれている。
いきり立った荒い息遣いが、みのりの腕を掴んだのを境に穏やかになっていった。
ほんの1分足らずの時間だったけれど、自分の気持ちが遼太郎へ、遼太郎の気持ちが自分の心へ流れ込んで来るのを感じ、一つの繭の中にいるような一体感があった。
あの時は遼太郎を落ち着かせたい一心でそうしたのだが、当の遼太郎がどう感じているのかまでは、思いが及ばなかった。
あの行為を、深読みされて誤解されるかもしれない。けれど、いちいち説明する方が、変に意識させてしまう可能性もある。
いや、今日の遼太郎を見る限り、そんな様子は感じられない。むしろ、自分の方が変に意識しているみたいだ。
確かにあの時、相手が遼太郎ではなかったら、ああいうことはしなかったと思う。……というより、他の生徒だったら、同じことをしたくてもできなかっただろう。
相手が遼太郎だったからこそ、心の内を読んで、落ち着かせることができたのだと思う。
どうしてああいう形で落ち着かせようと思ったのかは、自分でも分からない。時間も迫る中で、早くどうにかしてあげたかった…。ただそれだけだった。




