別れの決心 Ⅳ
みのりは監督をしながら、教卓のところで余っている問題用紙を開き、中の問題に一通り目を通した。
ひっかけ問題に引っかかってないか、すごく指摘したくなったが、試験なのでそれは出来ない。
自分の関わる教科の試験監督はしない方がいい…と、改めてみのりは思った。
試験監督時には、生徒の集中を乱さない程度に、何度か机の間を巡回する。
みのりもなかなか時間がつぶせないので、机の間を行ったり来たりし、教室の掲示物を直したり、教室の後ろから生徒の後ろ頭を眺めたりした。
途中で何度か、二俣や宇佐美のすがるような目とぶつかった。多分〝お手上げ…〟と言ったところなのだろう。
――頑張りなさいよ!
という念を送って、みのりは見つめ返す。
遼太郎は、廊下側の一番後ろの席で顔を上げる余裕もなく、問題に取り組んでいる。きっと問題をちゃんと解けている証拠だった。
遼太郎はみのりの期待の通り、迷った問題はあったが、全く分からないという問題はなく、見直しをしてもあと10分弱の時間の余裕があるほどだった。
そこで、ようやく遼太郎は監督をするみのりの方をチラッと見た。みのりは教室の真ん中程を歩いている。
その時、遼太郎の前の机に座る小野という生徒が消しゴムを落とし、遼太郎の左手へと転がっていった。
試験中なので立ち上がるわけにもいかず、遼太郎が消しゴムを見つめていると、みのりがかすかな気配を察して、消しゴムに気が付いた。
みのりが消しゴムに近づき、身をかがめて手を伸ばす。
みのりのブラウスの大きく開いた襟元から、下着のレースの向こうに、胸の丸みまで確認できるほどの深い谷間が、くっきりと見えた。
ほんの一瞬のことだったが、その光景は遼太郎の網膜に焼きついた。
遼太郎の体が途端に硬直する。
歯を食いしばって反応を抑えようとしたが、顔と体の一ヶ所に血液が集まっていくのが分かった。
小野がみのりに目配せして、会釈をして消しゴムを受け取る。みのりが横を通り過ぎる時に、遼太郎は思わず顔をそむけてしまった。
だが、みのりはそのままそこを立ち去ってはくれず、遼太郎の横で立ち止まる。その気配に、遼太郎の脈拍が一気に加速を始める。
みのりは遼太郎の机上の問題用紙を除け、マークシートを一番上に置きなおした。遼太郎は赤い顔を見られまいと顔を上げずに、両手を足の付け根でグッと握った。
みのりの指先がマークシートのある部分を指し示す。
みのりが顔が耳元に近寄ってきて、遼太郎はもう心臓が口から飛び出しそうになった――。
「名前。」
みのりから短く囁かれて、指の先を見てみると、名前を書き忘れている。
最初に名前を書けと言われていたのに、忘れているこの醜態に、遼太郎は消え入りたくなりながら鉛筆を手に取った。
金曜日の放課後は、明日が休みということもあって独特の開放感がある。ましてや今日は、一日全県模試や実力考査で授業がなかったこともあり、職員室も珍しく緩い感じが漂っている。
みのりがコーヒーを注いで自分の席に戻り、一口飲んでフーッと息を吐いたとき、
「先生、暇そうだね。」
と、背後から声をかけられた。
緩んだ気分に不意打ちされ、ビクッとしてみのりは振り返る。二俣と衛藤と遼太郎、いつものラグビー部三人組だ。
「……な、何?」
みのりはコーヒーを置いて、椅子ごと向き直る。
「先生、俺ら明日試合があるんだけど、応援に来てくれるよね?」
二俣は、さも〝当然〟と言わんばかりに、その話を持ちかけた。
「何時から?」
みのりの方も、〝迷惑〟とは思っていないらしく、スケジュール帳をめくって予定を確かめる。
「昼の1時から。」
「こんな時期に、何の大会?」
「秋季大会です。」
「ふーん……、あ、明日はダメだ。」
「……ええぇ~、何で?先生~。」
「明日は、筝曲部の練習があるの。100周年の式典前だから、私がいないわけにはいかないのよ。」
「ええぇ~!」
二俣は駄々っ子のように、口をとがらせた。
遼太郎は、態度には出さなかったが、心の中の落胆は大きかった。
近すぎると落ち着かなくなるが、見守ってもらえると安心する。遼太郎にとって、みのりはそういう存在だった。
「私が行かなくても、他の女の子とか誘えばいいじゃない。」
みのりがそう言うと、二俣は顔を少し赤くした。
「いや、もう俺の彼女は来る予定なんで…、他の子誘うと何かと問題が……。」
みのりはニヤリと、笑いが漏れてくるのをかみ殺した。
「へぇ?なんだぁ、二俣くん。彼女いるんだ?何年生?」
二俣は首の後ろを掻きながら、顔をますます赤くする。
「いや、この学校じゃなくて、御幸高校の2年生なんです……」
「ふ~ん…。でも、二俣くんが誘うんじゃなくて、狩野くんや衛藤くんが誘えば問題ないんじゃないの?」
急に話を振られて、遼太郎と衛藤は顔を見合わせた。初めから、そんな気はさらさらなかったという感じだ。
「女の子が難しいなら、他の先生に来てもらったら?悠木先生なんてどう?」
悠木は、今年新卒の国語講師。2年部なので3年生の授業にはいっていないが、小柄で可愛らしい感じで、そして何といっても若く、男子生徒に人気があった。
三人は悠木の方をチラッと見遣ったが、別段興味もなさそうに、
「だって、あの先生とは、話したこともねーし。」
と、まだみのりが応援に来ることにこだわっている。
フッとみのりは、ため息のような笑いを漏らした。
「ま、今回がダメでも、花園の予選には行ってあげるから。ね?……そうだ、これあげる。」
机の一番下の引き出しを開けて個包装になったクッキーを3つ取り出し、一人ずつ手渡すと、小さい子をなだめるように満面の笑みで三人を見つめた。




