一瞬の抱擁 Ⅷ
観客席に戻ったみのりに、遼太郎の母親は心配そうな視線を投げかけた。
「鼻血だけで、骨が折れてるわけじゃありません。かなり出血してましたけど、大丈夫だと思います。」
不安を払しょくするように、みのりは笑顔を作って頷いた。それを聞いて、遼太郎の母は胸をなでおろす。
「先生…、お洋服に血が付いてます。遼太郎が…?すみません。」
そう言われて、みのりは自分の体を見下ろすと、袖口に飛び散った血が付き、お腹のところ辺りに擦れて付いたような血があった。
「ああ、大丈夫です。この後は帰宅するだけですから。」
「それに、頬に土が付いてますよ。」
「え…!?」
さっき、遼太郎を抱き締めた時に付いてしまったのだと思い出し、みのりは顔が赤くなっていくのが分かった。
慌ててハンカチで拭おうとしたが、先ほど使ってしまって、そう言えば返してもらってない。
遼太郎の母親は、遼太郎と同じ優しい目でみのりを見つめ、指先でパラパラと頬の土を払ってくれた。
「あ、ありがとうございます…。」
みのりは恐縮して、恥ずかしそうに肩をすくめた。
残り時間は5分強、ロスタイムを入れても10分はない。同点で終わった場合は、くじ引きで勝敗が決まってしまう。もしそれで敗れてしまうようなことになれば、本当に悔いが残ってしまうだろう。
何としても、1トライでもいいから得点したいところだが、なかなかチャンスを生かすことができない。
「今度、遼ちゃんにボールが出せたら、アレで行ってみるか?」
二俣が遼太郎に話しかける。
「うん、スクラムの時やポイントにふっくんが絡んでる時は、ラインに来るのに時間がかかるから、その前にダブルクロスで時間を稼いでから…。2次か3次の攻撃で…。」
このダブルクロスというパスの仕方は、もう一度遼太郎にボールが戻ってくる。戻ってきたときに二俣がラインに参加できていたら、〝アレ〟をしようというものだ。
まだ二人が2年生の時、二俣はロックでレギュラー、遼太郎はセンターの控えだった。
〝アレ〟とは、その時に二人の間で密かに申し合わせていたサインプレーのことで、単純なクロスだったが、二俣にボールを渡せるということは大きな利点になる。
ハーフウェイラインを相手側に少し食い込んだところで、モールができ、そのモールが膠着して動かなくなったので、レフリー塩尻はスクラムを命じた。芳野のスクラムハーフが投げ入れるので、芳野側の有利だ。
二俣は遼太郎に目配せする。
今までモールの押し合いをし、再びスクラムを組むことになったフッカーの衛藤は、肩で大きな息をしていたが、二俣に肩を叩かれ頷いた。
「21!」
仲間へと、遼太郎が指示を出す。絶対にこれで決めてやる!と言う気迫がこもっていた。
サインを読まれて、捕まってしまうことは考えなかった。相手よりも速く走り、速いパスを出せれば、絶対にうまくいくと思っていた。
――絶対に負けたりしない……!
さっき、みのりの言った言葉を、遼太郎は心の中で繰り返した。
スクラムが組まれ、押し合う中で衛藤の気迫でボールをかき、二俣の後方へとボールが出された。スクラムハーフがすぐに拾い上げ、遼太郎へとパスを出す。
遼太郎から12番へパス、12番と13番がクロスする際に手渡しするように短いパス、13番と遼太郎が再びクロスし、その時にまた短いパス。
何度も練習を重ねられたそれは、ディフェンスの間をすり抜け、ボールを大きく前進させた。
遼太郎は待ち構えていた相手のフルバックとの前で走るペースを変えて、フェイントをかけ引きつけておく。そこへ大きなストライドで追いついてきた二俣に、クロスでパスを出した。
そこには、もう相手方のディフェンスはおらず、二俣が独走しトライを決めた。
芳野の観客席から、安堵のような歓声が上がる。その後のゴールも決め、再び7点のリードとなった。その後、ノーサイドまでの数分を守りきり、芳野高校は3回戦を突破した。
みのりは、もう戦う目の時の遼太郎を怖いとは思わなくなった――。
〝死んでもいい〟と思えるまでの真剣勝負の時に、いつものように優しい目などはしてられない。
それにあれも、遼太郎の一部分。みのりはその一部分を含めて、遼太郎のすべてを受け入れたいと思った。