秘密の恋 Ⅳ
その数時間後、石原のベルトの金属音で、みのりは目を覚ました。時計は午前3時を回っている。
「今から帰るの?」
みのりは服を着ている石原に声をかけながら、自分の服を探した。
「うん…、泊まっていきたいのはやまやまだけど、……明日……いやもう今日か、今日の昼前には嫁さんと娘が実家から帰ってくるから……。」
石原がため息を吐き、肩をすくめながら帰る言い訳をする。その瞬間、みのりはズキン!と響いた自分の胸の鼓動が、まるで聞こえるようだった。
石原が愛を語らない理由は、これだった。
何よりも大事な娘のためにも、奥さんとは別れられない。
愛を言葉にしたら、みのりを縛ってしまう。逆に、自分がみのりに縛られないためにも、石原は決して愛の言葉を口にしなかった。
みのりも、石原の奥さんとその娘さんに会ったことがある。
知的で優しそうな奥さんと、5歳になったばかりの可愛らしい娘さん。あの二人の幸せを自分が壊してしまうと考えただけで、罪悪感で苦しくなる。
――奥さんと別れて、自分だけのものになって……。
それだけは、絶対に求めてはいけないことだと分かっていた。
たとえそうなっても、きっと石原は幸せにはなれない……。そう、みのりは思っていた。
先ほどは、みのりの質問に答えなかった石原だったが、土日にかけて奥さんと娘が実家に帰省したから、みのりの元へやって来れたということらしい。 帰ることを言い出してから、石原はまた表情を固くして、笑いかけてくれなくなった。
奥さんと娘のことを思い出したら、ここに来たことを後悔しはじめたのだろうか……。そんな、どうしようもなく不安な思いが、みのりの中に去来する。
玄関のドアのところに、先ほどみのりが落としたバッグが、置かれたままになっていた。 みのりがそれを脇に避けると、石原はそこで靴を履き、みのりへと向き直った。
「それじゃ。」
と、次に会う約束も交わされることもなく、石原が短く告げる。
「それじゃ、また……。」
みのりは思い切ってつま先立ちになると、石原の唇に自分の唇を重ねた。石原は唇を開くことなく、みのりの肩を抱くこともなく、みのりの唇が離れるのを棒立ちになって待っていた。
石原の態度はそっけなく、いつも別れ際にはこんなふうになる。そして、みのりはいつも泣きそうな気分になった。
川沿いの道に駐車していた車に石原が乗り込むまで、みのりは玄関先で見守った。車が発進すると、今度は部屋を突っ切って、玄関の反対側にある窓辺まで急いだ。ここからは、川沿いを200mほど行って、橋を渡るのを確認できる。
滑るように走っていた車が、橋の手前でスピードを落とした。ブレーキランプが幾度か点滅する。
それが意図的なものだと気づいたとき、みのりの胸が切なく震えた。
「今時、あんな古い歌の真似する人なんて……。」
口にはしなくても、石原の気持ちはあの歌と同じなのだろうか。
でも、言葉として、みのりを見つめて語られてるわけではないから、確信は持てない。
「『アイシテル』じゃなくて、『も・う・こ・な・い』……かもしれないし……。」
と、みのりはつぶやいた。
そう思ってしまうほど、石原との恋は、いつ途切れてしまうか分からなかった。石原が気が向いた時にだけ会える、この関係は、いつもみのりを不安にさせた。
それでも、さっきの二度目の愛撫を思い出して、みのりは疑念を振り払った。一人残された境遇では、望みのある方を選ばなければ辛すぎる。
石原の車のテールランプが消えた夜の暗さを見つめていると、いつしか、ずっと堪えていた涙がみのりの頬を濡らしていた。
みのりも石原も、このような状態がいつまでも続くとは思っていなかった。だけど、相手に突き放されたなら離れられるのに、お互いがお互いを求めて止まなかった。
そして、石原のこんなささやかな意思表示を心の支えにして、みのりはまた石原と過ごせるほんの一時を、ただただ待ち続けた。