別れの決心 Ⅴ
その時、職員室の入口で、教員たちの声が上がった。
「おー。久しぶり!」
「元気だったかい?」
みのりとラグビー部三人が目をやると、教員の輪の中心に口と顎に髭を蓄えた男がいた。石原だ。
ドキンと一拍みのりの心臓が反応したが、前もって石原が来ることは連絡をもらってたので、特段驚くことはなかった。
だが、ラグビー部三人は目を丸くしている。
「あれ、石原先生じゃね?」
「うん、石原先生だ。何でいるんだろう?」
そんな疑問を聞いて、みのりはラグビー部員たちに説明してあげる。
「石原先生、ここにいた時の学年部の先生たちと今晩飲み会するんだって。その前に、ちょっと顔を見せに来たんじゃない?」
みのりは、遼太郎の目を見て頷いた。
「あいさつしに行ったら?」
そう提案すると、三人はクッキーを手に持ったまま、そそくさと石原のもとへ向かった。
その日の夜、10時過ぎになってからみのりのアパートのドアのチャイムが鳴った。夜遅い訪問者にかかわらず、何の疑いもなくみのりはドアを開く。
すると、中に入ってきたのは石原だ。
ドアが閉まった瞬間に、みのりは石原に抱きすくめられる。
「ああ、久しぶり……。」
腕の中にみのりがいる感覚を実感して、石原がつぶやく。
そして、そのままキスをしようと思ったのか、石原が腕の力を緩めた時、みのりはするりと腕から抜け出した。
キスをしてしまうと、話をすることさえままならず、そのまま始まってしまうからだ。
居間へと場所を移して、石原に話しかける。
「もっと遅くなるかと思ってたけど、二次会には行かなかったんですか?」
拍子抜けのような顔をしていた石原は、テーブルに車のキーを置き、ソファに座って気を取り直した。
「二次会途中で抜けてきた。『家に帰る』って言ってたから、酒も飲んでなかったし。」
「そっか、飲めない飲み会はつまんないですよね。」
〝家に帰る〟という響きは、みのりの心に薄い影を落とした。その微妙な表情の機微に、石原は気づいたのか、
「だけど、家には『今日はこっちのホテルに宿をとる』って言って出てきた。」
と言って、ニッコリと笑った。
「じゃ、ホテルに戻るんですか?」
みのりが訳が分からないという調子で、質問する。
「いいや、ホテルは取ってないから。」
意味を説明するような目つきで、石原はみのりを見つめる。石原の真意をようやく理解したみのりは、顔を赤くした。
石原は、今晩みのりのアパートに泊まるつもりなのだ。こんなことは初めてなので、みのりは緊張で胸が激しく鼓動を打ち始めた。
…….でも、そのために、芳野高校の元同僚にも、奥さんにも嘘をついてきたということだ……。
今日だけではない、これまでにも石原は、自分といるためにいくつ嘘をついてきたのだろう。
朝まで石原といられることは嬉しい反面、みのりに後ろめたい気持ちを掻きたてさせた。
「何か飲みます?…と言っても、うちにはアルコールはないんだけど。」
後ろめたさを振り払うように、みのりが石原に笑顔を向ける。石原は同じように笑顔を返した。
「なんでも。」
「じゃ、紅茶を淹れますね。」
一緒に働いていた時、石原はいつもコーヒーではなく紅茶を飲んでいたことを、みのりはちゃんと覚えていた。
お湯を沸かし、ティーカップを出し、みのりが紅茶を淹れる準備をしていると、石原が背後から話しかける。
「今日、ラグビー部の二俣と狩野と衛藤に会ったんだけど、みのりちゃんからもらったっていうクッキーを持ってたよ。」
「…ああ、あれ。明日、試合があるから応援に来てくれって言われたんですけど、仕事で行けないって言ったら、しょんぼりしてて…。それで、元気づけようと思ってあげたんです。」
思い出すと笑えてきて、思わず口元が緩んでしまう。
「あいつらには1年の時以来会ってないけど、デカくなっててびっくりしたよ。二俣は想像できたけど、狩野はずいぶん鍛えたんだろうな。まだ細いけどマッチョに変わってたね。」
「狩野くんは真面目だから。」
フッとみのりが笑ったとき、ちょうどお湯が沸いて火を止めた。
茶葉の入ったポットにお湯を注ごうと、ポットのふたを取り、やかんに手を伸ばそうとした時、
「あっ……?」
みのりは石原に背後から抱きしめられた。
その瞬間の感覚は、つい最近に経験したものとまるで同じだった。
ほんの一週間前の文化祭での衝撃がオーバーラップする。同じような体勢で、同じようにみのりを抱きしめた遼太郎の逞しい腕――。
石原の腕には力がこもり、彼の手はみのりの左の胸を包んだ。文化祭の時の遼太郎と同じ行為に、デジャヴのような感覚がみのりの体を駆け巡る。
石原はみのりに髪に顔をうずめ、やがて唇は首筋をたどった。まるで、遼太郎にそうされてるような錯覚に侵されて、みのりの体は自然と硬くなる。
石原に抱擁されながら、みのりの頭の中では遼太郎が占拠していた。意識は石原に集中できず、戸惑い混乱するみのりの体を翻させて、石原はいきなり深いキスをする。
舌と舌とが絡む間も、みのりは石原の胸を押えて、心の中で叫んでいた。
――ちょっと、待って!
しかし、そんな焦りとは裏腹に、石原はみのりを抱き上げてベッドへと運んだ。
ベッドへ横たえられ見つめられても、不穏に鼓動が早まるばかりで、いつもみたいに胸は高鳴ってくれない。
心の準備をして、石原だけしか考えられない気持ちになって抱かれたい。そうは思っていても、このように激しく求められると、体の方は否が応でも流されていく。




