別れの決心 Ⅲ
授業の終わりの礼が済むと、生徒たちはぞろぞろとみのりのところへ、夏休みの課題を提出しに向かった。
だいたい課題が集まり終わると、みのりはそれを教卓の上でトントンとまとめ、脇に抱えて教室を後にする。
遼太郎は、夏休みの課題を握りしめ、みのりの後を追った。
「先生。」
階段への角を曲がるところで、勇気を出して声をかけると、みのりが振り返った。
開かれた窓から入ってきた風が、振り返った刹那にみのりの髪を乱した。みのりは返事をする代わりに、目を細めて髪を耳にかけなおす。
遼太郎はごくりと唾を飲み込み、
「……これ。」
と、課題を差し出す。
すると、みのりは優しく微笑んで、チョークで白くなっている手を出した。
その課題を手渡す時、
「先生、すいませんでした。」
と、遼太郎は深々と頭を下げた。
顔を上げると、みのりはちょっと面食らったような表情を浮かべている。
「大丈夫、気にしてないって、メールに書いたでしょ?」
そう言われても、遼太郎は無言で唇をかんだ。
「……でも、こうやって謝らないと狩野くんの気が済まなかったのよね?」
みのりがフフッ…と柔らかく笑うと、遼太郎はこくんと頷いた。
「本当に大丈夫よ。なんとも思ってないから、気にしないでね。」
あまりにもサラッとみのりがそう言うので、遼太郎は今一つその言葉の信ぴょう性を疑っているようだ。
「大体、私があのくらいのことであんな反応しちゃうから、狩野くんも罪悪感を感じないといけなくなるわけだし……。ホント、そんなに気にすることないのに。」
遼太郎の心の負担が少しでも軽くなるように、みのりは違う考え方を提案した。
「あのくらいのこと……なんですか?」
遼太郎が暗に何のことを言っているのか察して、みのりは心がざわめいてくる。
意識すると先ほどの二の舞になるので、努めて意識しないように、みのりは歯を食いしばった。
みのりが言葉を返せないので、遼太郎はついに心の中の不安を吐露した。
「先生……、俺のこと、変態だって思ってないですか…?」
「は………!?」
沈黙が二人の間を流れていく。
そして突然、みのりが吹き出した。課題プリントの束に顔を当てて、大笑いに発展するのをかろうじて堪えている。
「……思ってるわけないじゃん!そんなこと!」
言葉を出してしまうと、堰を切ったように、アハハハハ…とお腹から笑いが湧き、目尻からは涙まで出てきた。
「大丈夫よ、狩野くん。私をいくつだと思ってるの?いろいろ経験してるんだから、あれくらい猫に引っかかれたみたいなものよ。」
ようやく笑いを収めて、みのりはそう言った。
遼太郎の心の不安を、もっと軽くし、取り除いてあげたかった。
しかし、遼太郎は別の部分に反応する。
「……いろいろ経験……?猫に……?」
遼太郎は言葉の意味を考えて、途端に顔を真っ赤にした。
胸を触られることを、猫に引っかかれるくらいと言えるそれ以上の〝経験〟について、思いを巡らせてるらしい。
「何を想像しているの?青少年!」
みのりは手をピストルの形にして腕を伸ばし、遼太郎の鼻先を撃つ仕草をしてみせた。そして、笑いを含んだ顔で視線を残しながら、背を向け階段を降りていった。
全県模試は9月の初めに行われるので、ゆっくり対策の指導をする暇もなく、模試の日を迎えてしまった。
遼太郎のノートの方も気になっていたが、9月の通常授業が始まってからは、時間がとれずに個別指導もなおざりになっていた。
定期考査は、もっぱら自分の学年部の試験監督に行くのだが、全県模試は1・2年の夏休み明けの実力考査と同時に行われるので、通常の授業担当者が試験監督にあたる。
3年1組の授業に行くみのりは、珍しく3年生の試験監督をすることになった。
普段の日本史の授業の際、教室にはいない地理や世界史の選択者は、なじみのないみのりが教室に入ってくると、ちょっと神妙な顔つきをする。
礼をして着席すると、みのりはまずマークシートを配った。
「初めに、名前を書いて、自分の選択科目にしっかりマークしてくださいねー。」
注意を促しながら、次は問題を配るのだが、日本史と世界史と地理の選択者が混在して座っているので、これが少し面倒だ。
「ええと、世界史選択者の方が少ないから、はい、この列、世界史の人は手を挙げて!」
列ごとに、初めに世界史の生徒の分の問題を配り、次は日本史、その次は地理の生徒分を配っていく。
やっと配り終えた時、試験が始まるチャイムが鳴った。
時が過ぎていくのを、みのりはドキドキしながら見守った。
夏休みの課題と補習での演習の成果が出ていればいいのだが、生徒たちにどのくらい力が定着しているのかは、はなはだ疑問があった。
ただ、遼太郎はあれだけの特訓をしたのだから、きっと努力に見合った結果が出せる……と、信じていた。




