個別指導 Ⅳ
進学校である芳野高校では、3年生の夏休みの補習は、16日間もある。
その毎日の補習が始まる前の1時間を、みのりは遼太郎の個別指導の時間に充てた。
9時から補習が始まるので、少し早いが8時に遼太郎を呼び出していたのに、あろうことか、みのりの方が遅刻をしてしまった。
昨日、祇園祭の補導の後、古庄と食事に行ったら、生活指導主任やその他補導に行っていた教員たちが合流し、宴会となってしまった。
飲めもしないのに、みのりははしご酒に付き合わされ、結局帰宅したのは日付が変わってからだった。
補導で歩き回った疲れも重なって、今朝は思いっきり寝坊をしてしまった。
みのりが急いで階段を駆け上がると、人気のまばらな職員室の入り口に、遼太郎が立っている。
遼太郎は登校してきても、肝心のみのりがいないので困っていたのだろう。
「ごめーん!狩野くん。すぐ行くから、あっちで待っててくれる?」
みのりは遼太郎の側を通り過ぎる時、渡り廊下の長机を指差した。
それから、自分の机に荷物を置いて、演習問題とノートと筆記具を持ち、みのりは遼太郎が座る傍らへと走って戻ってきた。
「ごめんね、私の方から言い出してるのに、遅れちゃって……、ホントにごめんなさい……。」
息も絶え絶えに、みのりが何度も謝るので、遼太郎は困り顔で首を横に振った。
遼太郎の隣へ腰かけた瞬間、みのりの身体中から汗が吹き出す。
「おはようございます。あー、暑いねー。」
タオルハンカチで顔の汗を拭きながら、みのりが微笑む。
「おはようございます。いやまだ、涼しいですけど。」
と、遼太郎は本当に涼しい顔で笑うと、この突っ込みにみのりもニッコリ笑った。
「そうよね、まだ朝早いものね。あー、でも走ったから暑い。汗が……。」
と、みのりは首の後ろに腕を回し、首にへばり付く髪をかき上げて、うなじの汗を拭いた。
みのりのこの仕草を見た遼太郎は、息を呑んでピクッと身を固くする。
「昨日は祇園祭だったね。」
まだ落ち着いて勉強という感じではないので、みのりはちょっと時間を置くために雑談を始めた。
「お祭りに行った?彼女とか連れて。」
そんなみのりの問いを聞いて、遼太郎は椅子から滑り落ちそうになった。
「……い、行ってないし、彼女もいません。」
遼太郎が真っ赤な顔になったので、みのりはもっとからかいたくなる。
「なんだぁ、行かなかったの。でも、彼女がいたら絶対行ってたよね~?」
からかわれていることを感じ取って、遼太郎もムキになって反論する。
「いても、どうせ行けません。部活があって。」
「あら、部活?でも、昨日二俣くんは山鉾を牽いてたわよ?」
「ふっくんは、昨日は特別に休みをもらったんです。」
みのりは「成る程」というふうに頷いてから、おもむろに演習問題のプリントを遼太郎の前に広げた。
「……先生は古庄先生と祭りに行ったんですか?」
不意に出てきた遼太郎の逆襲に、みのりは目を丸くして遼太郎を見つめる。そして、無意識に、
「………何で?」
と、つぶやいていた。
「昨日、部活が終わって自転車で帰ってる時、若宮の郵便局のところを、二人で歩いてるのを見ました。」
遼太郎が誤解しているらしいのが可笑しくて、みのりは忍び笑いをした。
「それで?私と古庄先生が、仲よくお祭り見物に行ってたと思ったわけ?」
遼太郎は訝しげに口をへの字にして目を逸らし、無言でうなずきもしない。
「昨日はね。古庄先生と祇園祭の補導に行かされてたの。夜まで仕事してたんだから、『先生、大変だね』くらい言いなさい。」
と言いながら、みのりはポンと遼太郎の背中を叩いた。
「……先生、大変だね。」
遼太郎がしょうがなく反復すると、みのりはフフフ…と笑って、上目遣いに遼太郎を見た。
遼太郎は誤解していたのが恥ずかしかったのか、唇を噛んではにかんだ笑顔を見せた。
「さて!始めましょっか。」
みのりが机向き直ると、遼太郎もシャープペンシルを握った。
夏の朝の涼しい風が、正面の窓から入ってきて、みのりの肩に着くくらいの髪が揺れた。その髪を耳にかけると、耳に小さなピアスが光る。
なぜかホッとしていた遼太郎は、すぐ隣にあるその光景から、少しの間、目が離せなかった。




