遼太郎の初恋 Ⅶ
――いい男になって、先生の側で先生を守りたい……!俺は、絶対に先生を泣かせたりしない!!
そう思った瞬間、遼太郎は弾かれたように自分の気持ちに気が付いた。
気が付いた次の瞬間には、その想いが急速に深まっていくのを感じていた。
息苦しくなって浅い息を吐き、宙を見つめ、自分の心の真実を知って、動転していた。
わななく手の震えを隠すように、ギュッと両手を握る。
「……心の底から人を好きになる……。」
無意識のうちに、遼太郎はつぶやいていた。今自分が感じている感情が、まさにそれなのだろうか……。
「……ん?」
立ち上がって、窓の外を見ていたみのりが、遼太郎を振り返る。
「先生は、また心の底から人を好きになれますか?」
遼太郎の問いに、哀しみと希望の入り混じった笑顔をして、みのりは晴れた空を見上げながら言った。
「心の底から……そうね、そうなりたい。今度はずっと一緒にいられる人を、好きになりたいな。」
それを聞いて、遼太郎はホッとする。みのりは人を好きになるエネルギーまでは失っていないようだ。
――……俺は、これからもずっと……。一生、先生と一緒にいられる人になりたい。
声に出して言いたかったが、今はまだダメだと思い、唇を噛んでただみのりの横顔を見つめた。
「生徒の前では立派なこと言いながら、実は妻子ある人と不倫していた私に、狩野くんは失望したんじゃない?」
窓枠をぎゅっと握り、視線を逸らしたまま、緊張した面持ちでみのりが訊いた。
確かに、〝不倫〟という響きを聞けば、嫌悪感を感じてもよさそうなものだ。
だけど、妻子という〝障害〟があっても人を好きになることを止められなかったということは、教師と生徒という〝障害〟も乗り越えて想い合える可能性もあるということだ。
「失望なんて……。」
失望どころか、遼太郎は希望が湧いてきた。
それに、立場や常識なども範疇に入れず、そこまで人を好きになれることが、羨ましくさえあった。
みのりにそこまで想ってもらえる人に、今度は自分がなりたいと思った。
「人を好きになるのって、理屈じゃないと思います。」
遼太郎はみのりの境遇についてそう言いながら、自分の想いを投影させていた。
「狩野くんにそう言ってもらえて、安心した…。それに、聞いてもらって、ちょっと気が楽になった。」
みのりは本当にホッとしたような表情を、遼太郎に向けた。
遼太郎の方こそ、みのりがそんな顔をしてくれたことにホッとしていた。
「あ、見て!飛行機雲。」
みのりが空を指さしながら、振り向く。遼太郎はみのりのいる隣の窓から、空を見上げた。
二人ともしばらく、真っ青なキャンバスに一筋の白い線が引かれ、その線がぼやけていくのを眺めていた。
「こんなきれいな空を見ていると、心まで澄んでくるね。」
みのりの心が澄み切ったときには、自分を見てほしい――。
空に洗われて、余計なものがなくなった遼太郎の心には、みのりへの想いだけが残っていた。
「空が高いね。もう秋なんだね…。」
みのりが空を仰いで、深呼吸する。その光景を、遼太郎は宝物のようだと思った。
――空もきれいだけど、それ以上に先生の方がきれいだ……。
遼太郎は自分の好きになった人が、この空のように澄み切ってとても綺麗だということを改めて知った。
初めて知る感情に、戸惑いのような、心が弾むような、新鮮な感覚が次から次へと押し寄せた。
鼓動は激しくなり、心臓を掴まれているような苦しさを覚えた。でもそれは、決して嫌な苦しさではなく、甘い痛みを伴っている。
この前の体育大会の時のように、遼太郎はすぐ側にあるみのりの細い肩を抱きしめてしまいたい衝動に駆られた。
でも今、それをしても、想いが通じるどころかみのりを困らせるだけだ。それを自覚して、遼太郎は必死で衝動を抑え込んだ。
「さて、狩野くん。これで納得した?もう勉強に専念できそう?」
みのりは仕切り直すように、明るい声色に変えて、遼太郎に向き直った。
「……はい。」
遼太郎は恥ずかしそうに、小さく頷く。
「じゃあ、日本史の勉強道具を持って、渡り廊下の長机にいらっしゃい。今日の授業の復習をしてあげる。」
遼太郎は顔を赤くして、もう一度頷いた。
二人して空き教室を出ようとして、出入り口で寄り添うような体勢になったとき、
「……心配してくれて、ありがとう。」
と、みのりがはにかんで小さく肩をすくめ、遼太郎に囁いた。
遼太郎はその仕草と言葉に心臓を撃ち抜かれ、倒れそうになった。
何気ないことなのに、恋心を覚っただけでこんなにも感じ方が変わってしまうなんて。
鼻息が荒くなったのを気取られないように、唇を噛んでただ頭を縦に振り、ホームルームへ勉強道具を取りに走った。




