個別指導 Ⅴ
しかし数日後、遼太郎は少し後悔することになる。
みのりの個別指導が、想像を超えて厳しいのだ。
この渡り廊下の長机で、教師へ質問などをしている他の生徒たちは、楽しげに談笑しながら勉強してたりするけれど、みのりとのそれはピリピリと空気が張りつめていた。
個別指導を受ける前は、みのりと二人で楽しく勉強ができるくらいに思っていた遼太郎だが、その妄想は儚く散ってしまった。
第一、みのりが持ってくる演習問題は難関大学の入試問題で、遼太郎にとっては、何のことを問われているのかも見当がつかないようなものもある。
遼太郎が悲鳴のようなため息を吐くと、
「いつも授業でやっているような問題をやってても、なかなか実戦力はつかないわよ。」
と、みのりに切り捨てられた。
3年1組で配られる課題プリントの問題は、基礎の基礎で、それはクラス全体のレベルに合わせたものということ。模試に対応する力をつけさせるために、個別指導を勧めたみのりの意図を、遼太郎は今更ながらに実感していた。
実感してはいたが、この厳しさは根を上げたくなる。
みのりは初め、遼太郎の負担を考えて、補習の前の1時間だけの指導にして予習も復習もいらない、と言っていたのだが、予習のために前もって問題をもらえるように、遼太郎の方から言い出した。
自分はそんな状態なのに、どんな問題を目にしても的確に正解にたどり着くみのりの知識の豊富さにも、遼太郎は感嘆していた。
「先生って、すごい……。」
その感嘆を称賛にして遼太郎が思わず口にしたとき、
「教員の採用試験はもっと難しいのよ。論述問題だと、総合的に色んな知識を駆使しなきゃいけないからね。それに、私はこれのプロなんだもの。出来なきゃ教える資格もないでしょ。」
みのりは当然のことのように言った。
「先生になるための試験は、もっと難しい?」
遼太郎は、これよりもっと難しい問題があるのかと、驚いた。
「当り前よー。こんな問題解けるようになる生徒を育てられる人の試験だもの。だけど、難しければ難しいほど、問題を解く時に楽しくなるでしょ?」
――いいや、全然楽しくなんてならないけど……。
と、心の中で反論したが、遼太郎は口には出さなかった。
「学問の世界は奥深いのよ。難しい事でもなぜだろう、どうしてだろう、って考えて結論を出すという過程を何度もたどってると、自然に知識は身に付いてるものじゃないかな。」
話題自体が難しくなってしまって、遼太郎は言葉を返せなくなる。
……でも、このまま勉強を続けていけば、みのりと対等に話せるようになるのだろうか。そのためだったら、遼太郎はもう少し頑張れそうに思えた。
「確かに、狩野くんはこんな問題には慣れてないから、正直しんどいんだろうとは思ってるよ。でもね、きついなぁ…厳しいなぁ…って思うことをしなきゃ、人間は成長できないものなのよ。ラグビーのことはよく解らないけど、ラグビーだって、一番きついと思うことを克服できないと、強くはなれないでしょう?」
みのりのこの言葉は、〝ドキン!〟と遼太郎の心に響いた。
きついことから逃げ出したいと思っている今の自分を顧みて、遼太郎は唇を噛んだ。
今みたいな自分では、きっとラグビーでも強くなれず、また都留山高校に惨めな敗け方をしてしまうだろう。
「狩野くんは、進路については、どんなふうに考えてるの?」
いつもは怒涛のように日本史のことばかりまくし立てていたみのりが珍しく、日本史以外の話題に触れた。
難易度の高い演習問題に対して、ちょっと遼太郎が息切れしているのを見て取ったからだった。
「いや、まだはっきりとは決めてないんですけど……。」
と、遼太郎ははっきりしない言葉を途切れさせた。
「決めてないって、指定校推薦のために私立文系クラスにいるんじゃないの?」
「それは、そうなんですけど……。」
「だったら、もう早く決めて動き出さないと、あっという間に選考のある秋になっちゃうよ?」
「…….はあ……。」
歯切れの悪い遼太郎に、みのりは歯がゆい思いがした。
「どの大学の指定を受けようか迷ってるの?」
「いや、大学は大体決めてます。」
「なんだ、決めてるんじゃないの。どこの大学?」
「…あの、法南大学がいいかな…と。」
「おお!法南大学。優秀な大学よね。法南大学って環境学部が有名だけど、狩野くん、もしかしてそういう方面に興味があるの?」
みのりは遼太郎の未来の可能性を想像して、とても楽しそうに身を乗り出した。
しかし、当の遼太郎は渋い顔をしている。
「どうしたの?環境学部、問題ある……?」
頬杖をついて、みのりは遼太郎を覗き込んだ。
「いや、そうじゃなくて。校内選考の頃から推薦入試の頃って、花園の予選で大変な時だし、入試にだけ集中できないから、俺には無理かなぁ…って。」
遼太郎は身を引いて、消極的な気色が漂う表情をみのりから見られないようにした。
しかし、みのりは逃れさせてくれなかった。その瞬間、目の前にあるみのりの眼差しが、いつもの柔らかいものから鋭いものに豹変した。
「狩野くん、ダメだよ。そんなこと言ってると、絶対後悔する。やってみてもないのに『無理かも』なんて、スポーツする人とは思えないな。指定校推薦の指名も、花園出場も、どっちも手に入れるチャンスはまだあるんだよ。……だったら、両方手に入れるの。」
みのりはさらに言葉に力を込めて、シャープペンシルを持つ遼太郎の右手をギュッと握った。
「頑張れ、頑張れ!って、無意味に連呼するのは好きじゃないけど、ここぞって時は踏ん張って、本気で頑張らなきゃ!〝諦める〟のは、本気で頑張った人だけが許されることなのよ。」
遼太郎は、まだ十八歳だ。こんなに若いのに、諦めてほしくない。遼太郎に、夢を叶えてほしい。……そんな想いが、みのりに言葉を尽くさせた。
双方の話が途絶えた時、みのりはハッと我に返って手を引っ込め、そして急に不安になった。
「ごめん……、私。担任でもないのに、差し出がましいよね。ちょっと言い過ぎたかも……。」
「いや、先生の言ってることは正しいと思うし、言ってもらって良かったです。」
そう言う遼太郎の表情に、みのりは優しさと意志の強さを感じ、少しホッとする。
それから、目を窓の外に移して、夏の朝の輝く空を見上げた。少しひんやりした空気を吸い込んで、目を細める。
遼太郎はしばらく黙って、そんなみのりの綺麗な横顔を眺めていた。
「……先生。」
遼太郎から呼ばれて、みのりは遼太郎に向き直って、いつもの柔らかい眼差しを注いだ。
「俺、頑張ります。法南大学の指定校推薦に指名されるように……。それに、ラグビーも。」
遼太郎が自分の決意を宣言すると、みのりは嬉しそうに微笑んだ。
「うん……!何でも力になるから、応援させてね!」
みのりのその微笑みと言葉は、たった今も遼太郎を力付けてくれた。なんだか、未来が明るく拓けていくような気がしてくる。
それから、みのりは我に帰るようにチラッと腕時計を確かめて、演習問題のプリントを片付け始めた。
そして、気を取り直したように、いっそう明るい笑顔を向けてくれる。
「大丈夫!狩野くんならきっとなんでも出来るよ。それで、それを乗り越えられた時に、きっとなれるから!!」
みのりがさらに勇気づけるようにそう言うと、遼太郎の顔に疑問が浮かんだ。
「なれるって、何にですか?」
「いい男に。」
にっこり笑いながら、みのりはプリントを遼太郎に手渡す。
みのりの言葉に、遼太郎は目を剥いた。
「……は?いい男!?」
「そうそう、いい男。外見だけじゃなく、心が鍛えられててこそ、いい男なのよ。」
「……!」
遼太郎はどぎまぎするのを隠せず、みのりを見つめる。
「狩野くん。是非、いい男になって!期待してるからね~。」
と、最後は冗談のように、みのりは笑って手を振った。
ちょうどその時、補習が始まる予鈴が鳴る。
「さ、今日の個別指導は、これで終わり。また明日ね?」
みのりが職員室へ戻ってしまった後も、遼太郎にはいろんな想いが渦巻いて、みのりに触れられた右手が妙に熱くて……、しばらくその場を動けなかった。




