一瞬の抱擁 Ⅳ
隣に座った遼太郎の母がみのりに話しかける。
「高校に入ってから遼太郎は本当にラグビー三昧で、ほとんど勉強という勉強はしてなかったんですけど、仲松先生に指導を受けるようになってからは机に着く時間も増えて、本当に感謝してます。」
「狩野くんが何事も真面目に取り組んでくれた結果だと思います。いくら指導をしても、最後はやっぱり本人のやる気次第ですから。指定校推薦も決まって良かったですね。」
「指定校推薦が決まったのも、仲松先生のおかげだと、遼太郎も言っておりました。」
「えっ!?いえ、私は、あんまり関係ない日本史しか指導してませんから、多分私の力は関係なくて、狩野くんの実力だと思います。」
あまりにも遼太郎の母親が持ち上げてくれるので、みのりは恐縮して緊張し、首を横に振った。
「それに…」と、遼太郎の母は少し面白そうに、顔をほころばせて続ける。
「この前、遼太郎がいきなり『母さん、いつもありがとう』なんて言うから、何だか気持ち悪くって…」
と言って、息を漏らして笑いをこらえる。
「何でそんなこと言うのか問いただしたら、仲松先生から、『特にお母さんには感謝しなきゃ』…って言われて、その通りだと思ったから言ってみたらしいんです。」
それを聞いた途端、みのりは顔を赤くする。
「あっ、そういえば、そんなことを言ったような気がします。でも、狩野くんは放課後は部活があるので、個別指導の時間を確保するには朝早くにせざるを得なかったものですから、お母様もお弁当を作ったりで早起きして頂いていることと思います。私も本当に感謝しています。」
そう言って、みのりからも遼太郎の母に感謝の気持ちを表した。
みのりに言われたことをすぐに行動に移す、素直な遼太郎が何とも微笑ましい。
みのりに労われたのが却って意外だったらしく、遼太郎の母は笑いを漏らした。
「…まあ、あの子は我が子ですから、私は何のことはないんですが、先生にはそこまでして頂けて、遼太郎も幸せだと思います。」
これを聞いて、みのりはますます恐れ入って、身を縮ませた。
その時、遼太郎の母の向こう隣に、他の保護者が腰を下ろした。その誰かの母親に、遼太郎の母は、
「こちら、仲松先生よ。」
と、みのりを紹介する。
「仲松先生って…、ああ!みのりちゃん!?」
いきなりそう言われて、この人は二俣の母だと、みのりは直感した。
「お世話になってます。二俣弘明の母です。弘明の言うように、本当に可愛らしい先生だこと。」
「……は?いえ。もう可愛らしいなんて歳じゃないので…、とんでもないです。」
二俣は家で、母親と一体どんな会話をしているのだろう。みのりはますます緊張して、首を振り、視線を落とす。気持ち的にはもう逃げ出したかった。
その時、選手たちが、みのりの目の前を通り過ぎてゆく。
こんな近くで試合を観たことがないので、間近にいる選手たちに、みのりは圧倒されて息を呑んだ。
選手たちの中の遼太郎が、観客席の高い位置に視線を泳がせているのが分かる。多分、自分を探しているのではないかとみのりは思ったが、「ここよ!」と、遼太郎の母の隣で叫ぶわけにもいかず、まんじりと様子を見守っていた。
やっと最前列にいるみのりを見つけることのできた遼太郎は、意外そうな顔をした後、安堵でその顔を緩ませる。
だが、みのりの隣には自分の母親がいることに気が付くと、目を剥いて固まった。
みのりは恥ずかしそうに少し笑っただけだったが、遼太郎の母は笑顔で我が子に手を振っていた。
遼太郎は、そんな二人に対してどんな反応を見せたらいいのか分からず、肩をすくめ瞬きをし、目を逸らした。
時間が迫り、みのりの知り合いのレフリー、塩尻先生の合図でキックオフとなった。
グラウンドと同じ高さで試合を観ると、選手たちの息づかいがダイレクトに伝わってくる。
味方が次々とパスをしながら走り、相手方がそれを阻もうと追いかける……。その勢いと速さにみのりは驚いた。
目の前で行われたラインアウトでは、衛藤が投げ入れて、一番背の高い二俣がリフトされ、見事ボールをキャッチした。……その迫力に、みのりは息を呑む。
ボールは素早く遼太郎へと出され、相手側に攻め込まれていたため、タッチキックを選択する。
ボールはタッチラインの内側でワンバウンドし、ラインを割った。その正確なキックに、観客から拍手が起こった。
芳野側は大きく陣地を回復し、ラインを割ったところから再びラインアウトとなる。
遼太郎の蹴った大きくきれいな弧を描くボールの軌跡に、みのりの心は吸いとられる。ゲームメイクをする役割を担うから……ということもあるだろうが、みのりは遼太郎から目を離せなかった。
遼太郎は〝戦う男〟の顔を、幾度となく見せた。それは前回同様、みのりを落ち着かなくさせたが、それを見ずにはいられなかった。
次第に、みのりはそれが決して嫌ではないことに気づく。むしろ、いつもの優しく物静かな遼太郎とのギャップに衝撃を受け、そこに惹かれていることにも。
あの顔を見る毎に、全身に震えが走り心の全てを持っていかれることは解っていても、もう一度見たいと思う気持ちは抑えがたかった。




