ラグビーの勉強 Ⅰ
「狩野くん。部活の方は大丈夫?きつくない?」
朝の個別指導で、問題に取り組む遼太郎に、みのりが訊いた。
普段は決して遼太郎の集中を乱すことをしないみのりだったが、この時は頭の中に浮かんが心配事が、不意に口をついて出てしまった。
朝は7時半前からこの個別指導をしているので、遼太郎が家を出るのは7時くらいだろう。
部活が終わるのが8時くらいらしいので、家に帰るのは9時前になる。それから夕食を食べて、お風呂に入って、宿題や入試の準備をして…となると、眠りにつくのは何時ごろになるのだろう。
みのりが渡してくれた問題に集中していた遼太郎は、みのりが話しかけてきたことに気が付かなかった。
みのりが諦めて一緒に問題用紙を覗き込んだ時、話しかけられていたことに気が付いた。
「……何?何か言いましたか?」
遼太郎の集中を乱して悪かったとばかりに、みのりは首を振って、
「ううん、何でもない。ごめんね、続けて。」
と、話を終わらせようとしたが、遼太郎は口をとがらせた。
「教えてくれないと、却って気になって集中できません。」
「うん…。ごめん。ちょっと狩野くんの部活のことが気になっちゃって。体はきつくない?」
みのりの優しい言葉に、遼太郎の表情も和らいだ。
「きつくありません。生活が全体的にすごく充実してる感じだから、すごく調子がいいです。」
にっこりと自信に満ちた遼太郎の笑顔を見て、みのりの胸が一つ大きくドキンと鼓動を打った。
遼太郎が虚栄ではなく、本当のことを言っているのは、顔を見れば判る。
「そっか、ちょっとしんどいようなら、狩野くんの負荷をどうやったら減らせるか考えなきゃって、思ってたんだけど。心配いらないのかな…?」
「しんどくないし、日本史の個別指導はやめません!」
みのりが心配していることを察知して、遼太郎は速攻でそう答えた。また、みのりが『やめた方はいいのでは…』と言い出すのではないかと、気が気ではなかった。
個別指導を始めるとき、あれほど強い押しだったみのりなのに。
「……わかってます。続けましょう。狩野くんが、そんなに日本史好きになるとは思わなかったな。ただ、頑張りすぎちゃダメだよ。肝心なところで倒れたら、何のために頑張ったか分からないものね。」
みのりが首をかしげて、遼太郎を覗き込んで微笑した。遼太郎の胸が、キューンと絞られる。
手を伸ばせばすぐに届くみのりの肩を抱き寄せて、懐に抱きしめたい衝動が喉元までこみ上げてきた。
――ダメだ!場所と立場を考えろ……!!
遼太郎は拳が白くなるほど強く握り、強い衝動を無理やり抑え込んだ。
その時、二人の背後を、一人の女子生徒が通り過ぎようとした。
足音を聞いてみのりが振り返ると、その女の子と目が合った。女の子は小泉智香だった。
「おはようございます。」
みのりは遼太郎に向けたのと同じ微笑を、彼女にも向けあいさつをした。
「…お、おはようございます…。」
消え入りそうな声であいさつしながら、智香は遼太郎にも視線を向け、軽く頭を下げて早足で通って行った。
遼太郎は、みのりへの衝動に加え智香の登場の衝撃に、感情のコントロールが滅茶苦茶になりそうだった。
――あの子から告白されたことは、先生には絶対に気づかれたくない……!
智香の後ろ姿が消えたのを確認して、みのりが口を開く。
「狩野くん。あの子に告白されたんでしょ?」
必死で感情をコントロールしようとしていた遼太郎に、この一言は追い打ちをかけた。パイプ椅子に座ったまま思わず後ろずさりして、みのりを見つめてゴクリと唾を飲み込んだ。
「……何で、…知ってるんですか…?」
遼太郎は、ようやくそう言葉を絞り出した。
「何でって、女の子たちが言ってた噂を聞いたのよ。」
遼太郎の衝撃の割には、みのりの反応はサラッとしたものだ。
「……う、噂?」
遼太郎が反復すると、みのりはニッコリと笑った。
「そうそう、噂になってたみたいよ。どこからどう伝わるんだろうね~。…でも、相手があの子だっていうのは、私の勘よ。当たってたでしょ?」
「どうして、あの子だって判ったんですか?」
遼太郎は大きく息をして、動揺しているのを気取られまいとしていた。
「だから、勘よ。確証はなかったけど、狩野くんの周りをじっくり観察していれば、それくらい判るわよ。」
「観察……?それって、他のどの生徒も、そういうことがあったら判るんですか?」
本当にどの生徒の場合も判るんだったら、みのりの観察眼は驚異的だ。
「ううん。多分、判るのは狩野くんだけだろうね。」
「…….俺だけ?」
遼太郎の動揺が一瞬で収まり、ホワンと心に温かいものが漂ってきた。