雨の中の勇姿 Ⅰ
「……っ、寝るなーーー!!!」
板書をしていたみのりが、振り返りながら黒板を叩いた。
かろうじて起きていた生徒たちは目を丸くしている。何人かの生徒は頭をもたげたが、数人の生徒は机に突っ伏したまま、まだ夢の中だった。
みのりは教壇を降り、机の間を歩いてまわる。
「ほら、宇佐美さん。……ほら、二俣くん。」
と、寝ている生徒の頭をつついて一人ずつ起こしていくと、起こされた生徒は、憮然とした態度で椅子に座り直す。
起きている積もりだろうが、前を向いたままの遼太郎の目が瞑れてる。
みのりは横を過ぎる時に、遼太郎のおでこを指先で押した。その瞬間、両目を見開いた遼太郎の表情が妙に微笑ましくて、みのりは密かに息を漏らした。
「ふぁぁ~…」
先ほど起こされた宇佐美が、憚らず伸びをしながら大あくびをした。怪訝顔のみのりと目が合うと、悪びれずにんまりと笑う。この宇佐美は女子剣道部のエースだ。
5月も終わりが近づき、6月初めの県大会の目前だ。宇佐美に限ったことではなく、部活をしている子は、高校生活最後の大舞台が迫っていて、皆真剣に部活に取り組んでいた。練習が一層厳しくなっているのだろう。授業のこのやる気のなさが、それを物語っている。
ましてや今日は、午後の授業の5限目に体育があり、その次の6限目の日本史なので、「寝るな」という方が無理な話なのかもしれない。緑の木々をざわめかせる爽やかな風が、心地よいのでなおさらだ。
「ねーねー、先生って何歳?」
藪から棒な質問をしてきたのは、先ほどの宇佐美。毎年、聞きあきるほど生徒からされる質問だ。
この質問が飛び出した瞬間、生徒たちの気だるい雰囲気が一変し、みのりに注目が集まった。
「ふふん、何歳だと思う?」
みのりが逆に訊いてみると、「56歳!」と、誰かが即答した。これは冗談だと分かるので、にっこり笑って流すことにする。
「四十歳!」
他の男子生徒が口を開く。
「えっ!?私そんなに老けて見えてるの……??」
ショックを受けたみのりが、胸に手を当てて顔をしかめると、優しい女子生徒が、フォローしてくれる。
「そんなことないよ、先生。25歳くらい?」
今度は、随分若く見られたものだ……。
「うーん、さっきより近いけど……。ヒントをあげると、3年前にもこの学校で教えてたのよ。その時はもう25歳を超えてた。」
「……彼氏はいないよ。」
みのりが寂しい笑顔を浮かべると、生徒たちは励まそうと思ったのか、口々に言った。
「大丈夫、先生。可愛いから」
「そのうち出来るって、彼氏。」
さすがに、三十歳になるのに彼氏もいないなんて、高校生でもヤバいと思うらしい。
「この学校で誰かいい人いないの?」
「古庄先生とかは?」
古庄先生というのは、みのりが副担任をしているクラスの担任だ。地理の教師なので、地歴科で教科も同じ。とても近い存在ではある。
古庄先生と聞いて、女子生徒がざわめき始めた。
彼は、この学校で一二を争う…どころか、一目見ただけて忘れられないようなイケメン教師なのだ。確かに、常軌を逸してカッコイイし、気さくな性格で仕事もできる。彼氏にするには、これ以上ないほどに申し分のない男性だろう。
でも、みのりより3歳年下の彼は、みのりのことを、
「仲松ねえさん」
と呼んだ。恋愛対象にしている女子を、こんな風に呼ぶ男性はいないだろう。
「そんなこと言ったら、古庄先生が迷惑に思うわよ。」
と、みのりは肩をすくめて、生徒の提案を一蹴した。
それから生徒たちは、独身の男性教師の名前を片っ端から挙げつらっていたが、もうみのりは聞く耳を持たなかった。