一瞬の抱擁 Ⅸ
観客席へ礼をするとき、遼太郎は、みのりの横に自分の母親がいるので、そちらを見ることができなかった。
みのりを見る自分の視線を母親は読んで、きっとみのりへの気持ちを気取ってしまうと思ったからだ。
「みのりちゃん!」
礼が終わった後の和やかな時間、無邪気な二俣は、今日はすぐ近くにいるみのりへと声をかけた。
「ちょっと、ひやひやしたけど勝ててよかったね。」
そう声をかけると、二俣は自慢げな顔をし、遼太郎を引き寄せた。驚いている遼太郎をしり目に、肩を組み、
「俺と遼ちゃんと、この仲間がいれば無敵だぜ!」
と、言い放つ。
みのりが失笑するよりも早く、二俣の母親が背伸びをして、我が子の頭をペチンと叩いた。
「調子に乗るんじゃない!」
「あたっ…!」
保護者たちの間からも、笑いが起こる。みのりも楽しげに笑っている。
みのりの表情が、この前のように沈んでいないことを確かめて、遼太郎は少し安心した。
何よりも、みのりの期待通りに今日の試合で無事に勝つことができ、次の試合に繋げられたことが、遼太郎を安堵させていた。
帰りのバスの中、遼太郎は勝利の後の爽快な感覚と、みのりの嬉しそうな笑顔の余韻に満たされ、心地よい眠りに落ちようとしていた。
左側の頬を背もたれに預け、まどろんでフワリとした感覚の中を漂う。不意に、これと同じような感覚を、どこかで味わった記憶があることに気がついた。
そして、突如として湧き上がってくる、みのりに鼻血の手当てをしてもらった時の感覚――。
みのりのあの胸に抱き寄せられ、腕と頬とで遼太郎の頭を包んでくれた。あたかも体ごと包み込んでくれるかのように……。
柔らかな丘を頬に感じ、耳には心地よい規則的な鼓動が響いた。『大丈夫』と、繰り返される深く穏やかな声。
遼太郎の手がみのりの腕を掴んだ時、二人の心は融けて混ざり合い、一つの心を共有していた。
その出来事を思い出した瞬間、遼太郎の体には震えが走り、叫び出したくなった。
以前、みのりを抱き締めた時のように、性的に興奮しているわけではない。その場で頭を抱え、歯を食い縛り、自分の中に起こった衝撃を、必死に自分で受け止めた。
遼太郎のみのりへの想いは、「好きだ」という限界を超えた。
他の人はこの想いを、「愛している」と言うのかもしれない。しかし、この息もできないような感覚は、そんな既存の言葉で説明できるようなものではなかった。
数ヵ月前までは、人に恋した経験もなかった遼太郎に、この感情は重すぎた。
余りにも深く大きな想いに、心が圧し負けそうになる。こんなにも胸が疼き、みのりに対しての想いが大きく膨らんでいくことに、怖ささえ感じる。
みのりにとってあの抱擁は、特別な行為ではないのかもしれない。もし、二俣が同じように傷を負い、焦燥しているようなことがあったとしても、きっとみのりは同じことをするだろう。
遼太郎に向けられる大きな愛は、他の生徒も包括しているに違いない。
でも、遼太郎はそれでもいいと思った。むしろ、そんなみのりだからこそ、好きになったのだと思った。
たとえ、みのりが自分一人を見てくれなくても、遼太郎の想いは不変的なものとなった。
――先生のことが好きだ…!!どうしようもなく……!
自分の中の真理を小さく唱えると、心が痺れた。
胸のところをギュッと掴んで目を瞑り、感情の津波が収まるのを、遼太郎はひたすら待った。
随分時間が経って、遼太郎は幾分正気を取り戻した。一週間前と同じ風景を眺めながら、ふと思い出す。
――……タックルに行くときは『死んでもいいと思ってる』って、先生に言ったけど……。
でも遼太郎は、やっぱり「死にたくない…」と思った。
――俺のこの命は、先生のために……。
みのりのすべてを守るために、自分のすべてを捧げたいと思った。
再び胸の鼓動は、大きく脈打ち始めた。
その苦しく切ない鼓動は、しばらく止まりそうになかった。




